参考資料




ブロードウッド社製ピアノの修復報告
復元 竹パイプのパイプオルガン
☆ 竹のオルガンの演奏動画をupしました。(new!!)(→こちら










ブロードウッド社製ピアノの修復報告



昨年秋に修復をさせていただいた大阪音楽大学音楽博物館所蔵の1816年に作られた、ブロードウッド社製ピアノの修復報告が発表されました。
 大阪音楽大学音楽博物館のwebページの刊行物をクリックしていただいて、  ”■「ブロードウッド社製ピアノ」修復報告 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 平山照秋”の”本文”をクリックしていただくと、修復の報告書が出てきます。→こちら
 少し写真が不鮮明な所もあると思いますが、概要は分かっていただけると思います。10年もっと前から、修理、修復をしないといけない言っていたのですが、やっと昨年修復が出来ました。一昨年はこのブロードウッドの横に並んでいる、同じくイギリスのカークマンと言うメーカーのピアノの修理をしました。カークマンに比べて造りはそんなに良くはないのですが、音は素晴らしい楽器になりました。ベートーヴェンが同じ方のピアノを使って重要なピアノ作品を作っている楽器で、歴史的にも価値がある楽器が演奏できる状態になり、よい仕事をさせていただいたと思っています。ご興味のある方はどうぞご覧になってください。










復元 竹パイプのパイプオルガン


平成22年   古楽器製作家 平山照秋


PDF版はこちら


                          

はじめに

 平成21年度の仕事として、熊本県天草市から依頼を受け、16世紀後半に日本人が天草で作った竹のパイプのパイプオルガンの復元製作をすることとなりました。製作に当たって当時作られた楽器がどのような物であったか、なぜこのような形のオルガンを復元製作するに至ったかを説明させていただくために、この文章を作りました。


1) 日本に伝来したオルガン

@ 伝来した年代
 多くの方は、日本にパイプオルガンが入ってきたのは、明治、大正の頃と考えられていると思いますが、(大正9年徳川頼貞により英国から直輸入され南葵音楽堂に設置された物が最も古いオルガンとしている人もいます。そして、この徳川頼貞氏は奇しくも、フィリピンの世界で唯一の大きな竹のパイプオルガンを自費で大修理した人なのです)1579年にすでに日本にパイプオルガンが入って来ていました。(もっと古くから日本に入ってきていたと言う説もありますが、竹井成美氏著 「南蛮音楽の光と影」54pから57pに、巡察使 ヴァリニャーノが1579年に2台のオルガンを携えて来たとあり、その根拠も示されています)1台は織田信長のいた安土に、もう1台が大友宗麟の豊後臼杵に設置されています。そして、運ぶ途中に天草と高槻でこのオルガンを使ってミサが行われたり、オルガン演奏が行われたと記録にあります。


A 伝来したパイプオルガンはどのようなオルガンだったのか?

 伝来したパイプオルガンに関しては、他の楽器同様一切の資料、文献がありません。キリスト教禁止とその後の弾圧で全ての楽器も文献も無くなってしまいました。唯一の資料となる、数多くの日本からローマに送られた書簡やイエズス会年報にも、どのような楽器であったかは、記述がありません。ですから、他の伝来した楽器と同様に、当時のヨーロッパの楽器、特にイタリアなどの南ヨーロッパで使われていた楽器から類推するしかありません。それと、当時の日本国内の交通事情、教会での使われ方、教会の大きさなどから考えてみました。

(参考1) 江戸後期「庭訓往来絵妙」
文政12年出版 より

 オルガンが日本に入ってきた時は、宣教師が初めて日本に来た時ではありませんから、すでに日本での、道路事情、交通手段、運搬方法などは分かっていたでしょうから、大きなパイプオルガンはまず、運ぶのが困難と思ったでしょう。舗装もされていない、街道と言っても狭い道でしたから。(当時の運搬方法としては、現在より小さい古来種の馬による運搬が主で、力の強い牛での運搬は平坦な近距離に限られていたようです。主要道路である、西国街道を何度も以前通りましたが、狭いところでは幅員は3mくらいですし、曲がりくねっています。安土にオルガンを運ぶ際にもこの西国街道は使われたでしょうから。)・・・・・「参考1」・・・・・  そして、最も大事な、教会での使われ方です。オルガンが伝来するまでは、ヴィオラ・ダルコ(弓で演奏する弦楽器)の伴奏による聖歌演奏が行われていました。( 竹井成美氏著 「南蛮音楽の光と影」54p)このように、聖歌の伴奏が主な使われ方だったと思われます。そのためには、現在、音楽ホールや大きな教会で見られるような、ストップ(音栓)の沢山ある大きなパイプオルガンは必要なかったと思います。

(参考2−1)ドイツ17世紀の
ポジチーフオルガン

 教会の大きさもそう大きくなかった(ヨーロッパの大聖堂などに比べて)と思われますので、1列か2列程度のパイプを持った楽器で充分だったと思われます。(大きな教会でも、教会は音響的に残響も多く、響きの良い所が多いので、大きな教会でも、もっと小さなオルガンで充分では?と思うことも多くありましたので)
 音域も聖歌の伴奏であれば3オクターブもあれば充分だったと思われます。でも、キリスト教の教会で聞くパイプオルガンは、キリスト教を広めるためにも、大きな手段だったでしょうから、ある程度の曲が弾ける必要があったと思われます。(日本に入ってきたオルガンを安土などに運ぶ際ミサで使うほか、オルガンを演奏していますので)それでも、3オクターブ半か4オクターブもあれば、充分だったと思われます。(・・・・「参考2−1」・・・・・数少ない現存している16世紀のイタリアの楽器、17世紀のドイツのポジテーフオルガンでも3オクターブ半です。ちなみに、もっと時代が後の、有名なバッハの平均律クラヴィーア曲集は、4オクターブで全ての曲が演奏出来ます)

(参考2−2)
イタリア1500年頃の
ポジチーフオルガン

 そして、日本人が作ったパイプオルガンと比較した文章で、ヨーロッパの金属パイプのオルガンとの比較が出てくるので、日本に入ってきた、小型のパイプオルガンは金属製のパイプではなかったかと思われます。これは、パイプオルガンのよくある例として、小型オルガン(ポジティーフオルガン)は金属パイプの楽器が多く、当時の絵に出てくる、ポジティーフオルガンはほとんど丸い形の金属パイプです。・・・・「参考 2−2」・・・・(木製パイプだと、四角くなります)これは、もっと小さい膝の上に載せて演奏する、ポルタティーフオルガン(2オクターブ程度の小さなオルガン)もそうなので、このポルタティーフオルガンの延長線上にある、ポジティーフオルガンも金属パイプが多いのです。又、日本人が作ったパイプオルガンがパイプを竹で作ったことも、入ってきたオルガンが金属の丸いパイプだったと思われる一つの要素です。もし、日本に木管のオルガンが入ってきていたなら、器用な日本人だと、比較的簡単に木管のパイプだと作れるからです。これは、現代の日本でもアマチュアの方が沢山、ポルタティーフオルガンやポジティーフオルガンを木管、木製で作っているのを見ても分かります。四角い板を削って、接着すれば木製のパイプが出来ますが、自然のサイズや、太さ、厚み、そして円もまちまちの竹を使うのはとても大変ですが、あえて竹を使っていると言うことは、入ってきたオルガンが丸い金属パイプであったからだと思われます。

 そして次に、構造上、形から大きく分けて、テーブル・ポジティーフ(テーブルの上に載せて演奏する小型のパイプオルガン)と脚付きポジティーフ(形として脚とオルガン本体と一体になっている小型オルガン)と言う2種類の楽器があって、どちらの楽器が日本に伝わったかと言うのも、問題点でした。エマニュエル・ビンターニッツ著 「楽器の歴史」(History of Musical Instruments)の @「宮廷での奏楽」タペスリー 1500年頃 A 「オルガニストとその妻」 イスラエル・ヴァン・メッケネム作 B 「白衣賢王」ハンス・ブルクマイア 1516年頃 C 「皇帝マクシミリアン1世の勝利」より ハンス・ブルクマイア 1516年頃 以上・・・・・「参考3」・・・・・ など多くの絵に見られるのが、ふいごが楽器の後ろに水平に付けられていて、ふいごを上下に動かすテーブルポジティーフオルガンです。テーブルなど大きな台の上に載せて演奏します。これに対して、脚付きと言うのは、文字通り楽器の下に専用の台、脚が付いていて、楽器として独立して演奏できるものです。ふいごは楽器の後ろに垂直に付いていて、前後にふいごを動かします。そして、一般的にはテーブル・ポジティーフより大きい場合が多いようです。どちらの楽器が日本に入ってきたのか、迷いましたが、元東京藝術大学教授、元日本オルガニスト協会会長の秋元道雄氏の著書 「パイプオルガン 歴史とメカニズム」の26ページ27ページに、ポルタティーフ・オルガン(携帯用オルガン)と比べて演奏中に持ち運びの出来ない楽器として、置かれるオルガンの意味でポジティーフ・オルガンと言うと書かれています。テーブルオルガンはポジティーフの中でも小さな物で、市民の大きな家の広間や小さな礼拝堂に置かれたり、時には町の広場や劇場のオーケストラ席に持ち出され、市民らに愛用されました。世俗の楽器の様相を示して歌ったり踊ったりする音楽に使われることが多く、14世紀ごろ全盛をほこったオルガンでした。とあります。これに対して、脚付きポジティーフは容易に動かす事が出来ないが、設置された場所の目的に従った性格を持つようになり、教会のポジティーフは主に合唱団席やトリビューン(会場の入り口の上の席)に置かれ、合唱の前奏や伴奏に向くように製作されています。と書かれています。そう言えば、前出の絵は全て教会での絵ではなく、宮廷などで使われている絵です。小型で沢山あって、一般的に使われたテーブルポジティーフが沢山書かれているのは、自然な事かもしれません。又、いくら小型でも、キリスト教を広めるため、音だけでなく形も美しい楽器であったろうと思われます。又、演奏のたびに大きなテーブルが必要だったり、そのために大きなテーブルと運んだと言うのも、どうかと思いました。(テーブルが大きすぎると、参考の絵の「オルガニストとその妻」にあるように、テーブルの上に座ってふいごを操作するというあまり教会にはふさわしくないことも起こりうるので)そこで、小型の脚付きポジティーフオルガンが日本に入ってきたのではないかと考えました。

(参考3−@)フランス1500年頃
「宮廷での奏楽」
(参考3−A)オルガニストとその妻
(参考3−B)白衣賢王 1516年頃
(参考3−C)皇帝マクシミリアン1世の勝利」より

 以上をまとめると、1列か2列の小型脚付きポジティーフオルガンで、音域は3オクターブ半から4オクターブの金属パイプの物ではないかと思われます。ですが、これはあくまで私個人の考えです。さらに、資料を探していると、教会で使われたオルガンの絵が出てきました。ベルナルディーノ・カンピ作 「聖セシリアと聖カタリナ」1566年 イタリア クレモナ 、聖シジスモンド教会、そしてヒューホー・ファン・デル・フースの「聖三位一体を礼拝するサー・エドワード・ポンキル」1478−1479年頃製作 スコットランド国立美術館蔵 以上2点にファン・エイクが描いた 「ヘントの祭壇画」ベルギー、ヘント バーフ大聖堂 ・・・・・・・「参考4」・・・・いずれも、脚付きオルガンが描かれています。秋元先生の言われたように、教会では脚付きオルガンが使われていたようです。そして、数少ない16世紀のイタリアのオルガン「参考2」の写真も壁際で撮られています。写真を撮るためにふいごを外したとも考えられますが、貴重な楽器を写真のためにダメージを与える事はしていないと思いますので、これらの楽器もオルガンの後ろに垂直にふいごがついていたと考えられます。また、この中では比較的大きなファン・エイクが描いたオルガンの本体に 運搬用の取っ手が付いています。教会のオルガンであっても、この程度の大きさだと、運搬、移動が出来る構造になっていたということが分かります。

(参考4) ベルナルディーノ・カンピ
Bernardino Campi (1522-1591)
「聖セシリアと聖カタリナ」
St.Cecilia St.Catherine
1566年制作
クレモナ、聖シジスモンド教会
Chiesa di Sn Sigismond, Cremona
(参考4) ヒューホー・ファン・デル・フース
Hugo van der Goes ( c.1436-1482)
「聖三位一体を礼拝するサー・エドワード・ボンキル」
Holy Trinity Adored by Sir Edward Bonkil
1478-1479年頃制作
エディンバラ、スコットランド国立美術館
National Gallary of Scotland, Edimbourg

(参考4) フーベルトおよびヤン・ファン・エイク
Hubert and Jan van Eyck
(Hubert: ?-c.1426 Jan:c.1390-1441)
「ヘントの祭壇画-奏楽天使(右パネル)」
The Ghent Altarpiece – Angel Musicians (right panel)
1432年制作
ベルギー、ヘント、聖バーフ大聖堂
Cathedral of St Bavo, Ghent, Belgium



B 1590年代に日本人によって作られたパイプオルガンについて
 日本に入ってきたオルガンもかなりの部分を想像するしかありませんでしたが、400年以上前に日本人が作ったオルガンはどんな物であったかは、さらに難しい問題です。
でも、日本に入ってきた楽器を実際に見て作っていると思いますので、前項の入ってきた楽器を元に考えてみました。分かっている事はパイプが竹であったということ。そして、「金属製のパイプのオルガンに比べて同程度か、あるいはそれ以上に柔らかい音色を有した。」
とロペス・ガイの「キリシタン音楽 日本洋楽史序説」のなかにゲレイロ「日本イエズス会士年報・1600年―1608年」の引用として出てきます。重要な一節なので、横田庄一郎氏著 「キリシタンと西洋音楽」100ページから引用させていただくと。

 ヨーロッパのそれよりもはるかに太く丈夫な一種の筒である竹筒で何台かのオルガンも製作された。その竹はブリキと同程度か、あるいはそれ以上に柔らかな音色を有した。主要な諸協会には以上のオルガンが備え付けられている

 さらに、註では「一報告は、ポルトガル船カピタン・マヨール・ルイス・メンデスの1596年のセミナリヨ訪問を語っている」として「彼は『うわさのようにオルガンが竹で製作されたか否かを自分の目で見、自分の手で触れたいと』主張した。『彼はオルガンを見、触れ、その音を聴くと、少なからず感嘆した』」と言う内容を紹介している。これは、1596年のことと記されておりそうなら、日本人のオルガン制作年代はさらに遡ることになりそうだ。

と書かれています。これで、判断させていただくと、1595年以前1590年頃には作られたのかもしれません。日本にパイプオルガンが入ってきたのが、1579年とすると10年か20年足らずで日本人が製作していることになります。この間に、セミナリオでは、実業科目としてオルガン製作が組み込まれていたとしても、すごい事だと思います。」
ここでもう一度、当時作られた楽器ですが、実際に竹でパイプを作ってみると、当時の日本人よりはるかにオルガンの知識も、他の楽器(リコーダーなど)の知識もある私が作っても大変難しいことでした。自分が大変だったことは別かもしれませんが、当時の日本人にとっても大変なことだったと思います。ですから、パイプは一列で、(竹で同じようなパイプを作っても音色の変化を付けるのは難しく、また、一列増えるだけでストップの切り替えの装置など、かなりの作業が増えますし、その分メンテナンスが必要です)音が明るい、音の大きい開管で、必要な音域である3オクターブか3オクターブ半くらいではなかったかと思われます。(前項参照)必要な諸元だけでなく、横田庄一郎氏著の「キリシタンと西洋音楽」95ぺージからロペス・ガイのキリシタン音楽が引用しているモンテの書簡では、ヴァリアーノの天草巡察について書かれており、「我々は音楽で、又日本では極めて珍しい楽器の故に日本人から絶賛されたオルガンでミサを執行している」と報告されている。このように、オルガンは日本人が絶賛した楽器なので、日本人が作った楽器も、見事な美しい楽器であったと考えます。また、1587年には伴天連追放令が公布され、キリスト教の厳しい環境の中で、強い意思で作られたと思います。音だけでなく、手に入る最高の材料で作られたのではないかと考えます。


C 今回復元製作した楽器について

 Bの当時の日本人が作ったパイプオルガンの項を参考に、復元しました。でも、この楽器が400年以上も前に日本人が作ったパイプオルガンの復元されたもの。と言う事でなく、あくまで私の考えた当時の楽器の復元です。ですから、他の人が作れば又違う楽器になると思います。と言う事で、この楽器ですが、もちろんパイプは竹で作らている、開管1列のパイプのみの、脚付きポジティーフオルガンです。ふいごも背面に垂直に付いています。音域はファからドまでの3オクターブ半です。オルガンのパイプの種類を表すのはフイートが使われますが、これは、中央のドの長さで表します。この長さが8フィートのものが基準ですが、8フィート1列だと、音がはっきりせず、オクターブ上の4フィートなどを付けて、音の輪郭を作ったりします。さらに音楽的な要求によって、更にオクターブ上の2フィートなども管も付ける事があります。一列のパイプで使おうとすれば、オクターブ上の4フィートだと使える場合が多く、現代でも4フィート一列のポジティーフオルガンも多数作られています。今回も一列と言うことで、4フィート菅を採用しました。前項で説明させていただいたように開管です。閉管だと蓋があって、調律し易いのですが、音楽的な調律より音の明るい、少しでも音の大きい開管としました。

(参考5−1) フィリピン
ラスビャーナス教会 バンブーオルガン
(参考5−2)
バスリコーダー歌口

 そして、パイプについてですが、最初は年代も現代よりも近いので、フィリピンのバンブーオルガンの歌口に近い形で試作しました。・・・・「参考5−1」・・・・歌口のエッジに当たる角度、距離などが一定でなく、音量、音色などを揃えるのが困難でした。竹のパイプは外見は丸く金属パイプに似ていますが、構造は木管のパイプと同じです。リコーダーの歌口のように直線的な歌口としました。・・・・・「参考5−2」・・・・・この形だと、全てのエッジに同じように空気が当たりますので、音量、音色も揃えやすいのです。フィリピンの楽器はパイプの数も多く、一列のパイプだけで演奏することも無いと思いますので、多少のばらつきがあっても、多くのストップを使うことにより多数決で、音色、音量が揃うと思います。ですが、今回作る楽器は一列で、音量、音色を揃える必要がありますので、リコーダーの歌口に近い直線の歌口としました。



(参考6)一般的なオルガン歌口
(リコーダーとも同じ)
(参考7)左からバンブーフルート、
リコーダー(バス)、インドの縦笛
(参考8)バンブーフルート 歌口のカット部分

 次に、一般的には、オルガンの歌口、リコーダー、バンブーフルート、インドなどの民族楽器に見られるように、エッジの中心に空気が当たるように設計します。・・・・・「参考6」・・・・・でもこの形だと、・・・・・「参考7」・・・・・のように、竹を切り欠く必要があります。ただ、こうするとこの部分の強度が不足して割れ易くなります。これを解消するためにバンブーフルートでは、歌口以外の部分を切ったりしていますが・・・・・「参考8」・・・・この形だと、空気を送るパイプが付けられません。そこで、竹を切り欠ことなく、パイプを作るため、エッジの角度、幅、長さなどを考え設計しました。

 これ以外にも、竹でパイプを作ることには問題がありました。まず、菅の直径を太いものから細い物まで、そろえる必要がありましたが、自然に育った竹ですので、なかなか目的の太さの竹が見つかりません。見つかっても、曲がっていたり、竹の上のほうでは、枝があると、そこからは、丸くなくかなり凹んでいます。44本の竹を揃えるために、300本以上の竹を切りました。その竹を、竹でギターを作っている、九州 久留米の中山修さんにアドヴァイスをいただき、熱湯に重曹を入れ、長時間煮沸して、虫が付かないようにしました。切る時期も、12月、1月の最も寒い時期に切りました。この時期だと、竹に虫の卵が無いと教えていただきましたので。次に、竹を切ってからも、問題がありました、竹は一見丸いように見えますが、まず丸い竹はありません。(今回の竹も全て楕円でした)そのため、木栓(ブロック)を作るのにかなり手間がかかりました。(木栓の材料は当時の人も考えたと思うので、一番乾燥しても収縮しにくい桧を主に使いました)又、せっかく作っても、所定の位置まで押し込むと、中が広がっていて、使えないと言う事も何度もありました。また、煮沸して乾燥させると、内部も凸凹になり、エッジが真っすぐ作れませんので、かなりサンドペーパーなどで、凸凹を取りました。竹は比較的節の間は真っすぐで、円筒形だと思われますが、竹によっては、先が細くなっていたり、太くなっていたりしています。そうなると、実際にパイプを作って、オルガンに設置すると、オクターブ上の音がしたり、倍音が同時に鳴ったり、音色が違ったりします。これらを、歌口などの処理で何とか、解決しました。そのために、1本のパイプに1日、2日とかかったこともあります。

 次に、構造の問題ですが、開菅でも調律が出来るように、スリットを入れ、その部分をスライドさせる事によって、調律が出来ます。ですが、当時の使われ方は、聖歌の伴奏で、温度が変わって、ピッチが変わっても問題はなかったと思います。合わせても、ヴィウラ・ダルコくらいでしょうから、調弦をするだけで問題は解決しますから。また、菅の上部にスライドする物を付けることも出来ますが、調律の必要がなければ、付ける事は無かったと思いますので、今回のオルガンでは、付けませんでした。(オルガンは菅の中の空気が振動していますので、温度により空気の密度が変わり、ピッチが変わります。温度が低くなれば、音も低くなり、温度が上がれば、音も高くなります。今回の楽器は、20度でA=440 にしています。参考までに、温度が5度上がると、A=444 10度上がると(30度だと)A=447 逆に5度下がると A=436 10度下がるとA=432になります)オルガンのパイプはリード管などがなければ、全体にピッチが変動しますので、ピアノやチェンバロのように、音域によって変化の仕方が違うと言う事はありません。この点からも調律の機構は設けませんでした。
そして、調律方法はアロンのミーントーンとしました。(ピエトロ・アロン 1490−1545 が1523年に発表しました)16世紀一般的に用いられていたのと、教会で使う場合3度の響きが美しいミーントーンを使っていたのではないかと考えられるからです。

 次に風箱の問題です。現在の一般的なオルガンでは、一定の圧力で空気を送るため、風箱を付けています。現存している数少ない、16世紀のイタリアのポジテーフ・オルガン、17世紀のドイツのポジテーフ・オルガンなどを見ても風箱は無いように見えます。「参考2」又、当時の絵を見ても、風箱が付いているスペースが無いように思えます。「参考 3」又古いオルガンの録音を聞くと、風箱がなく音程が変わる楽器もありました。実際風箱のないこのオルガンを弾くと、ふいごを強く押し、空気を沢山送ると、明るく大きな音になり、静かに押すと、柔らかく、暗く小さな音になります。大きなオルガン曲を弾く場合は、息継ぎなど難しいのですが、当時そんなに大曲を弾いてもいないと思いますし、少し慣れればふいごの操作はそんなに難しくありません。逆に、ふいごの操作で色んな音楽表現が出来ることが解り、風箱は無くても問題点以上のメリットがあるのが解りました。そして、肝心の音ですが、ちょうど金管と木管の間の音で、両方の良い面を持っているように感じました。木管の音の柔らかさもあり、金管の華やかさも。当時の日本人がどこまで考えて、竹にしたのか分かりませんが、作ってみて、ヨーロッパのブリキのオルガンに比べて、良いものが出来たと思ったことでしょう。

 そして、本体の材料はオルガンで一般的に使われている水楢(ミズナラ)の木を使いました。日本でも良く見られる木で、ヨーロッパの楽器を見た日本人はやはり同じ木を使って、同じような楽器を作ろうと思ったのだろうと考えました。鍵盤は柘植の木です。これも九州だと手に入りやすい木ですから。あと、当時のほうが手に入りやすかったかもしれませんが、ヨーロッパの楽器にも良く見られるべっ甲なども使い、美しい楽器になるよう考えました。

 仕上げも最初は当時から良く弦楽器に使われていた、セラックニスを考えていましたが、日本で作られた楽器ですので、拭き漆の技法で仕上げました。幾分和風のイメージとなりました。

(参考9) 天草本
「心霊修行」1596年より

 同じく、イエズス会の教会の楽器ですので、今村義孝氏著 「天草学林とその時代」150ページの天草で印刷されたイグナテゥオ著「心霊修行」よりイエズス会の紋章を、142ページより「エソポのファブラス」より文様をお借りして装飾させていただきました。当時天草で出版された多くの本を見ると、表紙に必ずといってよいほどイエズス会のマークが入っています。ですから、貴重なオルガンにもこのイエズス会の文様が入っていても良いかなと考えました。・・・・「参考9」・・・・・・


 最後になりましたが、私は専門のオルガン建造家ではなく、チェンバロ、リュート、ヴィオラ・ダ・ガンバといった古楽器の製作家です。400年前の日本人もオルガン製作家がオルガンを作ったわけでなく、オルガンを見てまた、セミナリオで学んで神父に指導を受けながら作ったと思います。同じようにオルガン建造家でない立場の私が、400年以上前の日本人がどのように考え、作ったのだろうと思いを馳せながら製作させていただきました。


竹のパイプオルガンの音を聞いてみたいという方が、沢山いらっしゃるようなので、2010年6月5日に天草 コレジオ館 創立20周年記念コンサートで使われた竹のパイプオルガンの映像をユーチューブにアップしました。ビデオの音なので、実際の音とは少し違うかもしれませんが、実際に聞いていただくには天草まで行っていただかないといけませんから、雰囲気は伝わると思いましたので、アップさせていただきました。

  復元 日本人が400年以上前に作った竹のパイプオルガン(1)
  復元 日本人が400年以上前に作った竹のパイプオルガン(2)



(参考文献)

@ 竹井成美著     「南蛮音楽 その光と影」       音楽の友社
A 横田庄一郎著    「キリシタンと西洋音楽」         朔北社
B エマーニュエル・ヴィンターニッツ著 皆川達夫・磯山雅 訳
            「楽器の歴史」           PARCO出版
C 秋元道雄著     「パイプオルガン」           ショパン
D 今村義孝著     「天草学林とその時代」      天草文化出版社
E その他  インターネットの バンブーオルガンのHP他、オルガン関係のHPも参考にさせていただきました。