寺院建築−江戸時代

 「江戸時代」は1603年(慶長八年)から1867年(慶応三年)までの265年の長きに亘りま
した。また、江戸時代は徳川氏が権力を一手に握り国政を統治しておりましたので
「徳川時代」とも言います。
  寺院建築はそんなに多くは残っておりませんが仏教寺院以外では神社、城郭の優れ
た国宝建造物が多数現存しております。
 細部構造の装飾彫刻に力を注いだ結果、彫刻が充満された華やかな建築が誕生いた
しました。

  江戸時代は大坂冬・夏の陣などが起こりましたが町並みが灰燼に帰すような内乱も
なく庶民にとっては平和な時代とも言えるものでした。しかしその反面、江戸時代の
仏教教団は行政機関に組み入れられ、幕府は教団を通じて国禁のキリシタンの監視を
請け負わせたため庶民はいやおうなになしに仏教徒にされました。このように信仰の
自由を統制したのは我が国の宗教史上かってない出来事でした。

  古都奈良の寺院が今日あるのは徳川綱吉の生母たる「桂昌院」が仏像、堂塔の保存に
多大な援助、貢献をなされたからでしょう。その意味で古都奈良にとっては大恩人と
いえる方で「生類哀れみの令」では悪女にされましたがそれはそれなりの事由があった
ことでしょう。古代寺院は葬儀を執り行わないので檀家も存在せず貧困状態を余儀な
くされた時代が最近まで続きましたのに、それが今日「古都奈良」といえる姿を留める
ことが出来たのは「桂昌院」が居られたからだとは言い過ぎでしょうか?

  「日光東照宮」「瑞龍寺」「東大寺金堂」は掲載済み、「崇福寺」は未だ訪れていないのと
「延暦寺根本中堂」は回廊内での撮影不可のため掲載できません。ですから、今回の掲
載は「善光寺本堂」「知恩院御影堂・三門」「清水寺本堂」「東寺五重塔」「長谷寺本堂」とな
りました。 

 

  「善光寺」は 真北に進むと仁王門、山門、金堂がある配置で堂宇が南北線上にある
古代の伽藍形式です。
 本尊は「阿弥陀三尊像」で、光背が一光三尊形式という「法隆寺金堂本尊」と同形式で
す。お寺によると全国には443の「善光寺如来分身仏」があると言われ全国的に善光寺
の浄土信仰が布教しております。
 ただ、「本尊」は一時期善光寺を離れ諸所の寺院に安置されたという稀な経歴をお持
ちでそれだけ霊験新たかな如来として盛名を轟かせていたといえるでしょう。現在、
本尊は永久秘仏で拝むことすら叶わず、
御身代わりとして「前立本尊」が安置されてお
りますがその
前立本尊のご開帳も7年に一度というものです。
 善光寺は無宗派ですが管理は天台宗と浄土宗の2宗で行われております。2宗管理
と言えば当麻寺は真言宗と浄土宗の2宗管理です。 

  それと、「西国三十三ヶ所観音霊場」と東国の代表的な観音霊場「坂東三十三ヶ所観
音霊場」「秩父三十四ヶ所観音霊場」の両霊場とを併せたものを「三大観音霊場」ないし
「日本百ヶ所観音霊場」と呼ばれております。これら
「百ヶ所観音霊場」の巡拝で結願を
果たした場合そのお礼として「善光寺」と「北向観音」に参詣する習わしがあります。
「北向観音」は別所温泉にあり「安楽寺三重塔」とは徒歩で10数分の距離関係にあります。
 北向観音の北向きに対し善光寺が南向きなので、南・北両方の仏さんを礼拝しなけ
れば片詣りとなり結願お礼を果たしたとはいえません。
 
 
「善光寺」は信濃にあり「信濃では月と仏とおらがそば」と詠われておりますが仏と言
えば善光寺の本尊のことです。
 古都奈良には秀仏が多く存在いたしますので「菊の香や奈良には古き仏たち」となり
仏像を訪ねる旅なら何といっても奈良以外にないでしょう。
 私は40年ほど前2年余り長野で営業活動しておりましたが、そば皮の入った黒そ
ばが好きな私に対してその頃お世話頂いた地元の方はそばの実だけで作った白そばで
ないと本当のそばでないと口酸っぱく言われました良き思い出があります。それが、
年老いた今日では白そばの方を好むようなりました。


             本堂(善光寺)

  「本堂」は間口5間、奥行14間、桧皮葺、裳階付きです。撞木造(しゅもくづくり)
といわれる屋根の形がT字型となっており独特のものです。撞木とは鉦、鐘などを打つ
T字型の法具のことです。妻入りで向拝も三間と広いです。奥行(桁行)が非常に長くそ
の構成は内内陣、内陣、外陣となっております。全国各地から訪れる多くの参詣者を受
け入れるには外陣だけでは狭いと思われましたが、ありがたいことに信者は内陣、「お
戒壇めぐり」の出入口のある内内陣まで入ることが許されています。
 江戸時代は装飾彩色、装飾彫刻が華麗になりますのに創建当初の伝統的な様式を守っ
たのは、庶民の信仰を集めた寺院だけに華麗になるのを避けられたからでしょう。                    


 正面        側 面

  
   

    正 面
 

 

 

側面

 

  側面には一間向拝が付きます。

  屋根の俯瞰図で、撞木造(T字型)の棟に
 なっております。

  妻飾は素朴で簡素ですがよく整備されて
 いて美しいです。

  中備は古風な撥束、柱は禅宗様の粽、
 連子窓は連子子の間隔が広い古い様式。

 鳩が参詣者と戯れておりその鳩の糞被害から建築を守るためネットが張られていて写
真撮影は難しいです。亀腹にも鳩被害防護柵が設けられております。                    

 

  「知恩院」は「法然上人」が浄土宗の総本山として開山されました。
 浄土宗は、修業をせずともただ念仏を唱えるだけの信仰で極楽往生できると説く、今までの外来仏教に対し日本仏教といえるものでした。仏教が一部の特権階級のた
めの信仰でありましたのが、一般大衆をも仏教徒にした意味でも記念すべき寺院と
いえるでしょう。徳川氏の庇護が厚く江戸時代に寺域が整備され栄えました。


        三 門(知恩院)

 「三門」は西向きで五間三戸です。高い石段上にある三門は圧倒されるような巨大さ
で我が国最大の三門の名をほしいままにしております。
  立て看板には「平成23年 元祖法然上人 八百年大遠忌(だいおんき) 総本山 知恩院」
と書かれております。
 三門までの階段、三門から御影堂までの階段は段差がある急な階段ですが、そこは
庶民信仰の寺院ですので三門の横には女坂という楽に本堂までたどり着ける参道が設
けられております。多くの方はその参道を利用されており三門を通る方は僅かでした。


       山 廊

 「三門」の両脇に設けられた「山廊」の中に階段がありそこから階段を上がり上層に行
きます。

台輪木鼻、頭貫木鼻、粽    花頭窓       礎 盤

  細部様式は詰組の組物、木鼻、台輪、柱の粽、花頭窓、礎盤、上層が扇垂木、下層が
平行垂木、鏡天井(上層)などすべて禅宗様そのものだっただけに「寺院建築−禅宗様」で
掲載すべきでした。  

 京都の「特別拝観」に合わせて上層階に上がって見ました。三門の左右には山廊という
簡素な建築がありその建築の中から上層への階段がありますがその階段たるや急な階段
で敬虔な精神に統一するための修業の階段でもありました。上層階は儀式が行えるよう
荘厳された仏堂となっております。そして須弥壇には「宝冠釈迦如来像」が安置され脇侍
は十代弟子の「荷葉と阿難像」と思っていましたら「善財童子と須達長者像」でさらに両脇
には「十六羅漢像」が八体ずつ安置されておりました。宝冠釈迦如来を見ましたのはミャ
ンマ以来で古都奈良ではめったにお目にかかることが出来ません。と申しますのは古代
の如来は一切の装飾、持物を身に付けないからです。それと古代寺院では上層階に尊仏
を安置し儀式を行うことは致しませんでした。上層階を設けるのは建築に威厳をつける
目的のためだけで利用することはなかったのです。
 上層階の天井は禅宗様の鏡天井で迦陵頻伽(かりょうびんが)、龍、楽器などが極彩色
で美しく所狭しと
描かれております。余談ですが西欧のドラゴンには羽がありますが我
が国や中国の龍には羽がない代わりに雲をつけた雲龍となります。

   


          御影堂(本堂)

  「御影堂」は浄土宗の開祖「法然上人」の御影をお祀りした堂で、知恩院では最大の
建築でもあり最も重要な建築でもあります。三門を潜り急な階段を上がると本堂が南
向きに建立されており前庭も広く威風堂々たる建築です。御影堂が伽藍の中心的な殿
堂であることは浄土宗の本山智恩院を開山された上人を敬ったからでしょう。 
 桁行11間、梁行9間、入母屋造、背面三間向拝、本瓦葺です。正面が5間向拝と
広くしかも梁行9間のうち6間を外陣・礼拝場所にしています。内陣が3間ですから
その倍のスペースを確保したのは多くの民衆を受け入れるためでありましょう。

 「破風」に充填された秀麗な絵様彫刻は防護ネットで詳細に見ることが出来ません。                

 桟唐戸と内側に格子戸

     中備に双斗・蓑束、台輪、粽

 「向拝」の装飾は華麗な彫刻ですが現在はネットで保護されていて詳細に見ることが
出来ません。写真は1991年撮影です。

 

  


            阿弥陀堂

 阿弥陀堂」は「御影堂(本堂)」より小ぶりですが参詣者が西方極楽浄土に向って拝ま
れますようお堂は東向きに建立されております。

   

   「清水寺」に関しては「三年(産寧)坂」とか「清水の舞台から飛び降りる」とか物騒な
話がありますが京都では一番人気がある寺院でしょう。春の桜、秋の紅葉の名所でシ
ーズンともなればテレビで何回も放映されるくらい自然環境をうまく取り入れた伽藍
配置です。 
 昔は、「寺院建築−鎌倉時代」で紹介致しました「石山寺」と後述の「長谷寺」と並んで
観音霊場として貴族や女性に厚く信仰されたそうです。


         本 堂(清水寺)

  「本堂」は「懸造」となっており正面からの撮影は無理ですがぐるっと回れば絶好の
撮影場所「奥の院の舞台」が用意されているという観光客の心を魅了する巧みな心配り
でここからの眺めも絶景です。紅葉の季節は見事な眺めになっていることでしょう。
懸造の舞台が設けられておりますので「舞台造」ともいいます。

 本堂は桧皮葺で正堂は寄棟造、礼堂と舞台は入母屋造となっております。複雑な構
造で難し過ぎて解説することが出来ません。
 度重なる法難に遭遇した本堂はいつの時代から現在の形になったのでしょうか?

 「蔀戸」は一枚扉で今まで見てきたものは内側に蹴上げる方式でありましたがこの
扉は外側へ蹴上げております。


      絵様肘木


        板蟇股

 

 「清水の舞台」からの眺めは素晴らし
く多くのリピーターを生み出す要因と
もなっているのでしょう。眼下にパノ
ラマの京の町並みが望めます。
 昨年(2004)舞台の床板の張替え工事
が実施されましたがこの工事は年を経
ることに早まっているとのことで、そ
れだけ参詣者が増えている証でしょう。
 舞台の床が板張りでメンテナンスが
大変ですが板張りだからこそ温かみが

あって観光客にほっとする和みを与えていることも事実でしょう。
 創建当時もこれ程舞台は大きかったのでしょうか?舞台造といわれるところから考え
ますと法要がこの舞台で実施されたことでしょう。
 昨年末行われた京都「観光文化検定」の公式テキストで「清水の舞台の高さは「13m」
であるのに「31m」となっていたためニュースとなりました。   
 「懸造」といえば「東大寺二月堂」「室生寺金堂」「長谷寺本堂」がありますが平地伽藍の東
大寺の場合は広大な境内地を要していたのに懸造にしたのは礼拝場所の増設という時代
的要請によるものでしょう。  


     音羽の瀧

 「音羽の瀧」は天下の名水として名高く水が余りにも清いので「清水寺」という寺名の
由来になったらしいのですが、この説が正しいと未来永劫言える様環境を守りたいも
のです。流れ落ちる霊水の御利益に預かろうと老若男女が順番待ちをしております。
音羽の瀧は本堂を撮影した場所・奥の院の崖下にあります。      

 

  「東寺」は大師霊場で、毎月開催される「弘法市(弘法さんの縁日)」は大勢の方々で
賑わいを見せております。
 京都では珍しい平地伽藍ですから疲れず回ることが出来ますので多くの方が参詣さ
れ寛ぎの時間を過ごしていらっしゃいます。
 国家鎮護のイメージは感じられず現在は庶民信仰の寺院そのものとなっております。
 我が国だけでなく世界的にも密教美術の宝庫といえる寺院です。


     五重塔(東寺)

  「五重塔」は高さ約55bで我が国最大の塔高を誇るだけでなく京都のシンボル的存
在といえます。南北一直線でならぶ堂宇ですが五重塔は金堂に向って右手前にあります。
塔と金堂との関係で言えば醍醐寺も同じ伽藍配置です。
 最大の塔だけに写真撮影は難しかったです。境内には多くの樹木が植えられておりま
すのと築地塀が塔に接近した東・南側にあったりしてどうもこの塔は近くで眺めるもの
ではなく遠くから眺めるものだと思いました。それゆえ、塔は昔の旅人にとって京の都
のランドマークだったことでしょう。江戸時代の再建でありますが木組みは太く安定感
のある感じがいたしました。


        初層部分

  

 板唐戸、両脇間は連子窓、間斗束など古代の様式を踏襲しております。ただ、高
欄の中央が開くのは創建当時の様式でしょう。全体的に伝統的な技法を継承しております。

   

   「長谷寺」は古くから観音信仰の寺として色んな物語に出てまいります。
 四季折々の花で彩られた「花の寺」として有名ですがとくに「牡丹寺」と愛称されるく
らい牡丹の時期は多くの自然愛好者で賑わっております。
 石楠花の「室生寺」とは近接しておりますが石楠花、牡丹の花の咲く時期が微妙に
ずれて同時の花見は難しいようです。それとまた、11月にガイドでご一緒した方は
昨日、室生寺と長谷寺を回って来ましたが室生寺は紅葉には少し遅かったが長谷寺
は見事でしたと興奮気味に話しておられましたので紅葉も少しずれがあるようです。
ですから、長谷寺と室生寺には時期をずらしてお越しください。
  真言宗豊山(ぶさん)派の総本山でお寺の説明では末寺が3千余ヶ寺もあるとのこ
とで古都奈良では驚くべき末寺の数です。    


      仁王門(長谷寺)

  「仁王門」は度重なる火災、再建を繰り返し現在のものは明治時代の再建です。


         登 廊

  「登廊(のぼりろう)」は階段が399段
ありますが写真でお分かりのように段差
は極端に低く大変楽に登れますが、途中
から通常の段差になります。このような
回廊形式は奈良では珍しいものです。中
央につられた灯籠は「長谷型灯籠」といわ
れるものです。
 札所だけに千社札がべたべたと貼られ
ております。

 春になれば登廊の両側に牡丹が咲き乱れそれは見事な眺めとなります。登廊と言えば
お水取りで知られた「東大寺二月堂」にもあり、二月堂の登廊を豪壮な松明が担ぎ上げる
風景は皆さんもお馴染みの筈です。
   
 仁王門から階段を右に折れ左に折れ上がって行くと鐘楼門の下に着くます。鐘楼門と
本堂とは隣接しております。                      

  
  床下の束柱で右側が本堂、左側が舞台
 部分です。


      鐘楼門  

 「鐘楼門」の上層で一人の若い僧が法螺貝を吹いて居られましたがそれは正午の
時報だったのです。鐘楼門ですので鐘が撞かれるものと思っておりましたのに。


        本堂(正面・南面)


      本堂(西面)


      本堂(東面) 

 「本堂」は昨年(2004)10月国宝に指定されました。これで奈良県の国宝指定建造物は
63棟にもなりました。本堂周辺は鬱蒼とした樹林で全景写真の撮影は無理でした。紅
葉の季節は紅葉の紅と空の青を背景とした本堂が一際引き立ち風光明媚なものとなって
いることでしょう。

                   正 面

                   西 面

      中備は撥束

   禅宗様木鼻    大仏様木鼻


      相の間


       外陣(内舞台)

  左側に内陣、右側に内舞台そ
 して舞台があります。
  左側に相の間、右側に舞台があります。

 参詣者は相の間から内陣に安置された本尊「十一面観音」を拝みます。十一面観音 像
は1
018.0cmという我が国で最も大きな木造仏です。左手に宝瓶、右手に錫杖を持ち石
座に乗るという特異な造りで「長谷型観音」と呼ばれております。この観音さんを真似
た本尊を安置された長谷寺が各地に多く建立されております。 
  相の間は通常石敷で造られますので石の間とも言われます。石敷で禅宗様の四半敷
です。相の間を自由に通れるのは珍しいことです。
内陣、相の間、外陣、舞台の複合
建築です。 


        舞 台

 舞台から、紅葉には少し早く今ひとつ


   本堂の南縁から 

 

 

 高欄付きの縁と長谷型
灯籠、左前方にかすかに
見えるのは「五重塔」です。
三方に縁を巡らせており
ます。

 
   「五重塔」
 紅葉のシーズンには映
え映えしい五重塔とで一
服の絵となっていること
でしょう。