般若寺

 「般若寺」は、寺伝によると遠く飛鳥時代の開創という名刹寺院とのことです。宗派
は西大寺の叡尊が再興したのをうけて「真言律宗」、山号は「法性山(ほっしょうざん)」
です。

 般若寺の名称は「般若経」から付けられたもので、それ故般若経と強く関わりのあっ
た「文殊菩薩」を本尊としております。
 「般若」とは「智慧」という意味ですが我々が知るのは「嫉妬に狂った鬼女を表した般
若の面」「般若湯(酒)」などがあり、それになんといってもお経と言えば「般若心経(は
んにゃしんぎょう)」であります。

 般若寺が位置する所は、南都と平安京との主要な交通路上にあるのと、興福寺は平
城京が見通せる高台にありますが般若寺はその興福寺、東大寺もがよく見通せるとい
う恰好の軍事的な要衝にありました。度重なる内乱の際には陣営として活用しようと
するものと逆にそうはさせまいとする双方の戦いの犠牲で甚大な被害を被っただけで
なく明治の廃仏毀釈でも損害を受け今では当初の大寺院の面影を偲ぶことは出来なく
なりました。

 昔、般若寺といえば医療施設を備えて病人や貧困者の救済事業に力を注いだという
庶民にはとっては大変有難いお寺だったようでその証が後述の「北山十八間戸」でしょ
う。 

 

  境内一杯に咲き乱れる「コスモス」が有名でそのコスモス畑に蝶が舞うのどかな風景
を醸し出す般若寺です。般若寺は「関西花の寺二十五ヵ所」の17番札所です。参考まで
に15番札所が紫陽花の「岩船寺」、16番札所が馬酔木の「浄瑠璃寺」、20番札所が牡丹の
「石光寺」、21番札所が石楠花の「当麻寺西南院」です。

 


         今 在 家(バス停)

 バスで「手貝町(東大寺転害門)」の
次がバス停「今在家」です。この今在
家の交差点をまっすぐに上がる道が
「奈良旧街道」で少し登り道ですが般
若寺に向かいます。
 この交差点を右に取ると新国道で
柳生・奈良山を越えて京都に向かい
ます。
 見えます「橋」は「佐保川」に掛かる
ものです。

 


          佐 保 川

  「佐保川」は、昔、和歌に詠まれた清流
の面影はなく少し汚れております。
江戸
時代は蛍の名所として庶民の憩いの場所
となっていたらしいのですが。
  春日山を水源としここから大和郡山を
抜け大和川に合流しております。水は川
の左側を僅かに流れる程度で、流路は後
世に改修されたとしても船が行き交い、
農業の灌漑用に利用されたとは想像出来
ない現状です。
 
正面の山は三笠山でこの山裾をぐるっ
と回って水源の春日山に至ります。

 

  バス停は 「今在家」「東阪町」「般若寺」と続きますので、徒歩で「般若寺」「夕日地蔵」
「北山十八間戸」を訪ねられる方は、バス停「般若寺」で降りて回られますと途中下り道
となりますので疲れず楽です。

 


                北山十八間戸

 バス停「今在家」から間もなくわが国最古の病院として著名な「北山十八間戸」ですが
気をつけていないと通り過ぎてしまいます。
 「法華寺のお話」で「光明皇后」が治療されたわが国最初の「ハンセン氏病(癩)」患者の
病院だった所らしいです。江戸時代の再建とはいえ管理がよく行き届いたきれいな建
物です。しかし、鎌倉時代に、「文殊菩薩」に深く帰依された「西大寺」の僧「忍性」によ
って創建されたとの説もあります。忍性はハンセン氏病などの救護と治療の慈善事業
に大変尽くされましたのでその功績に報いて諡号「忍性菩薩」が贈られました。それと、
忍性は
般若寺の再建に尽力されましたので般若寺が慈善救済事業を盛んに行われてい
た影響でこの病院を創設されたと考えるのが穏当かもしれません。
 最近までハンセン氏病の方は世の中から悲惨な虐待を受けしかも家族から強制的に
隔離される境遇でしたからこの北山十八間戸は別天地だったことでしょう。

 


         夕 日 地 蔵

  「夕日地蔵」は「北山十八間戸」を北へ僅かの
筋にあり大きな石仏であります。
 「地蔵菩薩」は、お釈迦さんの涅槃後、お釈迦
さんの跡継ぎである「弥勒菩薩」が「弥勒如来」に
なるため、兜率天で修行される56億7千万年
という長き無仏時代、我々を救済してください
ます。
 しかし、わが国ではもう既に弥勒如来がおら
れるので、地蔵菩薩は子供を守る本尊だけでな
くあらゆる病気を治していただける有難い菩薩
でもあります。
 夕日地蔵は慈愛溢れる微笑み地蔵であるのと

菩薩の中でも唯一のお坊さんの姿でありますのが多くの方に親しまれる所以でありま
しょう。 
 錫杖と宝珠を捧げ持つのは地蔵菩薩の定形であります。

 

 

   

 肩肘張らずに入山できる般若寺の「入口」
です。入口からも創建当時の大寺並の広大
な寺院だった面影は見当たりません。

 


         鐘 楼


       
彼 岸 桜   

 「コスモスの般若寺」と言われるくらい秋のシーズンには一山がコスモスの茂る花園
となっております。


              本  堂


            本 堂

 「本堂」は「十三重石塔」に比べてこじんまりとしております。
  本堂は南面して建っておりますが現在の入口では金堂の裏側に入ることになり後述
の「楼門」から入る方が金堂の正面に出るので適しておりますが、楼門前では受付する
場所がなく難しいようです。


    禅宗様の「木鼻」


              蟇  股

 

 
      文 殊 菩 薩 像

 本尊の「文殊菩薩像」は獅子座の上に結跏趺坐して
おります。桧一木造で、髪の毛、眉、目玉、口唇だ
けに彩色という「檀像風」に仕上がっております。
 「厨子内」に安置されておりますので暗くて拝見で
きませんがそこは庶民のお寺です。参詣者が「文殊
菩薩」の前に来ますと「ライト」が付くという心配り
です。
 「台座」の獅子は立派なので文殊菩薩は仏敵を気に
することなく向学心に燃える人々に知恵を授けてく
ださることでしょう。
 文殊菩薩は「普賢菩薩」とで「釈迦如来」の脇侍です。
普賢菩薩は単独で祀られることは少ないですが単独
の文殊菩薩は智慧の菩薩として多くの信仰を集めて
おりますのは皆様ご存知のとおりです。また、文殊
菩薩はお釈迦さんと同じく実在の人物と言われてお
りますが、インド、パキスタンでは実在の確認どこ
ろか文殊菩薩の仏像も見当たりませんでした。しか
も、インド、パキスタンでは釈迦如来の脇侍といえ
ば弥勒菩薩と観音菩薩でした。
 
般若とは智慧のことですから本尊は智慧の文殊菩
薩であります。 
 普賢菩薩は白象に乗っておられます。

 文殊菩薩と在家の知恵者「維摩居士」が法論を戦わせる有名な場面が「法隆寺五重塔」
の塔本四面具の東面にあります。
 中国の「五台山清涼寺」は文殊菩薩の住処とされておりますので当然本尊には文殊菩
薩が安置されております。
 
「三人寄れば文殊の智恵」の諺も最近は死語となりつつありますね。

  

     
       楼   門

  「楼門」は門では数少ない国宝の一つと
いう貴重な建物であります。
  旧京街道に面する西向きの建築となっ
ております。このことは、楼門は正門で
はなく西門だったのでしょうか。現在、
楼門からの出入りは出来ません。
 一間一戸の楼門は寺院では珍しいです。
 わが国では楼門が好まれ楼門の建築が
多くなります。よくぞ焼失せずに残った
ものですが訪れる方々は山吹、アジサイ、
コスモスの写真撮影に熱中してこの優美
な楼門にはあまり興味を示されず大変残
念なことです。


 上層階は丁寧な装飾がなされ見栄えよくしております。

 「楼門額」に見える疵は戦乱により打ち込まれた矢の跡といわれておりますがもし
そうだとすると般若寺は歴史の争乱の渦中に巻き込まれた悲しい証ですね。


  楼門から十三重塔、経蔵を望む


       下層部分

 


       十 三 重 石 塔

  十三重塔(談山神社)

 「十三重石塔」は境内の中枢的な位置にあり高さも14.2mもある巨大な石塔で般若寺
のシンボルと言うべきものであります。コスモスに埋まって大きく聳え立っており一
際目立ちます。
 「木造塔」は多いですがこれだけ大型の「石塔」は数少なく価値あるものです。
これほ
ど巨大な石仏はめったにお目にはかかれないのに明治の廃仏毀釈では倒されると言う
災難に遭遇しております。
 木造の「十三重塔」の唯一の遺構が存在いたします「談山神社」は紅葉の名所と知られ
ております。
 「十三」は、西洋では不吉な数字ですが仏教では重要な意味の持った数字です。
 「十三」といえば「十三仏」で、私が子供の頃住んでいた町内に「おおさか十三仏」の一
番札所「法楽寺」がありました。
 十三仏とは「不動明王」「釈迦如来」「文殊菩薩」「普賢菩薩」「地蔵菩薩」「弥勒菩薩」「薬
師如来」「観世音菩薩」「勢至菩薩」「阿弥陀如来」「阿閦如来」「大日如来」「虚空蔵菩薩」で
す。
 十三仏は、故人の供養の仏事である亡くなられて七日目の「初七日」に始まり「二七
日」「三七日」「四七日」「五七日」「六七日」「七七日(四十九日)「百ヶ日」「一周忌」「三周忌」
「七回忌」「十三回忌」「三十三回忌」の時、浄土に導いてくださる仏様です。不動明王の
初七日から三十三回忌の虚空蔵菩薩と言うようにその忌日毎に十三仏が救済してくだ
さいます。最後の三十三回忌も「三十三観音」からきているのでしょう。しかし、最近
では「十七回忌」「二十五回忌」「五十回忌」「百回忌」もあります。
 ここまで長きにわたって法要を行うのはわが国独特です。これは常に先祖に感謝し、
先祖の冥福を祈りましょうと言うことでしょう。
 「法隆寺百済観音像」は明治の半ばまで、「十三仏巡礼」の結願である虚空蔵菩薩と呼
ばれておりました。
 余談ですが、わが大阪には「十三(じゅうそう)」という歓楽街があります。

 
     南面「釈迦如来象」     
 
    東面「薬師如来像」

  東面「薬師如来像」、南面「釈迦如来像」、西面「阿弥陀如来像」、北面「弥勒菩薩像」
という「顕教の四方仏」の線彫仏像ですが顕教の四方仏は数少ないです。
我が国の石塔
では「金剛界四方仏」が多いようです。


    現在の「相輪」


    旧の相輪

 創建当初の旧相輪は石塔の脇にありますがコスモス時期はコスモスに隠れています
のでご注意ください。

 


       経  蔵


 「鼻隠板(青矢印)」を設けるのは「大
仏様」建築です。

 境内は佐保丘陵の高台にあり、創建当時は人家もなく、「東大寺大仏殿」がよく眺
められたことでしょう。それで 「大仏様式」で建築されたのでしょう。
 般若寺の辺りは「大和」と「山城(背)」の国境に位置します。

 

 
  三十三所観音石像

  「
巡礼のお話」をご参照
 ください。

 

 
   笠 塔 婆

 「塔婆」とは、古代インドのサンスクリット語の
「ストゥーパ」が「卒塔婆」、「トゥーパ」が「塔婆」とい
うように音声を漢字にされたものであります。
 現在一般には、寺院で見られるのを「塔」、板塔婆
を「卒塔婆」、「塔婆」と言われたりもします。
 大きく見事な「笠塔婆」は、十三重塔を建立した宋
の石工「伊行末(いぎょうまつ)」の子息である伊行吉
(いぎょうきち)と言う方が亡父と生母のために建立
されたとのことです。        

 木製「板塔婆」が一番ポピュラーな塔ですが、石製
の「笠塔婆」でこれだけの大型はわが国でも珍しく代
表的な遺構です。

  

 

                           画 中 西  雅 子