木のお話

 今回は“木”についてお話します。わが国では、良質の木材が豊富で、建築にしろ、仏
像にしろ、木の文化財が多数あります。

 建築では、西欧は構造材の木材を木筋として厚い壁などを塗りこめる“大壁造”である
のに対して、わが国の寺院では柱と柱の間に壁を入れる“真壁造”で、当然柱は人目に触
れますから構造材というより装飾材のウエイトが高いのであります。但し、禅宗寺院では
柱と柱の間は板壁となっています。

 法隆寺の中門、唐招提寺の金堂の柱など、木目の美しさだけでなく、堂々たる威厳を発
揮するものとなっております。柱に触れると、新しい桧柱の新鮮な香り、肌触りも何とも
言えませんが、長い年月を感ずる雨風によって作られた木肌の文様に、木の温もりを感じ
るだけでなく、柱に耳を当てると悠久の昔からお参りされた方々の感動の声が凝縮されて
おります。その唐招提寺の金堂も解体修理に入り、工事期間は8年位要すことでしょう。「鬼のお話」で記述しました有名な“鴟尾”も残念ながら、目に触れることは出来なくな
りました。 

 法隆寺の金堂、五重塔など、木の建造物が1300年間もの長い間残っていることは奇
跡と言え、石やレンガの建物を見て過ごしてきた西欧人には到底理解できないことでしょう。それに、世界最大の木造建造物である東大寺の大仏殿は、優れた工人、豊富な銘木が
あればこそ、建立出来たのであります。

 一方、仏像の材料は「古都寧楽の匠たち」に書きましたように天平時代までは世界でも
例を見ないような多彩です。ところが平安時代になりますと一部写実性が問われる肖像彫
刻を除くと木彫像ばかりと言っても良いくらいです。それはなんと言っても国土の7割が
山で、樟、桧など彫刻に向く素材がふんだんに得られたからでしょう。

 それに比べて何故、奈良時代まで木彫像が少ないのは、霊木信仰があったため、しめ縄
が張られ神木となっていた樟とか、天の神様であった雷が落ちた霹靂木などしか仏像の材
料にされなかったため、木彫像の制作が少なかったのと、それら材質が悪く限られた一木
から仏像を制作したために朽ち果ててしまったのかも分かりません。余談ですが、平安時
代からは天の神様は菅原道真(天満大自在天天神)に変わります。

 経典には檀木を使用しなさいと説かれているのに、樟が使われたのは、樟は白檀と同じ
ように芳香があるのと、少々切れ味が悪い刀でも逆目が出ることなく、彫刻が出来たから
です。以前、彫刻師の人にお願いして樟と桧を同じ刀で削ってもらうと、樟の方は削った
面はきれいな艶がありましたが、桧の方はそれほどきれいに仕上がっていないように見え
ました。

 白檀は貴重な材だけに、精緻な彫刻、華やかな装飾にどれだけ力を注いだか、法隆寺の
九面観音像(中国より請来)をご覧になれば、その出来映えが神業(技)としか言いよう
がないことを理解されると同時に感激されること間違いありません。

 建築はずっと桧でしたが、彫刻は刀の切れ味の関係上、時代は少し遅れて樟から桧に変
わります。
 樟(広葉樹材)や桧(針葉樹材)が多く使われたのは、縦挽き鋸がなかったため、楔や
斧で割るため真っ直ぐに割れる性質の木が要求されたのと、素直に育った巨木が得られた
からでしょう。それと桧は伐採してから300年間は逆に木の強度が増し、約千年後に伐
採当時の強さに戻るという驚くべき耐久力があります。昔の人はこの生命力と材料の生か
した使い方を知っていたのかと感心させられます。ただ、近年は桧の皮である桧皮が不足
して社会問題になっておりますことは、皆さんご存知の通りであります。

 その昔、刹は木造塔の心柱と言う意味と寺院全体を表わし、名刹(寺院)とか言われて
おります。また、神体、位牌を一柱(はしら)、二柱と数えます。諏訪大社はじめ多くの
御柱祭をはじめ、鎮守の森といい、巨木信仰といい、木の文化国での日本人の木への思い
の強さが感じられます。