仏壇のお話

 奈良時代は顕教であって、仏像は直接礼拝の対象とされ、仏堂に安置された仏像は在家
の者でも礼拝することが出来ました。ところが,次の平安時代になると、密教では重要な
仏像は秘仏として厨子内に安置したため、何人も仏像を拝見することは不可能となりました。

 本来、仏壇とは字の如く、壇であって箱ではないのです。その壇は木製、石製、土製な
どがあり、須弥山をかたどった須弥壇であります。その須弥壇に安置された仏像の中でも、優れた出来映えの仏像と対座でき、心が和めるのは、古都奈良だけといってよいでしょう。東大寺三月堂などは、天平時代の傑作の仏像をゆっくりと眺められるように座席が設けら
れているほどの親切さです。その座席に座って、安らぎの中に身を委ね仏像と対座してい
ると、離れ難い感動を覚えられることでしょう。大仏さんもいいですが、騙されたと思っ
て一度三月堂を訪ねられてはどうですか。
  
  いろんな形状がある仏壇の中で変わったものが、新薬師寺(本薬師寺、薬師寺とは関係
ありません)の本堂に設けられています。円形の須弥壇で、直径9メートル、高さ90セ
ンチもある大きさで、表面は漆喰で塗り固められています。
 その須弥壇に安置された本尊・薬師如来は壇像風では現存最古の作品であります。その
姿は榧材の素木のままで、三十二相の金色には輝いてはいません。しかも、如来の瑞相で
ある白亳が顔の眉間にはなく、ぎょろ目で全体の印象はきつい感じで、いかにも男性的で
大変厳しいものとなっております。木彫技法ならではの翻波式衣文(ほんぱしきえもん)、茶杓形の衣文、渦文などは弘仁・貞観時代しか見ることが出来ません。それらの特徴ある
衣文を探し見届けください。怨霊が盛んであった弘仁・貞観時代の様式を見事に表現され
た典型的な仏像であります。

 それと本尊を取り巻く、薬師如来の眷属である十二神将像は、奈良時代の傑作で、十二
神将像としては現存最古のものであります。材質は塑土(粘土)で焼くこともせず、湿度
の高い大和盆地で千二百年も長い間保存出来たのは、奇跡としか言いようがありません。
下塗り、中塗り、仕上げ塗りの技巧の見事さは、抜群の技術力を持った工人達が存在した
ことの証明でもあります。この十二神将のうち、特に伐折羅(ばさら)大将像を拝見され
ますと、興奮で身震いされること間違いなしです。

 また、本堂の外観はおおらかな大きな白壁となっており、屋根は勾配が緩く、軽快な天
平の屋根となっております。棟の鬼瓦は憤怒の表情ではなく、ユーモラスな顔をしたもの
です。奈良時代の建築様式を知る貴重な遺構でもあります。

 本尊を祀る堂を金堂と呼称するのは日本だけで、中国、韓国では大雄仏殿などと呼んで
います。金堂とは黄金の本尊を安置するからだとの説もありますが、不思議なことに日本
では仏さんは黄金色が褪せたもの、すなわち素材の肌が剥き出しになった仏さんに魅力を
感じるようです。それなのに金堂とはこれいかに・・・。当然インドから韓国までは経典
通り仏像は金色になっております。我が国が黄金崇拝を拒否した国とは思えませんが。
 ミャンマー旅行記に書きましたように、ミャンマーの敬虔な仏教徒達は寺院の入り口で、金箔を買い求め、仏さんの体に貼り付け熱心にお祈りしています。我を競って仏さんに金
箔を貼り付けた結果、仏さんの姿は球形となっていて、説明がなければ誰も仏像だと気付
かれないでしょう。

 奈良時代には、厨子と言う言葉もまだ使われておらず、殿堂形式の厨子を宮殿(くうでん)と呼びました。宮殿形厨子の現存最古の遺構は玉虫厨子、ついで古いものは橘夫人念
持仏であります。二具とも法隆寺の大宝蔵院に納められ、手に取るようにご覧になれます。

 現在、一般家庭の仏壇は、本尊と脇侍だけを祀るのが正式でありますが、先祖崇拝と結
びつき先祖の位牌も祀られています。その仏壇で本尊を祀る場所は宮殿(くうでん)と言
います。
 余談ですが、仏壇は向かって右が上席であるゆえ古い位牌は右側、新しい位牌は左側に
納めます。