仏堂のお話

  今回、「仏堂のお話」を掲載することにいたしましたが、寺院のどの建築までを仏堂
に含めるかで結論は出ずじまいでした。仏堂といえば寺院の多くの建築を表しますが
今回は「金堂」、「本堂」を主に掲載いたしました。
 寺院建築には和様、新和様、大仏様、禅宗様、折衷様と言う様式がありますが私自
身、和様と新和様、新和様と折衷様をどこで線を引くのか理解出来ておりません。我
が国の寺院は東南アジアの寺院のように手軽に入堂できず内部の構造が分からずじま
いの私では分類することできませんので様式がはっきり分かるものだけを記載してお
きました。
 これらの様式の根源は、大陸から伝来したものであるので大仏様、禅宗様、折衷様
で分ければ理解し易いですが。国が指定・登録・選定した文化財の情報を見ても建築
年代は記載されておりますが建築様式は記載されておりません。建築様式で分ける事
が出来ないので仏堂の紹介は北から南の順に並べました。
 「彫刻」の時代区分では白鳳時代がありますが鎌倉時代以降の国宝指定の彫刻は存在
いたしません。一方、国宝指定の建造物はどうかと言いますと白鳳時代は取り立てて
建築がなく白鳳時代という時代区分は無いようです。建築は彫刻と違って国宝指定が
鎌倉時代で終わりではなく江戸時代まで続いております。江戸時代の国指定国宝の中
には善光寺本堂、比叡山根本中堂、清水寺本堂、東寺金堂、東大寺金堂など大型の建
造物があります。白鳳時代の遺構を強いて挙げれば法隆寺の金堂、法起寺の三重塔で
ありますが確証はありません。国指定文化財での時代区分では2棟とも飛鳥時代とな
っております。

 中国では宮殿建築の様式を仏殿建築が模倣したのですが、我が国では中国の仏殿建
築の様式を仏殿建築に転用しさらに宮殿建築にも採り込んだのです。洋の東西を問わ
ず公式の建築は整然とした左右対称であり中国も同様でした。左右対称の建築の配置
は、見た目にはバランスが取れていて好まれましたが、我が国では最初の寺院
「飛鳥寺」こそ左右対称の伽藍配置でしたが左右非対称を好む傾向があり飛鳥時代には
もうすでに中国の左右対称の奥深い伽藍配置を真似ていない左右非対称形の伽藍配置
の寺院が建立されております。

 例えば7世紀頃の創建と考えられている「川原寺(かわらでら)」を見てみますと

  「川原寺」は当時の建築は何一つ残っておりませんが礎石群は見事に復元されてお
ります。南大門跡を入っていきますと中門跡に至りそこから右前方に「五重塔の基
壇」、左前方に「西金堂の基壇」があります。さらに進むと回廊が繋がっていた「中金
堂跡」がありますが現在、中金堂跡に「弘福寺(ぐふくじ)」が建設されています。当
時、川原寺は
弘福寺とも呼ばれており飛鳥寺、大官大寺、薬師寺と共に
「飛鳥四大寺」の一つに数えられたほどの官の大寺でした。平城京遷都には通例通り
寺院も移りました。飛鳥寺は元興寺、大官大寺は大安寺、薬師寺は薬師寺と言う寺
名で移りましたがなぜか川原寺は飛鳥に残ったままでした。
 余談ですが玄奘三蔵がインドから持ち帰った膨大な経典の翻訳を開始した由緒あ
る寺院は、唐時代に建立された「弘福寺(こうふくじ)・大慈恩寺」でした。
  「弘福寺(ぐふくじ)」は「こうふくじ」とも読むことが出来ますが平城京の「興福寺」
との関係はどうなるのでしょうか。
  
 「法隆寺」では、創建当初の「若草伽藍」は左右対称伽藍でしたがそれから数十年後
に再建した現在の伽藍は既に左右非対称伽藍となっております。

 我が国最古の寺院である飛鳥寺は3金堂、川原寺は2金堂と言うように飛鳥時代
には複数の金堂を持つ寺院が存在いたしました。
 原則、金堂(本尊)は南向きですがこの原則は仏教の故郷インドで出来たものでは
なく中国での思想で、貴人は南面してが本尊に取り入れられたのでしょう。しかし、
聖徳太子御生誕地の伝承があります「橘寺」は南向きではなく東向きとなっておりま
す。
 明日香の「薬師寺(本薬師寺)」は回廊内で金堂前の東西に両塔を配置する最初の寺
院で、左右対称の伽藍配置に復帰しました。その伽藍配置を「現薬師寺」が踏襲して
います。現薬師寺は天平時代の建設ですが本薬師寺の伽藍配置ですので白鳳伽藍様
式となっております。ただ、天平時代の「大安寺」は南大門より外に東西の七重塔を
配置しています。 

 中国建築様式を倣った仏堂建築はまず最初、韓国から伝来し、間もなくして中国
から直接請来するようになりました。ところが、伝来当時の仏堂建築の遺構がある
のは我が国だけで中国、韓国共に残っておりません。
 ただ、建築様式の範となった中国は降雨量が少なくしかも我が国のような地震列
島とは違って構築物に被害を与えるような地震も少ないので建築様式をそのまま真
似る事はできませんでした。しかし、中国の内陸部では「四川大地震」のような大地
震も発生しています。
 建築資材も中国では石材や塼(煉瓦)ですが我が国では石材を得ることは難しい代
わりに良質の木材は豊富にありますので木造建築に終始いたしました。  

 我が国では、建築部材は化粧材となるまで
製材加工しました。その部材は一応塗装しま
したが塗装が剥落しても再塗装せずそのまま
にしています。住宅でも柱が汚れても塗装す
ることはありません。第二次世界大戦後占領
軍が駐留した建築物にペンキを塗りたくった
ということなのでこのことは西洋では当たり
前のことなのでしょう。伊勢神宮は今だ素木
造を守っております。鎌倉時代に禅宗様の建
築が伝来しました
が禅宗様は彩色せず素木造という点が我が国
で好まれる要因の一つでしょう。
 他の国では建築部材は自然木のまま(右写
真)使用しますので仕上がりの悪さを補うた
めに華やかな塗装が施されるのです。 


  垂木は太さが違ったり曲がったり
 しております。

 「柱」だけで屋根、床、組物などを支えます。柱と柱を繋ぐのは梁です。
 柱の製作過程は、巨木と言えるような大木を縦に楔(くさび)などで四ツ割にした
四分の一から柱を作りました。その四分の一の用材を釿(ちょうな)で四角柱に加工
しさらに槍鉋(やりがんな)で八角柱、十六角柱、三十二角柱と形を整え後は手探り
で丸柱を完成させました。垂木においても角柱から丸地垂木を造りました。当時は
台鉋はありませんと言うより原木を楔で割っているので表面には凹凸があり台鉋は
使えなく槍鉋でないと駄目でした。横挽きの鋸はありましたが縦挽きの鋸は室町時
代から使用するようになりました。縦挽き鋸で切った面は平らであるため台鉋の使
用が可能となりました。これらから考えると天平時代までは用材の加工が大変で装
飾彫刻まで手が回らなかったとも言えるでしょう。

 古代の木材は現在のように根元まで日が当たるよう間伐などの手入れをしない悪
環境での生育でした。木の成長は遅く一年で1,2ミリというものですから年輪は
詰まった丈夫な木材でした。また、枝打ちをした同じ太さの材木ではなく枝打ちを
しないので円錐状の木材を縦に四分割するには大径木でなければならずそれはそれ
は樹齢の長いものではなりませんでした。
 例えば、屋久島の杉は千年未満は小杉(こすぎ)と言い千年以上の杉を縄文杉と言
うくらい樹齢の長い木が多く存在しておりましたがそれも乱伐の結果中世には世界
最良の木材も枯渇してしまいました。室町時代に縦挽きの鋸が伝来したのは良材で
なくても薄板の製材が出来るようにするためでした。ただ、真っ直ぐな柱が好まれ
てきましたが中世の茶室では逆に曲がった柱が好まれました。 

 我が国特産の桧、杉などは割裂性に富んでいて真っ直ぐに割ることが出来ました。
例えば、杉は幹が真っ直ぐに伸びるので「直木(すき)」から転訛したものと言われて
おります。真っ直ぐに成長した大木といえば桧、杉などの針葉樹であって西洋で使
われる広葉樹の楢や樫では無理でしょう。
 木造建築が盛んになったのは良材が確保できたことと比重が軽いので水に浮き水
路で搬送できたことが大きい要因でもあります。古代は現在では考えられないほど
川の水量が多かったのも事実です。 

 我が国の建築は木材を構造材だけでなく装飾材としても使っておりますので木部
の彩色が控え目であるのが洗練された建築と言われております。
 伊勢神宮の建築は無彩色であるように我が国の伝統ある建築は無彩色であったこ
とも影響していることでしょう。  
 寺院建築は仏堂空間を支える柱のみで壁は構造材ではなく仕切り材で壁を取り払
っても建築の強度には影響がありません。
 柱は真壁造の建築では目に触れ眺める内装材です。柱は神をも象徴する聖なるも
ので神を数える単位が柱と言うことが表しております。
 洋の東西を問わず主要な建築の柱は円柱が用いられております。
 
 遷都の際、巨木の積み重ねである仏堂を解体してすべてを新都へ運んだ場合と旧
都に残したままで新都で新築した場合とがあるようです。桧は用材として使い始め
て300年間くらいは強度が増し1,000年後でも伐採当時の強度があるという建設資材
では考えられない特徴があります。例えば、「唐招提寺の金堂の解体修理」で、「桧」
の新材、旧材の強度検査結果、金堂の1250年前の直径15センチの「地垂木」の強度は
新材の地垂木なら強度は2トン位と言われるのに比べ驚くべきことに4.7トンの強
度がありました。このことは、1250年前の桧材の強度が新桧材の2倍強もあったと
いうことです。それと、古材は十分に乾燥しているので割れたり反る懸念が払拭さ
れているのと、古代は過剰仕様と思えるくらい太い柱でしたので再利用の方が新材
を使うより価値がありました。

 

 「金堂」と言う呼称ですが中国、韓国では「大雄仏殿」「仏殿」とか呼ばれ、「殿」と言
うのに対し、なぜ我が国では金堂の「堂」となったのでしょうか。宮廷建築で殿が使
われていたので遠慮して堂にしたのか、それともこんでん「金殿」では言葉の響きが
悪いと考えたのでしょうか。
 しかし、法隆寺の「夢殿」と言われるようになるのは平安時代になってからでそれ
以前は「八角仏殿」と呼ばれておりました。飛鳥時代から短期間は中国の呼称である
仏殿が使われていたようです。それが時代を経ると金堂の呼称に統一されていきま
す。
 

 さて、金堂の名称の由来ですが確たる証拠はあり
ませんが金色の尊像金人(きんじん・本尊)を祀った
堂だからとか堂内を写真のように金色で煌びやかに
装飾したためとか言われております。写真のような
らまさに金色に光り輝いた仏堂で金堂という名の由
来そのものです。当時はこのような建築に一種の憧
れをもって迎えられたことでしょう。現在では金メ
ッキや金箔が剥落したのが逆に喜ばれますが。
 金箔を押した塼仏、金メッキされた鎚鍱仏を壁一
面に貼り付けたりさらには壁画を描いたりして本来
の白壁をそのまま置いておくことはなかったようで
す。堂内の荘厳では、氏寺では塼仏、鎚鍱仏、荘厳
具で浄土を表現しました。これは、金堂は仏の占有
空間であることを表しております。ただ、官の大寺

 
    夏 目 廃 寺
(資料提供:名張市教育委員会)

では繍仏で壁面を飾りました。
 当時は神社建築にも窓がないように仏堂も窓がなく薄暗い空間だったということ
ですが「夏目廃寺」では明るい空間だったことでしょう。写真の周囲で赤いのは柱で
壁は金箔が押された塼仏です。ですから夏目廃寺は塼仏寺院と言うことになります。

 我が国では壁には土壁を使用しませんでしたが仏教建築伝来とともに寺院建築は
土壁を使用するようになります。ところが、鎌倉時代に伝来した禅宗様は土壁を一
切使用せず板壁のみです。
 壁は白土や漆喰仕上げの白壁です。古代の壁は白土で石灰を用いなかったので耐
久性には乏しかったようですが後世、消石灰・糊・麻苆・水を混ぜる漆喰となると
耐久性は一段と向上しました。

 金堂は須弥壇が一杯に築かれ、金堂は仏像を安置する大型仏壇のようなものでし
た。仏の占有区間は金堂だけでなく回廊そのものが仏の占有空間で僧といえどもむ
やみに立入は出来なかった筈ですが「四天王寺式伽藍」の源である大阪の「四天王寺」
は、回廊が講堂まで繋がっておりました。法隆寺の再建伽藍では回廊が金堂と五重
塔のみを囲んで聖なる空間を築いていましたが平安時代には凸字伽藍となり回廊が
講堂まで繋がり聖なる空間と俗なる空間の結界が無くなりました。
 また、天平時代までの仏堂空間は間仕切りもなく本尊だけの閉鎖的空間であり、
法要の儀式は堂前の広場で行う庭儀か、講堂、中門で行われたようです。
 中国に比べ降雨量の多い我が国では屋外の法要は不都合でした。そこで、飛鳥、
白鳳時代は中門が礼堂としての機能を持っていて、法要は中門でも行われたようで
す。門の梁行(奥行)は2間が決まりで梁行3間の中門は法隆寺にしか存在しません
が飛鳥時代には礼堂として使われていたのか中門の梁行が3間と言う寺院が数ヶ寺
存在したらしいです。


      中 門(法隆寺)


      転 害 門(東大寺)

 法隆寺の「中門」に天井が張られていますのは法要が行われたためと思われます。
それと当時は中門の方が南大門より大きかったです。しかし、中門には仁王が祀ら
れることから門としての機能をも持ち合わせておりました。   
 中門も天平時代になると梁行3間はなくなり梁行は2間となりますが回廊は単廊
から複廊となります。
 法隆寺東院の桁行七間の中門の跡地に現在の「礼堂」が建てられております。
 余談ですが東大寺の「転害門(天平時代)」には宇佐の「八幡大神」を迎え、八幡大神
の「神輿」を置くための石が四つありその部分だけ天井が張られています。
  ただし、中世ともなると天井を張られる門が多く見受けられ室町時代再建の
「法隆寺南大門」にも天井が張られております。

 塔が伽藍の中心だったのがその位置を金堂に明け渡すことになり「塔中心伽藍」か
ら「金堂中心伽藍」へ変更となります。白鳳時代の塔は回廊内で金堂の斜め前方に東
西2塔、天平時代になると塔を回廊外に2塔ないし1塔の配置となり塔は伽藍の中
心位置からますます離れていきます。
 飛鳥、白鳳時代までの金堂の桁行(間口)は五間ですが塔が回廊外に移される天平
時代になりますと桁行は7間の横長となります。これにより、正方形に近い金堂か
ら梁行は変わらず桁行の大きい長方形の建築となっていきました。ただ、東大寺の
金堂は横長ではなく方形の建築でした。桁行7間の金堂では金堂の両側に回廊が取
り付くものも出て参ります。 

 通常、金堂と塔が回廊内にある場合の金堂は入母屋造で重層の五間堂です。塔が
回廊外に移されたのは興福寺が最初で、これ以降伽藍の主役は塔であったのが金堂
となり、金堂は入母屋造だったのが当時としては格の高い寄棟造に変わります。官
寺の薬師寺金堂は裳階付きで重層の桁行7間です。私寺の唐招提寺金堂は桁行7間
の単層であるため柱間を脇にいくほど狭くしていて金堂を大きく見せるための工夫
が成されています。
 
 天平時代までの金堂は
母屋を内陣とし、庇を外陣としましたが金堂に奥行きがな
いため内陣に当たる母屋は広いが外陣に当たる庇は狭いものでした。それと、庇は
一般人は入れず僧のみが礼拝する空間でありました。
 
 金堂の遺構は法隆寺金堂、唐招提寺金堂、室生寺金堂、醍醐寺金堂、興福寺東金
堂、東寺金堂だけで後世の本堂の方がはるかに多いですが、金堂がこれほど多く残
ったのは幸せなことです。    

 法隆寺では塔と金堂が対等に並んで建設されておりますが既に金堂が格式高い仏
堂として扱われていたようです。たとえば、雲斗栱に雲文様の線彫が金堂にはあり
ますが五重塔にはなくしかも金堂の柱は強いエンタシスにしているなど、金堂と塔
は対等ではなく金堂が主要堂となっております。


      金 堂(法隆寺)   


       五 重 塔(法隆寺)

 

  「講堂」は金堂の後方に建立されます。講堂は法要と経典の講義が行われますので
仏像を安置しますが須弥壇は小さくなっています。
 天平時代の寺院では多くの僧侶が在籍しておりましたので大型の仏堂でありまし
た。しかし、古代の講堂の遺構は残念ながら存在しません。天平時代の講堂では
唐招提寺の「講堂」は平城京の「朝集殿」を移築改築したものであり、法隆寺東院の
「講堂(現在の伝法堂)」も橘夫人の「住まい」を移築改築したものです。
  法隆寺の「大講堂」は平安時代の再建ですが それ以前の記録には食堂と記載され
ており古代では講堂が食堂と併用されていたのかもしれません。法隆寺でも講堂で
儀式が行われるようになり改めて「政屋」という建築を食堂として流用したようです。
 後世には講堂は建立されなくなったためか秋篠寺の「本堂」は講堂の跡地に再建さ
れております。講堂を改築して本堂としたという説もあります。
 法隆寺大講堂は当初、桁行8間(現在は桁行9間)で、飛鳥時代には桁行8間の講
堂が存在したらしいです。ただ、桁行が奇数である筈なのに何故偶数になったのか
は不明です。

 金堂の柱間は中央間から端間にかけて逓減していきますが講堂などの主要でない
建築の柱間は等間隔となります。ただ、唐招提寺の講堂は両脇間が他の間より狭く
改築されています。
 斗栱も金堂に比べ簡素なものとなっており法隆寺大講堂の斗栱は平三斗です。 
 講堂の付随として前方の左右に経蔵、鐘楼が建設されました。 

  禅宗寺院では仏殿が金堂に、法堂(はっとう)が講堂にあたりますが仏殿より法堂
に重きをおき法堂の方が大きく造られることがあります。  

 

  「平安時代」になると平安京内には官寺の「東寺」「西寺」以外、寺院の建立は禁止と
なりました。東寺と西寺(廃寺)は天平伽藍を踏襲して平地伽藍ですが、新築寺院は
京外の山地に建築されましたので配置も地形に合わすものとなり全くの非対称の伽
藍配置になりました。当然、回廊はなくなり寺院建築は一様ではない伽藍配置とな
りました。
 菅原道真による遣唐使の廃止により建築様式の国風化が起こりました。これが後
世に言われる「和様」の先駆けです。京内での新築寺院の禁止令により藤原摂関家で
も京内に建立することは控えました。貴族たちは邸宅に持仏堂を建立するため瓦葺
ではない住宅風で建築しましたので、仏堂が住宅化したのが和様化が進展する要因
の一つと言えるでしょう。当時は瓦の使用と鐘楼の建立が禁止されていたと言われ
ております。

 鎖国時代にあっては「密教寺院の金堂」、「阿弥陀堂の仏堂」に我が国ならではの変
革があり国風化が進みました。

 平安時代は人間の空間を重視、すなわち「礼拝空間の拡張」に力を注いだ時代でし
た。
 後述の密教寺院が奥深い堂を必要としたので「双堂(ならびどう)」、「孫庇付き仏
堂」が大いに持て囃され双堂、孫庇が進化発展を促して内陣、外陣に分かれた
「本堂」へと進みました。天平時代の双堂、孫庇には僧しか自由に出入り出来なかっ
たので本堂には民衆のための礼拝の場を増やす目的がありました。

  双堂、孫庇についてですがまずは双堂から説明いたします。

 

  「双堂(ならびどう)」とは別々の機能を持つ堂が並んでいることを言います。
 「東大寺法華堂」は正堂の前面に軒を接して礼堂がありました。礼堂は鎌倉時代に
再建した後2棟を一つの屋根で覆う本堂と言う形式に改築されました。東大寺の
法華堂は正堂が天平時代の土間、礼堂が鎌倉時代の再建ですので板敷となっており
ます。現在、双堂の遺構としては法隆寺の「食堂と細殿」が唯一のものです。
 建築技法から梁行を大きくできないので2棟を並べて双堂としその2棟の軒先が
接触するところに大きな木樋を掛けました。左の拙い図は概略を表したもので当時
の法華堂とは似ても似つかないものです。緑の囲いが木樋で右の写真は現在の東大
寺法華堂です。何故か不要になった木樋を残しております。
 金堂の国家鎮護と違い双堂は個人の祈願を対象にしたのか双堂は伽藍では主要な
仏堂ではなかったようです。庇には僧と言えども自由に出入りが出来なかったので
双堂が考えられたのでしょうか。
 双堂を一つの屋根で覆うと相の間のスペースが有効利用出来ると言う利点があり
ます。この件に関しては後述の「東大寺法華堂」で説明いたします。

 

 次に「庇、孫庇」についてですが天平時代までは寺院建築の母屋を内陣、母屋をめ
ぐる周囲の空間の庇部分を外陣としました。狭いですが庇は最初からあったもので
す。
 礼堂としてもっと広いスペースは確保をしたいときは正堂の前にさらに孫庇を葺
き降ろします。
 天平時代の孫庇は一面だけですが平安時代になると二面、四面と増え外方周囲に
つけた四面ともなると「裳階」のようになります。
 孫庇の増設には問題点が出て参りますがこの件に関しては「野屋根」のところで説
明いたします。
 孫庇を密教寺院では礼堂と言われたこともあるそうです。 


        金 堂(室生寺)


       本 堂(当麻寺)  

 「室生寺金堂」は縋破風(すがるはふ)と呼ばれる形式で孫庇を増設して堂内を正堂
と礼堂に分けております。「当麻寺本堂」も同じです。次の裳階と違う所は孫庇は母
屋の屋根を延長しているところです。


    三十三間堂(蓮華王院)


             金 堂(薬師寺)

  「三十三間堂」は庇の間を入れると「三十五間堂」となります。一般には
「三十五間堂」と名乗ることがありますが観音菩薩の三十三化身というように観音は
三十三と関係深いことから三十三間堂となったのでしょう。

 「裳階(もこし)」とは母屋の柱を利用して屋根を付けるものです。裳階は法隆寺金
堂でも分かるように竣工後の増築工事であることから仏のための空間ではなく僧の
ための礼堂として設けられたのでしょう。ただ、裳階に関しては異説があります。

 天平時代までは柱間の寸法は完数値で表わされました。平安時代になると桁行
(間口)の柱間は何間、梁行(奥行)の柱間は何間と表示するところを、「梁行は2間」
と決めておき梁行を表示しない「間面(けんめん)記法」が採用されます。
 桁行は3間、5間、7間、9間と大きくすることができますが梁行は2間以上大
きくすることは構造部材の関係上出来ないからです。
 当初、庇の増設は一面の一面庇だったのが二面庇、四面庇へと発展していきます
が四面庇となっても梁行が四間どまりでそれ以上梁行の大きい建築は出来ませんで
した。  
 例えば、桁行3間、梁行2間で四面に庇がつくと三間四面堂と表現します。桁行
が五間、梁行2間であれば五間四面堂という表現となります。

 

 「野屋根」についてですが、天平時代までの屋根勾配は中国風の緩い屋根勾配で
下から見える化粧垂木の「
地垂木(青部分)」と「飛檐垂木(緑部分)」上に直に瓦を葺い
ていました。詳しく言えば垂木上に板を張りその上に土を敷いてから瓦を葺きまし
た。大陸ではこの様式を頑なに守っています。

 ところが平安時代ともなると椅子、ベッドの生活から板敷きの床に坐る生活
に変
わった
ので落ち着いた空間確保のため天井を下げたり、板敷の床になると建築の周
りに縁が設けられたため縁を濡らさないように
孫庇を長くしたり、飛檐垂木を長く
して
一段と深い軒にしたり、さらには、古代の軽快な緩い屋根勾配で起こる雨漏り
を解消する為強い勾配の屋根にしたりという要望が起きたのです。
しかしながら、屋根勾配を急にすると軒先が下がり、室内から外を眺めたとき、急
勾配で下がった軒が目障りになるのと、軒先が下がると照明を外部の採光に頼って
いたため室内が暗くなります。そうかといって軒先の下がりを抑えると屋根勾配が
緩くなり雨漏りの心配が出てくる欠点がありました。
そこで我が国で考案されたの
日本独特の屋根の上に屋根を被せるアイデア「野屋根(野小屋)」形式であり、例え
は悪いですが「屋上屋」です。
 

 


          野屋根に拮木を設ける
   野屋根 :当初は拮木を入れること
  など考えつかなかったのでしょう

 従来、化粧垂木は構造垂木でもありましたが化粧垂木と構造垂木(野垂木 ・紫部
)が別個のものとなり屋根勾配の強い建築が可能となりました。結果、化粧垂木
は屋根勾配と関係がなくなったので水平でも良くなりました。
古代は梁行(奥行)が
2間でしか建築できないので拡張する為、孫庇を設けて解決
しておりましたが鎌倉
時代ともなると 、
その両垂木の間に拮木(はねぎ・赤部分)」を組み込んで梁行が
3間以上の
建築が出来るようになりました。下から見えない架構を野小屋と言いま
す。天平時代までの化粧垂木は見栄えの良いものではならず細い木材でしたが、野
小屋は天井裏で見えない構造であるため丈夫な太い材料の野垂木、拮木が使えたの
で飛檐垂木を長くして深い軒にすることできました。分かりやすく言いますと天平
時代までの地垂木、飛檐垂木では大きな屋根を支える事は不可能でしたが太い野垂
木、拮木の利用で屋根勾配の強い大きな屋根を支える事が出来るようになったと言
うことです。
 野屋根は雨漏りの解消と時代の要請である梁行の深い仏堂を建立できるようにし
ました。結果、堂内の構造を自由に決めることが出来るようになり鎌倉時代に起き
た新宗派は独自の平面の仏堂を建立しました。
 屋根勾配が増し高い屋根ばかりが目立つ建築となり一部では悪評高いですが、豪
放に見えることも事実です。
 この野屋根形式の現存最古の遺構が「法隆寺大講堂」であります
 

 禅宗様は通常、野屋根がなく高い屋根を形成するために垂木の勾配を急なものに
していますが和様のように雨に濡れては困る縁がないので深い軒にする必要はあり
ません。とはいえ、禅宗様である「円覚寺舎利殿」が野屋根・拮木を採用しておりま
すように禅宗様でも野屋根・拮木が利用されたようです。円覚寺舎利殿は年に数日
間しか拝観できませんので残念ながら今だ訪れておりません。

 

 飛鳥、白鳳、天平時代に伝来した大陸の建築様式は「密教寺院」に引き継がれまし
たが、瓦葺から桧皮葺、土間床から板敷き床へと国風化され和様化が進みました。
 「密教本堂」は当初、双堂、孫庇による礼堂で法要を営んでおりましたがこれを一
つの屋根で覆い出来た仏堂が本堂で、この堂内部を内陣と外陣に整備しました。こ
の結果平安時代に起こった間面記法は適用できなくなりました。礼堂を設けるのは
密教仏堂の大きな特徴です。

 密教では人々を引き付ける素晴らしい仏像を、秘密の仏教だけに秘仏扱いで信者
の目に触れないようにしました。それと、内陣を簡素にして豪華な宮殿型の大型の
「厨子」を安置したことは金堂が厨子に変わったとも言えます。厨子に安置するため
本尊の大きさは小さめに造像されます。これにより、内陣が仏の占有空間では無く
なりしかも内陣は奥、奥へと追いやられ外陣の充実に一層の拍車が掛かるようにな
っていきます。 
 当初、堂内に立ち入ることが許されても内陣、外陣の境界は厳しく制限されてい
たものが、境界を格子戸に変更して内陣より外陣を重要視していきます。
 年とともに、母屋柱(内陣柱)の前2本を取り去り、さらには後ろの2本は後退さ
せると同時に厨子を後方へ後退させていきます。このことは、礼堂付き仏堂が主役
に躍り出たことになります。余談ですが外陣の拡張は塔も同じ現象が起きています。
 鎌倉時代には床板敷の人間の空間を外陣に、内陣の仏の空間を一段低い土間(石
敷)とする寺院もあります。 

 

 「阿弥陀堂」は天台仏教での「常行堂(じょうぎょうどう)」をモデルにした方形の平
面で屋根は宝形造です。
 阿弥陀堂には方五間、方三間がありますが施主が有力な貴族であれば方五間、そ
れ以外は方三間の阿弥陀堂でこの方三間堂が多く建立されました。方五間、方三間
と言うのは母屋に四面に庇を廻らすので方三間四面堂(方五間)、方一間四面堂
(方三間)と言うことです。方五間の阿弥陀堂ともなると間面記法は成り立たなくな
ります。 
 常行堂は阿弥陀如来の周囲を阿弥陀の名号・念仏を唱えながら「右繞礼拝」が出来
るようになっています。ところが、阿弥陀堂は内陣を後ろへ下げ礼拝の外陣を広げ
しかも仏後壁を設けたりして、阿弥陀如来を右繞礼拝ではなく正面から礼拝するよ
うなスタイルに変わっていきます。
 阿弥陀堂には名称の如く阿弥陀如来が安置されるものだけではなく阿弥陀如来以
外の仏が祀られることもあります。その後、方形の阿弥陀堂ではなく九体阿弥陀堂
など桁行の広い堂が造営されました。
 独自の建築として苑池を前にした平面が方形、屋根が宝形造の阿弥陀堂が盛行し
ます。平面が正方形の阿弥陀堂が多いですが後述の禅宗様の仏殿の平面も正方形と
なっています。
 有力貴族は邸宅内に阿弥陀の持仏堂を建設しました。邸宅内に造営することから
京内は仏堂の建設禁止を考えて住宅風で建設しましたので必然的に和風化となりま
した。摂関家の藤原氏などは京外に大規模な阿弥陀堂伽藍を建設しました。
 阿弥陀堂は鳳凰堂、九体阿弥陀堂のように間口が広い仏堂でなければ見栄えが良
くないのですが一方、樹林に囲まれた阿弥陀堂は、平面が方形の方が背景に溶け込
んで落ち着いた気品漂う建築となっています。
 末法思想により現世では仏になることが不可能であれば来世、浄土に往生して仏
になることを阿弥陀如来に願い、それを叶えるには善を多く積まねばならないとい
うことで阿弥陀堂が多く建設されました。その結果方三間堂の小規模の阿弥陀堂が
多く見られるのです。方三間堂阿弥陀堂は方五間阿弥陀堂などに比べ簡素と言えま
すが堂内は折上小組格天井の落ち着いた空間を形成しています。
 また、間違いなく浄土に往生できる安心のために九品の九体阿弥陀堂も建設され
たのです。
 建築を中心として周辺環境が考えられていましたのが周辺環境を考えてから建築
を設計するようになります。すなわち、阿弥陀堂を荘厳するため堂を取り巻く周辺
まで浄土の表現を企てました。浄土に憧れるようになり浄土変相図を具現化するよ
うになって装飾が賑やかになっていきました。        
  先祖を追善供養するのではなく自分自身が浄土に速やかに往生できることを、他
力本願に縋り阿弥陀仏による浄土への往生を願いました。

 

 「本堂」は野屋根、拮木の効用で梁行(奥行)が大きくなり仏の空間の内陣、人間の
空間の外陣を持ち備えています。これら本堂は宗派独自の仏堂空間が考案されまし
た。
 本堂とは双堂だった正堂(金堂)と礼堂が一つの屋根で覆われる建築が金堂と講堂
が合わさったものとも言われます。本堂は一つの建築となったので正堂、礼堂では
なく内陣、外陣と言われるようになります。
 後世になると室生寺、当麻寺のように金堂と本堂とが併存する寺院も出てきま
す。 
 仏教信仰の対象者の変化が平安後期から起こり始め、特定の人間だけでなく一般
大衆も礼拝するようになると、本堂は庶民に解放する場が重視され、仏の空間では
なく人間の空間であるというイメージが強いものとなります。塔は仏の空間ですが
本堂は人間の空間に様変わりしたとも言えます。
 そうなると、礼堂に柱が多く立っていれば礼拝空間としては不適切であるため柱
を減ずることに専念した結果、鎌倉時代に大陸から伝来した大虹梁を利用して柱を
減らすことに成功したのです。
 本堂化は密教の隆盛によるところが大きく、本堂となると内陣、外陣ともに板敷
き床が一般的ですので基壇がなくなります。屋根は瓦葺ではなく桧皮葺、柿葺、壁
は土壁ではなく板壁、組物は金堂に比べ簡素となり三手先はなくなり出三斗、出組
(一手先)が多くなりますがまれに二手先斗栱もあります。
 最初、結界は扉であったのが格子戸で仕切るようになりました。 
 庶民を対象にする寺院では「山号」と「寺号」が付いています。例えば、浅草(あさ
くさ)の観音さんの正式名は金竜山 浅草寺(きんりゅうざん せんそうじ)です。 

 

 

 「大仏様」は東大寺の大仏殿、南大門などの大規模な建築に適しているため大木を
必要としたのに対し禅宗様は小さな部材の組み合わせてで十分な強度を確保出来た
という大きな違いがあります。
 鎌倉時代に古都奈良において大仏様が採り入れられました。それは大仏様には野
屋根がなく、一軒の垂木、化粧屋根裏など天平時代の建築様式に当てはまるので修
築には好都合でした。
 大仏様の貫、木鼻、桟唐戸などは和様、折衷様に取り入れられました。貫により
構造強化が図られたため和様建築では長押から貫への移行が起こったことは当然な
成り行きで大仏様の最大の功績と言えるでしょう。
 大きな部材が露出していることが繊細な日本人には馴染むことが出来なかったの
か大仏様は「重源上人」が亡くなると運命を共にしました。
 
 「禅宗様」は南北に奥深い左右対称の伽藍配置に戻っています。ただ、禅宗様は仏
殿、法堂は土間床で四半敷の瓦敷ですが塔頭、方丈は和様を採り入れて板敷き床と
なっています。壁は中国にもない縦板壁で建築全体が木製となっています。
垂直性が強く天井が高くなっておりこの様式は和様の興福寺の東金堂にも採りいれ
られ柱が長くなっています。国宝指定の仏殿内部には立ち入れませんが富山の
「瑞龍寺仏殿」だけは立ち入ることが許されています。
 この四半敷の床は大変好まれて和様の床などにも採りいれられています。
 時代の要請は外陣の柱を抜いて礼拝空間を使い勝手の良いものにしたいことでし
た。和様にも虹梁という梁がありましたが、禅宗様からもたらされた大虹梁、海老
虹梁の使用で、苦労していました柱を抜くことが出来たのであります。
 釈迦如来を安置するので仏殿と言われるのでしょう。ただ、本尊は須弥壇に安置
され厨子に安置されるのは数少ないです。 
 鎌倉時代末になると大仏様、禅宗様を採り入れた「折衷様」が出始めますが瀬戸内
海で多く見られます。 
 禅宗様は寺院建築すべてに影響を与えたので純粋の和様は姿を消してしましまし
た。    
 屋根は瓦葺でなく和様の桧皮葺が多いですが屋根の軒反りが強いのは禅宗様式で
す。
  禅宗仏殿は方三間一重裳階付で、和様では採用されなくなりましたが「裳階」、
「三手先斗栱」が復活しました。

  

 「桃山時代」になり建築の細部装飾はますます盛んになり「江戸時代」では過剰と思
えるくらいになります。桃山建築といえば昨年(2007)訪れた仙台の大崎八幡宮の
「豪華絢爛たる社殿」を思い出します。平成の修復作業が完了したところで鮮やかな
色彩に復元されており創建当初の姿が偲ばれました。 

 建築本体の良さすなわち建築の組み方、素材などの良さを、世間一般の人はなか
なか理解出来ないため興味が起こらず、最大の関心事は彩色、装飾彫刻になってし
まうのでしょう。それらの絵画や彫刻には物語があり大衆が興味を抱く題材を重点
に絵画、彫刻で表現しています。絵画や彫刻は多くの人に注目されるわりには建築
費用から見ると経費が掛からないので盛行したのでしょう。
 それと、例えば薬師寺では天平時代の東塔より色彩が残っている昭和の西塔の装
飾の方に興味がいってしまうのは見ていても楽しいのとデジカメでカラー撮影して
送信すれば仲間との話題ができるからでしょう。
 中備の蟇股の出来不出来が建築の良しあしの判断基準となり、ついには、大衆に
評価される建築に仕上げるために彫刻家の「左甚五郎」まで動員されるに至ったので
す。
 とはいえ、古色蒼然を愛する方は木部の彩色に興味を示すどころか彩色が剥落し
た素木の方が好まれることも事実です。  

 

 近世になると仏堂と高僧の尊像を祀る影堂、御影堂祖師堂を並べて建設するか
またはそれら祖師の堂を正面に持ってくるくらい重要視され、我が国独特の仏教が
起こりました。堂内は信者への説法の場として広く設計されております。
 ただ、禅宗寺院での開山堂は伽藍から離れた場所に建設されております。  
 一方、江戸時代、大名たちは下手に城の改築、増築をすると江戸幕府に睨まれて
改易にでもなれば大変でしたので、城ではなく社と寺院とが融合した「廟堂」を盛ん
に建設するようになります。廟堂でお馴染みの日光東照宮では建築の外壁は構造材
が見えないほど著しい装飾が施されています。
 世界各地にはどんな廟堂があるかは不知ですがインド旅行で訪れたのがインド最
大の廟堂「タージ・マハル」です。 


         タージ・マハル

 「タージ・マハル」は総大
理石造でムガル帝国の皇帝
が亡き王妃を偲んで建てた
霊廟です。
 最初見た時凄いと言う感
想より公害問題を抱えるイ
ンドで白亜の殿堂を保って
いるメンテナンスに感心い
たしました。
 私はタージ・マハルより
この近くにある「マトゥラー
博物館」の方に興味があり、
2度目に訪れた時は入口で

門の基壇に腰かけてグループの帰りを待っておりました。洋の東西を問わず霊廟は
技術の粋を集めた豪華絢爛な建築です。しかし、我が国ほど細部彫刻を賑やかには
しておりませんでした。

 ここで少し思いついたことを述べますと

 「亀腹」は仏堂内に床板を張れば
大陸から伝来した建築様式の基壇
を用いません。それと、床板張り
の建築は周囲に縁を廻らすこれら
床下、縁下に設けられた白漆喰仕
上げされたものです。亀腹を設置
したのは床下を見せるのを避けた
という説には一理あると思われま
す。


      亀 腹(金堂・観心寺)

 また、山岳寺院では傾斜地に仏堂を建立するため解決策として亀腹を採用したと
の説ですが余程大規模な仏堂ならいざ知らず一般的な仏堂の敷地面積ぐらいの整地
は簡単に出来た筈です。
 私素人が考えますには、床下の上には聖なる仏の台座があるだけに床下を清浄に
しなければならないため日常の床下掃除を省くためではなかったか。それと、山を
背にしている場合など山からの雨水が鉄砲水となって金堂を襲った時敷地の傾斜を
利用して速やかに流すと同時に泥水が床下に流れ込むのを亀腹で防ぐためではなか
ったのか。「観心寺金堂の亀腹」の高さは前面で3.3尺、背面は2.5尺となっておりま
す。しかし、この亀腹も近世になると使われなくなっていきます。 
 
  平安時代になると、和様では基壇はなくなりますが禅宗様だけは基壇があります。
大仏様では「東大寺南大門」には基壇はありますが「浄土寺浄土堂」には基壇がありま
せん。 

 下記の二点は禅宗様の基壇です。

   「壇上積」ですが天平時代までの
    基壇に比べ低いものです

 壇上積の基壇より「乱(石)積」の基壇
の方が多くあります。

 


       和 様


        禅 宗 様 

  和様が大仏様での「貫」を利用する以前はどうであったのかを説明しますと古代の
建築は貫ではなく「長押(なげし)」を用いました。柱を両側から挟み込んだ長押に大
釘を打ち柱を固定しましたが貫に比べ横への力が弱いという弱点がありました。た
だ、貫と違って長押は組み立て途中でも柱の上部の調整で水平を出す利便さはあり
ました。それと、長押でも充分だったのは古代の柱が太かったためで、時代を経る
と柱が細くなってくるので長押では不十分となり貫と交代しました。上記の写真で
和様と禅宗様の柱を見ればその太さの違いは歴然です。貫の使用によって長押は構
造材ではなく装飾材となりました。  

 

 「台輪」とは柱頂を繋いだ平たい厚板で柱
が横に広がるのを防ぐ効果があります。台
輪は禅宗様で用いられますがわが国でも古
代から塔のみに使用されていました。た
だ、禅宗様の台輪の端は繰形のある「木鼻」
となっています。 


     東 塔(薬師寺)

 

 これより「仏堂」を北から紹介しますが今だ訪れていない仏堂もあります。


             本  堂(瑞巌寺)

 「瑞巌寺」は名所松島にあ
る名刹寺院で総門から杉木
立の囲まれた参道は手入れ
が行き届いていて清々しい
雰囲気でした。
 「本堂」は仙台藩主伊達家
の権勢の象徴たる菩提寺だ
けに大規模過ぎて全景写真
は無理でした。
 禅宗の仏殿であれば正方

形である筈が桁行13間、梁行右側が9間、左側が8間と少し変則的な建築であるの
と床は瓦の四半敷でなければならないのが板床敷となっているのは本堂の元は
「方丈」だったからです。左の建築は御成玄関です。

 


                       白水阿弥陀堂(願成寺)

 
  苑池に掛かる橋を渡ると
 阿弥陀堂です。

 「白水阿弥陀堂」は方一間の母屋に庇が四方に付いた建築です。屋根は栩葺(とち
ぶき)で昔、この辺りには栩葺が多くあったそうです。寿命が短く保守管理が難し
いので、金属板葺(銅板葺)にとって代わられた中で現在なお栩葺を維持しているの
は敬意を評すべきでしょう。屋根は一間四面阿弥陀堂の基本通り宝形造です。
仏堂としては簡素と言えますが折上小組格天井の堂内は落ち着いた空間となってお
り訪れる者に安らぎを与えています。     
 四季を彩る山、水鳥が泳ぐ苑池と自然豊かで清浄な風景はまさに極楽浄土を彷彿
させるような情景でした。ただ、阿弥陀堂であれば東面である筈が南向きでした。 

 


       大 泉 池

 
 
「毛越寺跡」は芭蕉の「夏草やつは
ものどもが夢のあと」の通り礎石が
あるのみで栄華を誇った巨大伽藍を
偲ばれる建築は何一つ残っていませ
んでした。
 大泉池は大きく素晴らしいもので
当時は竜頭鷁首の船に乗って季節の
風情を楽しむ船遊びをしたことでし
ょう。

 

 「正福寺」は東村山市にあり東村
山といえば昔、「志村けん」さんが
歌った「東村山音頭」を思い出しま
す。
 「
地蔵堂東京都で唯一の国宝
建造物です。
 国宝で「地蔵堂」というのは珍し
く他には存在しません。
 まず最初に目につくのは禅宗様
特有の軒先の大きな反りかえりと
堂前の左右にある大きな石燈籠で
した。 


       地 蔵 堂(正福寺)

 方三間裳階付きで中の間が平行垂木、脇の間が扇垂木です。母屋は柿葺ですが裳
階は銅板葺です。
 安定感のある優美な姿の地蔵堂でした。

 


         仏 殿(瑞龍寺)

 「仏殿」は富山県で唯一の国宝
建造物です。
 禅宗の法要は立式で行われま
すので天井が高いです。堂内の
木組は構造美の極致と言えるも
のです。圧倒される空間の素晴
らしい堂内に入れていただけま
すのでどうぞご覧ください。
 屋根は銅板葺というものはあ
りますが鉛板葺という珍しいも
のです。
 瑞龍寺は江戸時代創建ですの

で仏殿の後方にある「法堂(はっとう・国宝)」の方が仏殿より規模が大きいです。 

 

 「清白寺」は山梨県にあり周辺は有
名な葡萄畑です。参道は梅林で自然
豊かな情景に佇む寺院です。
 次の「大善寺本堂」はそんなに離れ
ていずここから自動車で2,30分の距
離です。
 「仏殿」は均整のとれた美しい姿で
した。中の間は平行垂木、脇の間は
扇垂木です。
 簡素な花頭窓、文様が見事な桟唐


        仏  殿(清白寺)

戸で、魅せられるのは木目の美しい柱です。

 

 
          本 堂(大善寺)      

 「大善寺」は甲州葡萄で有
名な甲州市勝沼町にありま
す。
 「本堂」は雄大壮麗な建築
で山梨にこれだけ
大規模な
密教寺院が建立されている
のは意外でした。

 木鼻などの大仏様が採り
入れられています。大仏様
が南都から遠い国で和様建
築に取り込まれているとは
さらなる驚きでした。
 

 圧倒するような外観に比べ両脇の燈籠がペンシルのように細いのが印象的でした。

 

 「善光寺」は天平時代まで
の形式で靴のまま入堂でき
る庶民的な寺院です。
 「本堂」は普通の寺院と違
って撞木造(しゅもくづく
り)といわれる屋根の形が
T字型となっている独特の
もので桁行に比べ梁行が深
いです。
 正面からの眺めは非常に
均整が取れて美しいです。
 折衷様の最後の遺構と言
われてます 。
 中備が蟇股ではなく撥束


          本  堂(善光寺)

なのは、庶民の信仰を集めた寺院だけに華麗になるのを避け質素を重んじられたか
らでしょう。

 


       経  蔵(安国寺)

 「安国寺」は飛騨高山、白川郷の
近くにあります。富山の「瑞龍寺」
から廻りましたが当時は東海北陸
道がまだ全線開通しておりません
でした。現在は全線開通で移動が
楽になったことでしょう。
 「経蔵」は均整ある外観で優しさ
と気品に満ちておりました。経蔵
に安置されている「輪蔵」は飛騨の
匠が造り上げたのか細部まで精密
な彫刻が施されていて伝統と技に

磨き上げられたものとなっています。
 「転読(てんどく)」の進化したスタイルが輪蔵を回すことになったのでしょう。

 


 素晴らしい景観に建つ観音堂は

優美で雅やかさが漂っています。


       観 音 堂(永保寺)

 「永保寺(えいほうじ)」は先述の「安国寺」と同じ岐阜県に存在しますが南と北に懸
け離れています。
  屋根は母屋、裳階共に隅での軒反りは豪快な禅宗様ですが、
正面の前面一間は和
様の板敷床で吹き放しにしている珍しい構造です。扇垂木ではなく
垂木を見せない
板軒で、斗栱は詰組ではなく、しかも床は土間ではなく板敷きであるなど禅宗様の
建築らしくありません。 


       開 山 堂(永保寺)

 「開山堂」は国宝の開山堂として
は貴重な遺構です。観音堂の風景
とはがらりと変わって鬱蒼とした
林に囲まれた聖地に造立されてい
ます。
開祖「夢想国師」、開山「佛徳禅師」
の頂相(ちんぞう)がお祀りされて
あり、寺院では一番大切な建築で
立ち入ることはできません。柵越
しに正面だけ見ることが出来ます。

建築は祀堂と昭堂の2棟を相の連結されていて後の「権現造(神社)」の原型と言
われています。権現造といえば日光東照宮が著名です。

 

 「明通寺」は日本海側では珍
しい「本堂」「三重塔」の2棟が
国宝指定という屈指の名刹寺
院です。
 「本堂」は杉木立の中に静か
に佇み非常に均整がとれた美
しさを湛えていました。
 正面側だけ「蟇股」で装飾さ
れていますが他の三面は
「間斗束」です。正面すべて

 
               本 堂(明通寺)

蔀戸で覆われており京都風の仏堂です。
 明通寺は福井県小浜市(おばまし)にありアメリカの大統領候補「オバマ氏」を応援
していましたがもう一方の大統領候補のマケイン氏が指名した副大統領候補ペイリ
ン氏が掛けている眼鏡が福井県で造られたことが分かり、福井県民はさてどちらを
応援するのでしょうか。

 


          金  堂(園城寺)     

 「三井寺(みいでら)」は通称
で、園城寺(おんじょうじ)が
正式名です。
 「金堂」は桁行、梁行共に七
間、一重、桧皮葺で裳階がな
いわりには軒下が高いのと軒
の出が大きいので雄大な姿と
なっております。三間向拝、
桧皮葺の屋根など純和風で非
常に均整が取れていてしかも
落ち着きがあり奥ゆかしさを  

 感じさせるお堂でした。
 内陣は四半敷の床に厨子が安置されていますが外陣は板敷きの床です。

 

 

  「西明寺は「本堂」「三重
塔」共に国宝指定で両棟は
釘を使用していないと説明
がありましたが、それは長
期保存を考えた古の工人達
の知恵でしょう。
 「本堂」の窓は連子窓でな
く花頭窓で、和様建築に禅
宗様の窓が取り入れられた
例です。


               本 堂(西明寺)

 天台系密教寺院には、外陣が板敷の
床、内陣が土間(石敷)仕様の寺院があ
り、その場合縁は床部分に設け土間部
分には設けないのを忠実に設計してい
るのが当寺院です。縁は外陣(青矢印)
のところまでありますがそれより後方
の内陣部分にはありません。  

 


           本 堂(金剛輪寺)

 「金剛輪寺(こんごうりんじ)」は
湖東三山の一つで前述の「西明寺」
とは近い距離にあります。
  「本堂」は
7間堂の雄大かつ繊
細な美しさを誇る大堂で純和様に
近く、
正面に設けられる「向拝」が
ありませんでした。

 撮影は正面、側面も無理と言う

自然に囲まれた本堂でした。撮影
する者にとっては不都合ですが礼
拝者にとっては癒しの空間と言え

る配置となっております。

 

 「善水寺」は岩根山にあり
名が示すように霊水が境内か
ら湧き出ており、この霊水に
よって桓武天皇の病が快癒さ
れたと言う霊験新たかなもの
です。
 「本堂」は桁行7間、梁行
5間の豪壮な建築で、寺院に
通じる道の幅員はさほど広く
なくこじんまりとした仏堂を
予想していただけに大規模な
本堂には驚きでした。
 本堂東の広場は閑静な庭園


         本  堂(善水寺)

になっています。霊水と名物の「善水寺もなか」を賞味され、心豊かな寛ぎの時間を過
ごされてはいかがですか。 

 


          本  堂(常楽寺)

 「常楽寺」は各自で拝観料を
料金箱に納めて入ります。人
影もなく閑散とした境内は静
かな空間が広がっていました。
本堂と三重塔が国宝指定とい
う格の高い名刹寺院です。
  「本堂」の桧皮葺の屋根の軒
反りは大きくなく穏やかで気
品に溢れる仏堂です。 
  大規模な本堂の肩越しにか
すかに見えるのは外観の優美 

さを誇る「三重塔」です。

 

 「長寿寺」は簡素な山門を潜っ
て緑のトンネルの幅狭い参道を
抜けると「本堂」で、本堂は屋根
がきれいに整備されていて優し
さと気品に満ちておりました。
 先述の「善水寺」、「常楽寺」と
で湖南三山の俗称があります。
 「向拝」は広く一度に多くの礼
拝者が来られるための礼堂の役
目をしているのでしょうか。


         本 堂(長寿寺)  

 本堂の中備は「間斗束」であるのに目立つ向拝には「蟇股」が付けられており、同じ
手法は他の寺院でも見られます

  


             金  堂(醍醐寺)

 「醍醐寺」は豊臣秀吉が催し
た「醍醐の花見」で有名な桜の
名所です。
 
「金堂」の礼堂が狭いのは
堂をもつ双堂形式の伽藍配置
だったようです。  
 金堂は平安時代に創建され
た和歌山県湯浅の
「満願寺本堂」が桃山時代に移
築されたものです。 

裳階がないだけに非常に均整の取れた美しさを湛えた建築となっています。

 上醍醐にある「薬師堂」と「清滝宮」を
撮影に訪れたのは6月の暑い日でした。
暑さに弱い私にとって下醍醐からは想
像以上の距離で約1時間の山道を休憩
しながらやっとの思いで登りました。
上醍醐で缶ジュースを2本立て続けに
飲みほした美味しさは醍醐の飲み物で
した。その飲み物の販売機があったの
が惜しくも落雷で焼失(2008.08.24)し
ました「准胝観音堂」でした。一日も


       薬 師 堂(醍醐寺)

早い復興をお祈り申し上げます。
 薬師堂の前庭は僅かな空地のうえ軒の出が深いため全体写真の撮影には苦労しま
した。写真の撮影位置から後ろは崖でした。屋根勾配はゆるく端正な建築で風食し
た木組と白壁がなんとも言えないおおらかさを醸し出していて山岳に相応しい姿で
した。
 

 


     本堂(浄瑠璃寺) 三重塔前から本堂を望む

 「浄瑠璃寺」は「九体阿弥陀堂」
の唯一の遺構という貴重な寺院
です

 「本堂」は四隅のみ舟肘木です
が他は柱頂に直接梁を乗せてい
ます。天井は化粧屋根裏です。 
 昔、本尊は「薬師如来」でした
ので浄瑠璃寺となったので今な
ら阿弥陀寺となっていたことで
しょう。
 
極楽浄土の建築であれば堂内
は華麗な荘厳(しょうごん)が

通例ですが質朴で飾りもなく簡素そのもので、しかし、周辺環境は浄土の世界を具
現化しています

  浄瑠璃寺は宝池の東岸に
薬師如来(三重塔)、西岸に阿弥陀如来(本堂)となっ
ています。
 本堂以外に「九体阿弥陀仏」、
「三重塔」、「四天王像」が国宝指定という由緒ある寺
院です。

    

 「平等院」は仏堂の前に苑池
があるのではなく苑池の中に
仏堂が浮かんでいるような独
特な配置です。
 「鳳凰堂」は裳階の正面中央
間を本尊の為に一段上げてい
ますが裳階の出が異常に小さ
いので目立ちません。 


          鳳 凰 堂(平等院)   

 権力をほしいままにした藤原摂関家の唯一の遺構で浄土を具現化した最高の例で
しょう。 
 鳳凰堂の姿は瑞鳥の鳳凰が左右に翼を広げたところとも言われており、なるほど
と納得させられるものがあります。澄んだ湖面に映える鳳凰堂はいつまで見ていて
も飽きることがないでしょう。

 


       阿 弥 陀 堂(法界寺)

 「法界寺」はこじんまりとした
樹林に囲まれた所にあり少し分
かりづらいです。
 「阿弥陀堂」なのに東向きでは
なく南向きでした。しかし、
阿弥陀堂の定法通りの桧皮葺、
宝珠露盤、宝形造です。多くの
人々を魅了してきた本尊の
「阿弥陀如来像」に相応しく方7
間堂という威風堂々とした建築

で、正面の裳階屋根を薬師寺金堂、鳳凰堂のように一段上げてあります。
 柱間の中備は「蟇股」でなく「間斗束」です。「裳階」は四面にありますが吹放しの廻
縁です。母屋、庇に裳階が付くのは珍しく格式ある寺院であることを表しています。

 

 
 
「向背」階段を覆うため
のものといわれていますが
向背は階段の幅よりはるか
に広く、階段を覆うためだ
けではなく礼堂の役目をも
果たすためでしょう。


        蓮華王院本堂(妙法院)

  「蓮華王院本堂(妙法院)」は俗称「三十三間堂」と言う方が世間に知られております。
「県別国宝建造物表」で「蓮華王院本堂(妙法院)」で掲載しましたところ「三十三間堂」
が漏れてますよとメールをいただいたことがあります。
 実際は「三十三間」の母屋の四面に一間の庇を付けた三十三間四面堂です。
 
「蓮華王院」の「蓮華王」とは「千手観音」のことです。平安時代は積善のため数を
競うとはいえ1001体もお祀りする空前絶後の仏の数です。1001体もの仏像を安置し
ますので本堂の桁行が35間と長いうえさらに梁行は通例2間であるのが3間となっ
ています。     

 

 


       本 堂(大報恩寺)

 「大報恩寺」は俗称「千本釈迦堂」
で京都の風物詩である「大根炊き」
で知られ、多くの人々に親しまれ
ています。
 「本堂」は市街地にあるのに相次
ぐ内乱にも焼失せず残ったもので、
京都では最古の仏堂として貴重な
遺構です。
  黒ずんだ木部と白い壁と白色塗
装した軒下の明るさが見た目にも

見事なアクセントを築いています。

 

  「東寺」の正式名は
「救王護国寺」です。
  東寺は通常南側では
なく
裏側(北側)からの
入場となります。
 「金堂」は廻り込んで
正面からご覧ください。
正面に回られる方は少
ないです。
 
五重塔は一番奥にあ
るように見えますがそ


          金  堂(東寺)

うではなく、正門から入るとまず最初に五重塔にお目にかかることになります。塔
と金堂との主役の交代を象徴するような状況です。
 通常の密教寺院とは様子が違い和様、大仏様、禅宗様が入り混じった混合様(?)
です。
 裳階が雄大で二重に見え
威風堂々たる仏堂です。
 裳階の正面を一段上げるものは平等院鳳凰堂、法界寺阿弥陀堂、東大寺などがあ
ります。    

  「大師堂」は寝殿
造では貴重な遺構
ですが寝殿造の知
識は持ち合わせて
おりませんので解
説は出来ません。
 大師と言えば
弘法大師、太子と
言えば聖徳太子、
関白と言えば
豊臣秀吉と言うよ


            大 師 堂(東寺)

うに固有名詞となっております。 
 
南側の本尊は「不動明王坐像」で当初は不動堂と呼ばれていましたのが北側に本尊
「弘法大師坐像」をお祀りしたので大師堂と呼称変更になりました。弘法大師坐像は
運慶の子息・大仏師康勝の作ですが非公開です。
 向拝は北面、東面に付いております。高欄付きの縁が回りに巡らしております。

 


        本  堂(清水寺)

 「清水寺」に関しては「清
水の舞台から飛び降りる」
とか物騒な話があります
が京都では一番人気があ
る寺院でしょう。春の桜、
秋の紅葉の名所でシーズ
ンともなればこの位置か
らテレビで何回も放映さ
れます。舞台からの眺め
も最高ですがこの離れた
場所から同じ目線で本堂

が眺められることが魅力の一つと言えるでしょう。
 「本堂」は江戸時代の再建ですが細部装飾を用いない和様で構造は難しく説明は出
来ません。
 
  本堂は「懸崖造」で
懸崖造とは舞台(礼堂)を増設するため床を張り出した構造で
す。
この造りは観音菩薩の浄土である補陀落山(ほだらくさん)を想像して造られた
のではないかと言われています。

 

  「知恩院」は浄土宗の開祖
「法然上人」が開いた寺院で
あります。
 豪壮雄大な三門を潜り急
な階段を上がると「御影堂
(みえどう)(本堂)」が南向
きに建立されており前庭も
広く威風堂々たる建築です。


                              御 影 堂(本堂)

  御影堂は法然上人をお祀りした堂で、知恩院では最も重要な建築であります。
 桁行11間、梁行9間、梁行9間のうち内陣が3間、6間が外陣となっており外陣
に重点が置かれているのは多くの信者を受け入れるためであります。
 知恩院の七不思議に名工「左甚五郎」の忘れ傘があります。寺院建築と左甚五郎と
いえば「蟇股」ですが知恩院には左甚五郎作の蟇股が存在するのでしょうか。

 


        金  堂(仁和寺)

  「仁和寺(にんなじ)」は天
皇の勅願で起工され、竣工
された時代の年号の「仁和」
をとって寺名とされました。
また、仁和寺を御室御所と
尊称された経緯から御室と
いう地名が誕生しました。
 現在は、美しい装いをし
て昔日を偲ばせる佇まいを

 残す豪壮、華麗な造形美が息を吹き返したようです。目にも鮮やかな姿が歳月と
共に褪せていかないうちに瞼の裏にしっかりと焼き付けられてはいかがですか。
 桁行7間、梁行5間、一間向拝で裳階は設けられていません。

 

  「観心寺」は大阪では珍しく
四季の自然が楽しめる「花の
寺」として多くの人々に親し
まれています。それだけに
豊かな自然に抱かれた寺院と
言えます。
  緑の鬱蒼とした樹林を背景
に、鮮やかな朱の彩色が一際
目立つ「金堂」を始めて見た時
は古色蒼然の佇まいに見慣れ
ていただけに新鮮な驚きでし
た。

 
        
 金  堂(観心寺)

  古いものと新しいものが調和した仏堂となっています。折衷様の代表作となって
いてその昔折衷様のことを別名観心寺流と言われたことがあったようです。 
 本尊は大変悩ましい魅力ある「如意輪観音坐像」で、弘仁・貞観時代の代表作です
が残念なことに4月17,18日のたった二日しか拝むことが出来ません。

  


              観 音 堂(孝恩寺)
 

 「孝恩寺」は観音寺と孝恩寺が
合併して誕生した寺院です。そ
れらの事情で観音寺の「観音堂」
が現在の仏堂となりましたが本
尊は観世音菩薩ではなく阿弥陀
如来です。
 境内は人影もなくひっそりと
静まり返っていました。
 「観音堂」が木積(こつみ)の釘

無堂(くぎなしどう)と俗称されるのは建築の際釘の使用を控えたからでしょう。
 屋根は珍しい行基葺であり建築様式は折衷様です。 

  


          金 堂(法隆寺) 


     二重基壇
 基壇は平安時代とも
なると消えていきます
がその中で二重基壇の
貴重な遺構です。

  「金堂」は世界最古の木造建造物として世界的に有名です。
 二重の金堂で裳階付き、雲斗、雲肘木の雲文様、人字形割束、角垂木の一軒、平
行垂木などは法隆寺に限る特徴でしょうか。それとも、飛鳥時代の建築では通例だ
ったのでしょうか。遺構がないので判断のしようがありません。
「玉虫厨子」が丸垂
木の一軒であることから
飛鳥時代は一軒の丸垂木が主流だったことでしょう。
 柱をエンタシスとする
面倒な加工仕上げを柱の組み立て後に行っているのは、エ
ンタシスに何か相当の思い入れがあったからでしょう。

 「大講堂」は法隆寺再建時
にはなく食堂が記録されて
いることから当時は食堂と
講堂とが兼用だったのがそ
の後講堂専用に用途変えを
したのではないかと言われ
ています。その講堂も延長
三年(925)の落雷により焼
失しました。
 金堂と違い講堂ともなる
と組物も簡素な平三斗です。


        大 講 堂(法隆寺)

 金堂は柱間が中央から脇間に向かって狭くなりますが講堂は総べての柱間は等間
隔となっています。彫刻などの荘厳もなく中備は蟇股ではなく間斗束です。
 野屋根では現存最古の遺構です。野屋根の場合周り縁は木製が殆どですが大講堂
は雨にぬれても支障がない石製です。 


         夢 殿(法隆寺)

 「夢殿」は東院の金堂で、
世界的な建築家ブルーノ・
タウトが夢殿を「建築の真
珠」と絶賛したように際立
って優れた姿をしています。
後世に屋根を揚げ軒を長く
しているが姿の美しさは変
わりません。
 
夢殿は東院の金堂と塔を
兼ねた建築です。夢殿とは
平安時代の命名で、後の言
い伝えですが聖徳太子が夢

殿で三経の注釈書を作成中、難題が出る度に夢の中に仏が現れて解説を受けたとい
う説話によるものです。ただ、聖徳太子の夢殿とは焼失した前の夢殿(八角仏殿)で
す。
 夢殿の前にある「礼堂」は鎌倉時代創建ですが中門跡に建設されているのは先述の
中門が礼堂として使われた証ではないでしょうか。

 東院の講堂だったのが
「伝法堂」と呼称変更になりまし
た。
 伝法堂の前身は天平時代の有
力な貴族の邸宅の遺構で、平安、
鎌倉時代の貴族の住宅の遺構が
存在しないだけに貴重なものと
いえるでしょう。軽快で穏やか
な屋根と妻側の形は最高に美し
いと言われています。
 天平建築の特徴である横材を
細くして縦の線を強調していま
す。

 
       伝法堂(妻側)(法隆寺)

 


        鴟尾   金 堂(大仏殿)(東大寺)   鴟尾(合成写真)

  「金堂」は世界最大の木造建築物です。金堂というより大仏殿の方が通りがよいよ
うです。仏像と言えば年配者と言うイメージですが大仏さんだけは老若男女に愛さ
れておりいつ訪れても金堂は大変な人混みで外国からの来訪者も目立ちます。
 金堂は江戸時代の再建でその当時は我が国でも巨木は入手困難となっておりまし
た。ところが大仏殿は巨木を多量に必要としたので、桁行を創建当時の11間から
7間に縮小しての再建となりました。しかし、縮小されたとはいえ近年の瓦の葺き
替え工事で建設機械工具が揃っている現代でも7年と言う長い歳月を要したという
巨大建造物です。 
 屋根にある鴟尾の間隔に合わせて参道の側溝が造られています。


       法華堂(三月堂)(西面)(東大寺)

 「法華堂」は前述の
「双堂」で説明したも
ので、問題の

「相の間」に設けられ
木樋」は緑の矢印
のところにあります
のでご確認ください。
 法華堂は
桁行5間、
梁行4間の正堂の正
面に、梁行2間の

礼堂が軒を接して並んでいました。
 
名建築の誉れ高い法華堂ですが北側の建築は「正堂」で奈良時代の創建、南側の建
築は「礼堂」で鎌倉時代の再建、それから間もなく一体化された仏堂です。写真でお
分かりのように屋根は正堂は寄棟造、礼堂は入母屋造と異形式の建築を合わせたの
にもかかわらず見事に一体化されていて名建築と言われる所以です。
 正堂は当初は天平時代では珍しく板敷だったそうですが現在は天平時代の仏堂ら
しく土間床に改築されています。礼堂は鎌倉時代の再建当時の板敷きです。本堂の
内陣が土間床で外陣が板敷というのは前述の園城寺金堂始め数は多くないですが密
教本堂などに見られます。  
 屋根だけの空間であった相の間は、半分が正堂に残りの半分が礼堂に組み入れら
れました。
 法華会の行法が旧暦の3月に実施されたので「三月堂」とも呼ばれています。

 「二月堂とは旧暦の
二月(新暦の三月)に
お水取りが行われたと
ころから命名されまし
た。
 左に見える階段(青
矢印)
を燃え盛る(籠)
松明を担いで上がって
いきます。
 二月堂の「舞台」から
同じ目の高さに「大仏
殿の鴟尾」が見えます。
 舞台は奈良の町々が
一望できる場所でもあ 


 閼伽井屋       二月堂(東大寺)

り釣り灯籠を入れての記念写真には絶好の
場所です。

 
左にある「閼伽井屋」内にある若狭井で、
お香水を汲み取り「本尊」にお供えするとこ
ろから「お水取り」と言われるようになった
のです。
 右の写真は若狭神宮寺の「閼伽井戸」で東
大寺二月堂の「若狭井」へお水を送る水源の
井戸です。若狭の閼伽井戸と奈良の若狭井
とは繋がっていると言うことです。


     閼伽井戸(若狭神宮寺)


        東 金 堂(興福寺)

 「東金堂」は室町時代再建
です。南都でも大陸の新建
築様式の大仏様を採り入れ
ているのに興福寺は頑なに
伝統の和様の建築様式で再
建しました。
 ただ、再建に際して柱を
長く、軒先を高くしている
のは禅宗様の
堂内を高くす
様式を採り入れたもので
す。 

 優美で端正な正面に対し側面すべては和様建築の特徴である眼に沁みる「白壁」で
す。
  

 「北円堂は残念ながら春秋のわ
ずかな日数しか公開されません。
  北円堂は鎌倉時代の再建ですが、
興福寺では現存最古の堂で、天平
時代の律令政治の立役者である
「藤原不比等」の追善を営むために
建立されたものです。
  建築は鎌倉時代には珍しい八角
円堂で、屋根の軒に特徴がありま
す。それは三軒(みのき)で、通常
は地垂木と飛檐(ひえん)垂木の二
軒(ふたのき)の構成であるのに対
し、飛檐垂木が二つもあります。


       北 円 堂
(興福寺)

  屋根に乗っている燃え上がるような火炎宝珠露盤も素晴らしいもので見応えのある
ものとなっています。

 


         金 堂(唐招提寺)

 「唐招提寺」は天平時代を
色濃く残した寺院です。
 「金堂」は平成の解体大修
理で、平成21年まで拝観で
きません。
 天平時代の金堂では唯一
の遺構です。
 
通常、柱間は中の間の三
つが等間隔であるのが、中
央の間から端の間に向けて
短くなっていくのが特徴で
す。
 

 寺院建築の白壁が全然なく扉と連子窓だけです。 
 昔は前面一間の吹放しと回廊とが繋がっておりました。
 天井が天蓋の役目をしており、天井画は
華麗な装飾文様で文様の種類は多く見事な
出来栄えです。
 
 
平成の解体大修理が終わり次第写真を入れ替えますと同時に「唐招提寺のお話」を全
面的に見直す予定です。

 「講堂」は平城京の朝集殿
を寺院の仏堂らしく改築し
移築したものです。
平城京
の宮廷建築の唯一の遺構で
す。
 移築の際、日本建築なら
ではの「切妻造」を「入母屋
造」に「柱間」は各13尺を両
端の間を11.4尺に変更しま
した。
 
天平時代の国宝指定の金
堂と講堂が
残っているのは
唐招提寺だけです。


        講 堂(唐招提寺)

 


         東 院 堂(薬師寺)

 東院堂は江戸時代に移築す
る際基壇を高くした後、南向き
から西向きに変更しました。
 薬師寺でお堂と安置された仏
像の両方が国宝指定というのは
東院堂だけです。その仏像とい
うのは白鳳時代の傑作中の傑作
と誉れ高い「聖観音立像」です。
 東院堂の優美な姿は回廊が迫
っているため見渡すことが出来
ません。 

 建築は貫、木鼻、桟唐戸、小組格天井で和様を基調に大仏様の様式が採り入れ
られています。

 

 「本堂」の最大の特徴は屋根
勾配が緩く穏やかで典型的な
天平様式であることです。
 前述の唐招提寺金堂の外面
は扉と窓だけでしたが本堂は
扉と白壁だけです。
 
梁行は2間が通常であるの
に3間となっているのは国宝
指定の本尊薬師如来坐像と
十二神将像を安置する大型の

 
        本 堂(新薬師寺)

形基壇を納めるため梁行を3間にしたのか、都合よく3間の建築があったので利
用したのかのどちらかでしょう。

 南門からじっくりと眺めて、安定感のある優美な仏堂を心ゆくまでお楽しみくだ
さい。

 


       
  極 楽 堂(元興寺)

 「元興寺」は当初金堂があ
る大寺院でしたが時代の波
にのみ込まれて昔の栄華を
偲ぶべくもありません。
 現在ある「極楽堂」と
「禅室」は
東西に長い一棟だ
った東室南階大房
という僧
房が改築されて誕生したの
です。
 金堂は南向きですが浄土

教の極楽浄土を礼拝する極楽堂は東向きに変わります。
 
正面の柱間は奇数になるのが正規であるのにかかわらず、僧坊を改変したので正面
の中央に柱がくる偶数の6間となっています。正面の柱間を奇数にしなければ中央に
柱が来て不都合ですが、中央の柱を基準に左右3間となり整然としているようにも見
え違和感は感じさせません

 「元興寺の極楽堂・禅室」は「行基葺(ぎょうぎぶき)屋根」ですが、この行基葺の瓦の
中には飛鳥時代創建の
法興寺」の屋根に載せていた瓦、すなわち、1400年も遠い昔に
作られた瓦が混じっていると言われています。

 「禅室」は極楽堂と同じよ
うに僧坊の4房分を改築し
た端正で優美な建築ですが
鎌倉時代の再建といわれる
くらい手が加えられており

大仏様で改築しようとした
のか大仏様式の濃いものと
なっています。
 
正面・背面に縁を設けて
います。


     禅 室(元興寺・奥の建築は極楽堂)

 

           金 堂(室生寺) 

 「室生寺」といえば人々
を魅了し続ける石楠花が
有名です。
 「金堂」は
平安初期の貴
重な遺構です。

 
懸崖造の金堂でありま
すが観音信仰ではありま
せん。
 後の時代に礼拝空間の
「礼堂」が必要となり、増
設する礼堂の場所が崖や
傾斜地、池などの制約が
ある場合はどうしても懸

崖造形式にせねばなりませんでした。礼堂は孫庇を葺き下ろして増設しました。 
 室生地域では雨が多い対策として土壁を止めて板壁、主要部材は桧ではなく雨に
強い杉が使われています。
 屋根は「柿葺(こけらぶき)」で、孫庇屋根の微妙な曲線は本瓦葺では絶対に成しえ
ないものです。割石乱積の基壇が金堂を一層趣のあるものとしています。

 室生寺は金堂と本堂があ
りそれが両方とも国宝指定
となっています。
 「本堂」の屋根は「桧皮葺」
ですが屋根上には草がぼう
ぼうと生えて草葺屋根とな
っています。
 灌頂堂とも言われるのは
真言密教の重要な儀式であ
る「灌頂」が行われるからで
す。
 戒壇院に当たるものが真
言密教では潅頂堂です。
 屋根の隅の反りは厳しく


       本 堂(灌頂堂・室生寺)

禅宗様の建築を見ているようです。板壁で周囲に縁を廻らしています。木立に囲ま
れて静かに佇んでいる優雅な本堂です
 

 

 
         本 堂(当麻寺) 

 「当麻寺」にも先述の室生
寺と同じように本堂と金堂
が存在します。
 当初、「礼堂」がなく、庇
に孫庇を葺き降ろして礼堂
(外陣)を増設し本堂となり
ました。本堂へと改変する

過程が分かる
貴重な遺構と
して有名です。
 本堂は當麻曼陀羅を祀っ
てあることから「曼陀羅堂」

とも呼ばれ、内陣まで入れていただけます。
 
野屋根を採用した割には屋根勾配は緩やかなものとなっています

 

 「金峯山寺(きんぷせん
じ)」は桜の名所・吉野山
にあります。

 
「本堂」は東大寺大仏殿
に次ぐ巨大建造物で亭々
と聳える豪壮雄大の景観
となっています。
 巨大本堂に相応しい本
尊「金剛蔵王権現像」で秘
仏の中でも最大像です。
秘仏公開にお参りしまし
たが迫りくる巨大像を拝
見し睥睨と呼ぶに相応し 


         本 堂(金峯山寺)    

い威厳に思わず息をのみました。
  柱の素材はつつじ、杉、欅、梨で余り加工されておらず自然木のまま利用されて
います。
 組物は高い位置にあるため肉眼では無理ですがいろんな種類の組物があり興味が
尽きない建築です。

 


       本堂(長谷寺・正面・南面)     

 「長谷寺」は四季折々の花で
彩られた「花の寺」として有名
ですがとくに
ボタンがよく知
られております。

 399段の階段があります
が段差は極端に低く登るのは
大変楽ですし、ボタンを鑑賞
しながら登れば楽しいでしょ
う。

 大規模な「本堂」ですが
本堂
周辺は鬱蒼とした樹林で全景
写真の撮影は撮れず
懸造の一

部と屋根しか正面からは望めません。拝殿(舞台造)からの眺めは素晴らしいです。
内陣と外陣の間にある
相の間は通常石敷で造られるので石の間とも言われます。
相の間の石敷は禅宗様の四半敷です。相の間を自由に通れるのは珍しいことです。
本堂は内陣、相の間、外陣、舞台の複合建築です。 

 

 「秋篠寺」は女性に絶大な
人気を誇っている「伎芸天」
が安置されています。
 
「本堂」が簡素な造りにな
っているのは前身の講堂を
改修したからでしょう。そ
うではなく鎌倉時代の再建
という説もあります。講堂
の跡地に金堂を移したので
はないかとも考えられます
が確たる証拠はありません。 


          本 堂(秋篠寺)

 いずれにいたしましても本堂は秋篠寺に相応しく天平時代の軽快な優しい屋根勾配
で安定感のある優美な姿を漂わせています。境内は奈良市内にあるとは思えないほど
静寂な世界が広がっています。

 


          本 堂(十輪院)       

 「十輪院」は奈良の市街地にある
わりには人影もなく静かな佇まい
のお寺でした。
 「本堂」は寺院建築というより住
宅建築と言ったほうが似つかわし
く優しい雰囲気を醸し出しており
ます。 
 「本尊」は石仏龕に納められた石
造の地蔵菩薩立像で本堂は礼堂に

当たるものです。
 柱も細く垂木の代わりに厚板を利用して軒を支える「板軒」という珍しい構造です。

 

  「霊山寺(りょうぜんじ)」は境
内に一歩足を踏み入れると
「大辯才天」の掲額を嵌め込んだ
朱塗りの鳥居があるのに少し驚
きました。
 「本堂」は屋根は瓦葺で、
軒下
が高く、尾垂木付二手先という
格の高い建築となっています。
 南都では珍しい新和様による
密教本堂です。

 素晴らしい景色の境内で山岳


           本 堂(霊山寺)

寺院の面影があります。きれいに掃除されていて清清しいお寺でした。

 


       本 堂(長弓寺)

 「長弓寺は霊山寺に近接し
ています。
 「本堂」は
新和様による密教
本堂で
屋根は奈良では珍しい
「桧皮葺」です。
正面の中備の
み蟇股で装飾しています。
 
背景の雑木林に囲まれてい
る本堂は優美な佇まいを感じ
させます。その本堂を数人の
方が写生をされており穏やか

で安らぎを感じさせる雰囲気の境内でした。

 

     
 「栄山寺」は和歌山県の県境に近く奈良
県の中心部からかなり離れたところに位
置しています。静寂さが漂い、時間が止
まったような境内でした。拝観開始時刻
より早めに到着しましたが受付に人が居
られどうぞと入れていただいただけでな


      八 角 円 堂(栄山寺)

く京都神護寺、宇治平等院の鐘と共に平安三絶の鐘とされている梵鐘(国宝)の撮影
をも勧めていただき心のこもったお迎えでした。
  「八角円堂」は天平時代の遺構で簡素な構造ですが気品に富む歴史的建造物です。
外面は八角形ですが内部の母屋部分は四角形です。
 屋頂に乗る宝珠露盤は珍しい石製です。

 


本 堂(長保寺)

  「長保寺(ちょうほうじ)」
は紀州徳川家の菩提寺です
が少し質素な感じがしまし
た。とはいえ、「多宝塔」
「本堂」「大門」の3棟が国宝
指定と言う由緒ある古刹で
す。
 「本堂」は桁行5間、梁行
5間の安定感ある気品漂う
仏堂で、美しい雑木林の背
景に溶け込んでいて古色蒼
然そのものでした。
  和様に禅宗様の様式が採

用された折衷様です。 
 本堂前方の東側に国宝指定の多宝塔が建っています。  

 

 「善福院(ぜんぷくいん)」
は「長保寺」と同じく和歌山
県下津町にあり周囲がミカ
ン畑です。
 人が訪れることも無く境
内はひっそりとして静かな
佇まいの寺院です。
 「釈迦堂」は、禅宗様の建
造物では「入母屋造」が多い
中「寄棟造」であり「桧皮葺」
「柿葺」が殆どの中「本瓦葺」


        釈 迦 堂(善福院)  

であり母屋も裳階も一軒の平行垂木という禅宗様式らしくない禅宗仏堂でした。 

 


      不 動 堂(金剛峯寺)

  「金剛峯寺(こんごうぶじ)」は
「弘法大師」が密教の教えを広め
るため建立された寺院です。
 「不動堂」は東向きに建てられ
た住宅風の仏堂です。
 桁行(正面)3間、梁行(奥行)
4間で一間の母屋、一間の庇に
縋破風の孫庇を付けた複雑な構
造のため、説明するのが難しい

ので皆さんの目で確かめてください。 
 右に僅かに見える朱色の建築は「根本大塔」です

 

 「太山寺(たいさんじ)」は
神戸市に存在しますが後述
の同名の「太山寺」は松山市
内にあります。
 「本堂」は神戸市内では唯
一の国宝建造物ということ
ですがよくぞ今まで保存で
きたものです。大規模を誇
る桁行
7間梁行9間堂で撮


                  本 堂(太山寺)

影位置を探しましたが堂前の左右には樹木が生い茂っておりこれが精一杯の撮影位
置でした。  
 地垂木に比べて飛檐垂木が短く、しかも、間斗束、板唐戸という様式で古風な

和様に近い
造りでした。
 四季の自然に囲まれた風雅な本堂で緑青色の銅板葺屋根は美しいものでした。

 


        本 堂(鶴林寺)

 「鶴林寺」は法隆寺とは
関係があったらしく太子
堂があります。
 「本堂」は方7間堂の大
型仏堂で「折衷様」の傑作
中の傑作と言われるだけ
に完成された様式美を誇
っており優美な姿が存分
に楽しめます。
 浄土宗寺院ではないで
すが本堂は東面していま
す。室町時代再建ならと

もかく創建で向拝がないのは珍しく古刹寺院ゆえでしょう。前面の7間総てに扉が
嵌っています。

 

  「浄土寺」は兵庫県小野市
にあり同名の寺院は後述の
広島県にもあります。
 「浄土堂」は「大仏様の仏
堂」を今に伝える典型的な
遺構だけに貴重です。しか
し、大仏様と言えども
屋根
が軒反りがない直線という
のは他に類を見ないことで
しょう。何か意図があって


            浄 土 堂(浄土寺)

のことでしょう。
 大仏様の特徴である朱色と白色が映えて美しい姿をした格調高い大規模な建築で
見応えのあるものです。方三間には見えないほどの大型仏堂です。
 像高、5.3bもある「阿弥陀如来像」を安置した堂内は木組を天井で隠さず豪快な
構造美を誇っています。

 


          本 堂(朝光寺)

 「朝光寺」は兵庫県の人
里離れた静かな山間部に
ある大堂で人影はなく、
美しい大自然のふところ
で眠っているようにひっ
そりとした境内で一際魅
力あふるる眺めとなって
います。
 石段を上がると山門で
それをくぐると三間もあ
る向拝付きの本堂が目に

飛び込んできますが虚飾を排した控え目な美しさです。
  「本堂」は入母屋造の時代なのに寄棟造で寺院の創立が相当時代を遡るのかも知れ
ません。
 折衷様の代表的な象徴である和様の蟇股の上に大仏様双斗が乗っています。
 近くには先述の「浄土寺」があります。  

 

 「明王院」はJR福山駅よ
りそんなに遠くない芦田
川の辺にあり、「本堂」
「五重塔」が国宝指定と言
う由緒ある名刹寺院です。
 「本堂」は小山を背に東
面して建ち南隣りには
五重塔が建っています。
法隆寺は東向きでなく南
向きですが本堂(金堂)と
五重塔の並びは同じです。
 非常に均整が取れてい


         本 堂(明王院)  

る本堂に大仏様、禅宗様を積極的に採り込んでいて一つ一つの装飾部材は必見の価
値があり代表的な折衷様建築です。
 屋根の軒反りは大きく反り禅宗様のようです。

 


         本 堂(浄土寺) 

 「浄土寺」は建築群の美し
さに驚くと同時に鳩の多さ
にびっくりいたしました。
 本堂と阿弥陀堂を挟んで
国宝指定の「多宝塔」が並ん
でいる屈指の名刹寺院です。
 「本堂」は先述の明王院ほ
ど大仏様、禅宗様が取り込
まれていないので折衷様の
初期の建築でしょう。
 中備は間斗束ですが人目

に付く向拝の正面は蟇股で装飾しています。

 

 「不動院」は広島市内に位
置するのに人影も少なく境
内は静まりかえって親子連
れが砂遊びをしておりまし
た。

 「金堂」は方5間一重裳階
付の大規模な禅宗様の仏堂
です。その事由は
禅宗から
真言宗に改宗されたので、
「仏殿」が「金堂」の呼称に変
わっています。不動院の
 


         金 堂(不動院)

寺名から当然本尊は「不動明王」と思ったら「薬師如来」でした。
 禅宗様なら母屋は扇垂木で裳階は平行垂木が普通であるのに裳階まで扇垂木です。
 
金堂が原子爆弾による被害をよく乗り越え今日まで雄大かつ繊細な美しい姿を留
めることが出来たのは連綿たる血の滲むようなご精進があったからでしょう。

 


         仏 殿(功山寺)

 「功山寺(こうざんじ)」は
下関市にあり毛利家の菩提
寺と言う格の高い名刹寺院
です。
 先述の「不動院」と同じよ
うに寺名を改称されたとの
ことです。
 「仏殿」は禅宗様の仏殿と
しては現存最古の遺構で、
豊かな自然に抱かれ非常に
均整がとれた美しさを湛え

ています。 
  屋根の軒反りは禅宗様にしては穏やかな美しい曲線美でした。

 

 「本山寺(もとやまじ)」は
香川県下では唯一の国宝建
造物で、本尊は馬頭観世音
菩薩、脇侍が阿弥陀如来と
薬師如来という奈良では考
えられない配置です。
 「本堂」の屋根は背が低く
両端の反りが少ないので穏
やかな感じでしたが棟の長
さが短いのが少し気になり


             本 堂(本山寺)

ました。 
 本堂は弘法大師の一夜造りとのことで、「室生寺五重塔」も弘法大師の一夜造りの
言い伝えがあります。
  中備は総て「間斗束」の上に「蟇股」を組合せたもので「元興寺極楽堂」と同じ形式で
す。
 
  本堂と並んで建つ「五重塔」は初層と最上層の桁行の低減率が極端に小さく、一見、
一重塔に四つの裳階付きの建築のようでした。

 


         本 堂(大宝寺)

 「大宝寺」の周辺には数多く
の墓地が並んでおり「安楽寺
三重塔」を思い出しました。
 「本堂」は県下最古の木造建
築とのことですが右側の樹木
は鬱蒼として多くの年輪を重
ねた「うば桜」で、全景撮影は
無理でした。初めて本物のう
ば桜にお目に掛かりました。
 自然に溶け込むこじんまり

とした建築の上、前面は蔀戸でまるで仏堂というより住宅のようでした。庇部分は
面取の角柱ではなく丸柱でした。
 一間四面堂で隅のみ舟肘木という飾り気のない阿弥陀堂形式の本堂でした。 

    

 「太山寺(たいさんじ)」は
第52番の札所で、次から次
へとお遍路さんがお参りに
来られては先達の合図で一
斉にご詠歌や般若心経をあ
げられました。その間撮影
は休憩するという初めての
経験でした。 
  「本堂」は県下最大の国宝
建造物といわれるだけあっ


             本 堂(太山寺) 

て雄雄しい反りの屋根で豪壮な姿でした。
 桁行より梁行が広いので破風も大きく、その妻飾の彫刻は見事で見応えのあるも
のとなっています。

 

 
       薬 師 堂(豊楽寺)

 「豊楽寺(ぶらくじ)」は四国
では国宝指定の現存最古の遺
構です。昔は人の往来もあっ
たのでしょうが四国山中にあ
りただ鳥のさえずりがする静
かな世界でした。
 「
薬師堂」はきれいに整備さ
れており
ここまで見事に保存
されているのは地域住民の方
々の熱意の賜物だと感心いた

しました。
 真言密教の薬師堂の印象は、白壁もなく総て木製の板壁でしかも柿葺(こけらぶ
き)の屋根の軒反りは長刀反りで、まるで禅宗様の仏堂のようでした。破風の下部
で陽の当たらない柿葺部分は日焼けなく、綺麗な色をしている事からもつい最近葺
き替えされたのでしょう。柿葺は瓦葺より重量的に軽いので垂木は簡素な一軒でし
た。柿葺といえば「室生寺金堂」があります。
 窓は和様の連子窓でしたがガラスが嵌っていました。
 箱棟と鬼瓦は多分銅板製でしょう
 

 

 「冨貴寺」は豊後高田市にあり自
然のふところにあるのどかで不気
味なほど静まり返った境内でした。
 「大堂」は急な階段を登ると目の
前に樹林を背にした姿で突然現れ
ます。
 昭和20年には米軍が捨てた爆弾
が近くに落ち大堂は大きな損害を
受けたとのことですが手入れの行


            大 堂(冨貴寺)

き届いたお堂でした。
 
ただ、遠く九州にまで屋根が古代の穏やかな勾配の行基葺で建設されているのに
は驚かされました。
 平安時代に盛行した一間四面堂の「阿弥陀堂」で、内陣が後方に下げられていて礼
拝者のための外陣が広くとられています。
 大堂は国宝指定の和様建造物では九州唯一の遺構で貴重な遺産です。

 

 「崇福寺」は江戸時代に伝来した黄檗宗の寺院で
す。寺院の配置は中国伝統の左右対称となってお
らず、坂の町、長崎という地理的な制約によるも
ので、曲がりくねった階段状の伽藍配置となって
います。 
 最初に潜る門は「三門」で竜宮門とも言われ異国
情緒豊かな門構えです。屋根の両端の飾りは魔伽
羅(まから)という守り神です。
 普段見られない霊獣や装飾で飾られた禅宗門で
す。

  階段を上ると国宝指定の「第一峰門(だいいっぽうもん)」ですがいずれかの時に紹
介いたします。 

 第一峰門を潜り右に折れると左前
方に「仏殿」が目に飛び込んできます。
 「仏殿」は中国様式であるため基壇
が設けられています。堂の前庭は石
畳ですが狭く全景写真の撮影場所は
ここしかありませんでした。
 掲げられた扁額には「大雄宝殿」と
なっており「釈迦如来」が祀られてい
ることを表しております。黄檗宗で
は仏殿を大雄宝殿と呼びます。


       大雄宝殿(崇福寺)

 建築様式は1階が黄檗様で2階は和様と禅宗様が混じり合っており折衷様を意識
して設計されたのでしょうか。前方で太い柱に見える2本は角柱です。
 大陸から建築様式が飛鳥時代、鎌倉時代、江戸時代と3回に亘って伝えられまし
た。過去2回は我が国の建築様式に極めて大きな影響を与えましたが黄檗建築は我
が国の寺院建築にはさほど影響を与えませんでした。
 黄檗建築と言えば京都にある「万福寺」も有名です。