Reenactment Group "BCo/100Bn""

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イタリアンフロント1944”Battle of Belvedere” レポVol.1



2019年4月28〜29日にかけて開催しましたリエナクトメント、「イタリアンフロント1944”Battle of Belvedere”」のレポートをお送りします。
数年前から温めてきた、小規模でも内容の濃いリエナクトメントをやろうとの企画でしたが、今回??戦史研究団体 Lueders Kaserneの協力を得て、開催に漕ぎ着ける事ができました。

想定時期は1944年6月の中部イタリア。
ローマを開放し、北上する連合軍の尖兵として進撃する第100歩兵大隊。
対するはドイツ陸軍の主力後退を支援する、第162歩兵師団隷下のトルキスタン義勇軍第1野戦大隊。
戦史において記述と地図から読み取れるのはここまでです。
この先の中隊、小隊以下の行動に関して残る記録はありません。
当時の状況から、何パターンもの想定が考えられる中で、充分起こりえたと考えられる状況を両軍参加者に付与し、1夜2日をシュミレートして実施致しました。



集合し、軍装を整えた後、当初の作業要領と管理事項について説明致します。




天幕を設営した後、毛布と個人天幕の携行要領について教育を行ないます。
これはアメリカ陸軍で定められた天幕の携行要領ではありませんが、当時の日系兵士が多用していたと思われるやり方です。




天幕巻きを完成させ、装備を整えて再度集合し部隊長の検閲を受けます。
形式的なばかりではなく、実際に行動に適した装備を携行しているか、検査する事も連続状況をするにあたって重要です。





その後、分隊の行動に関して訓練を実施。
距離感や展開要領と言うのは文字にすると簡単ですが、実際には身体で覚えないと難しい項目です。
この訓練には広い場所が必要であり、なかなか機会は少ないので今回は状況開始前に実施致しました。








行動前に昼食を配布。
10in1レーションのパーティアルディナーユニットです。
Kレーションに近い構成で、携行が容易で簡易な食事を摂る事ができます。
内容物はクラッカー、シリアルバー、ブイヨンスープ、ガム、ハッシュドコンビーフです。



中隊は前進を開始。
上級部隊から偵察報告の上がっている”B丘”に対する攻撃の、集結地を目指します。
※時間の関係上今回、長い距離の行軍は実施していませんが、本来は数10km以上の行軍でした。







分隊は森に入ります。
イタリア戦線は主に山岳地を争う攻防であり、第100歩兵大隊は常にその尖兵でした。
彼らは1日分の食糧と弾薬、僅かな寝具を携行してそのほとんどを徒歩で突破していきました。





集結地に到着。
想定の小隊長から指示された地域へ分隊を展開させます。







分隊は更に分隊長から位置を示され、退避壕を構築します。
これは主に砲撃から身を守る為の壕で、戦闘地域では部隊が停止する毎に掘られたでしょう。
もっともイタリア戦線では、岩場が多く固くてまったく掘れなかったとの証言も残っています。



全員が穴掘りに没頭する訳ではなく、当然警戒の歩哨が立ちます。
本来は部隊の前衛に歩哨用の警戒壕を構築し、警戒するのですがそれが完成するまではこのように地形地物を利用して身を隠し、敵方を監視します。










さて一方のドイツ軍ですが、午前中から山中に入り陣地を構築していました。
今回の想定は第162師団(トルキスタン義勇部隊)です。
彼らはイスラム教徒のテュルク人(トルコ人に非ず)を中心に編成された部隊ですが、その範囲は中央アジア全体にう渡っており、アジア系の顔立ちも多いのが特徴です。
もっとも、今回その部隊を想定したのは第100歩兵大隊が直接戦火を交えている事が判明している部隊だからですが。
今回の想定ではドイツ軍主力は戦線を放棄して撤退中であり、当該部隊はそのしんがりとして遅滞戦闘を命ぜられていました。

斜面と岩場、そして雨と悪条件が重なる中で陣地を構築し、障害(模擬鉄条網、及び地雷)を設置してアメリカ軍の進撃を遅らせるための戦闘を準備します。






日が陰り森の中は薄暗くなってきた夕刻に昼間斥候が実施されました。
小隊長から発せられた斥候命令は分隊長直率で実施されることとなり、分隊員の中から斥候組が編成されます。
装備は最低限の小銃とバンダリアのみ。
砲撃が予想される為、ヘルメットは着用します。

昼間斥候は双方、比較的遠距離まで視認できるため、おおまかな敵陣地の情報から、その配置を探ります。










一方残る分隊員も退避壕の構築を継続します。
退避壕はその名の通り、砲撃等から退避して身を守る為の壕で規定の幅、深さを持ちます。
その規定サイズで構築しなければ、砲弾の破片などが飛び込み易くなり、効果が得れません。
また、基本的に長さは壕に入る人の身長を考慮して構築します。
夜間、多少なりとも快適に過ごせなければ翌日以降の行動に影響するでしょう。






また退避壕とは別に歩哨壕の構築も指示されました。
退避壕で待機する分隊より前提に構築し、敵の接近を警戒する為の壕です。
本来昼間用と夜間用は位置をそれぞれに適した場所に構築するのですが、その理由や場所の選定については実際に参加して学んで下さい。










敵陣に接近した斥候組はその手前で更に詳細な指示を受け、侵入を開始します。
斥候は大変難しい任務ですが同時に必須でもあり、必ず歩兵は実施します。
この教育はとても紙の上だけでできるものではなく、実際に行動して得られる効果の高いものです。
特に今回のように敵側が実際に配置されている状況はなかなか得がたい機会でした。













ドイツ軍側も一応の構築を終え、警戒を継続しています。
歩哨による敵発見等の報告は分隊長から有線電話を通じて統裁部の想定ドイツ軍小隊長(米軍小隊長を兼ねるが、あくまで電話によるやりとりのため、見た目を気にしない)に報告され、記録されます。











夕食の時間になりました。
出発前に各自に支給したKレーションを食べます。




内容物はクラッカー、フルーツバー、チョコバー、ガム、コーヒー、角砂糖
そしてポークパテ缶と落し紙です。








何度か書いていますが、Kレーションは元々空挺部隊用に開発された携行糧食ですが、その支給の利便性から全兵か問わず支給され、主に前線で兵士達に食べられました。
実際、このような状況の再現においても事前に配り、各自の背嚢に入れておけばどこでも食べさせる事ができるのは大変便利なのがわかります(事前準備は大変ですけどね!w)

一日中行動し、穴を掘り、斥候に出て疲労した身体に昼とたいして変わらないような単調なメニューは、良い体験になったものと思います。
(もっとも統裁部の食事も同じです)





夕食の後、翌日分の10in1レーションが支給されました。
翌朝の攻撃前に食べるのか、攻撃が終わってから食べるのか。
その裁量は分隊長に一任しました。

以降は夜間状況となり、写真は一切ありません。

夕方から降り始めた雨は一時的なものと考えていましたが、結局朝まで降り続けました。
その間、両軍は歩哨と斥候を繰返します。
月明かりは遮られ、霧も発生し視界はかなり下がりました。


以下は本部に有線電話にて報告された内容のまとめです。

A アメリカ軍の報告
D ドイツ軍の報告

1700 A 3名による斥候前進開始。
1728 D 敵2名を発見、その後見失う。
1755 A 斥候帰隊 異常無し。 敵の障害及び陣地について遠方より確認。障害の端については確認できず。
1800 D 定時報告 異常無し。
1840 D 1名を本部へ移動(体調不良により後退、以後本部にて休息させる)
1900 A 夜間斥候1回目を下令。1900〜2100.
1902 D 定時報告 異常無し。
1923 D 1名が転倒により負傷。 本部へ後退(以後、本部にて休息させる)
1933 D 左斜面に人影あり。射撃。効果不明。(後退する味方への誤射か?)
1935 A 5名による斥候、前進開始。
1948 D 正面40mに敵2名を発見。左へ移動。
1952 D 右側くぼ地にて敵らしき兆候。誰何を実施。応答無く4発発砲。効果不明。
2003 D 1名本部へ移動(薬を忘れた為、取りに戻る)
      右歩哨アラート発令(敵斥候の発見か、味方の移動か不明)
      米軍斥候と薬を取りに行ったドイツ兵が接触してしまい、一次状況を中断。双方を後退させる。
2030 A 斥候3名帰隊。 敵の歩哨位置、MG陣地(誤認)を確認。
2115 D 敵斥候2名を捕獲。本部へ後送する。(2名については1時間本部にて拘留の後、陣地へ復帰させる)
2207 D 左前方40mから物音(該当無し)
2220 D MG陣地前方75mに明かりを視認(米軍側はライト等使用しておらず不明。駐車場の車両か?)
2230 A 第2回夜間斥候を下令。2300-0000。
2256 D 明かりが消える。
2300 A 7名による斥候、前進開始。
2310 D MG陣地正面 2〜3名の足音を聴知。
2315 D MG陣地正面 4〜5名の足音を聴知。

2330 D ドイツ軍主力の撤退が完了。丘を放棄し、後退を下令する。
(人員減、及び天候と体調を考慮し、ドイツ軍については想定後退させ本部、待機天幕にて休息させる事とする。
なお、アメリカ軍については状況の継続可能と判断し、ドイツ軍の後退を察知できるか否かで明朝の攻撃実施を判断するとする)
2345 A 斥候帰隊。 再度の斥候を下令。0000-0100。
0000 D 陣地放棄、後退開始。
0005 A 斥候3名前進開始。
0100 A 斥候帰隊。異常無し(ドイツ軍撤退を察知できず)
0120 D ドイツ軍撤退完了。
0130 A 攻撃命令下達。明朝0600前進開始。

記録は以上です。
この後、アメリカ軍は各自掘った退避壕で朝まで過ごしました。
一方のドイツ軍は後退を完了し、本部の待機天幕にて過ごしました。



ドイツ軍だけ後退させたのは様々な理由を総合的に判断しての事でしたが、実際ドイツ軍参加者も大変頑張ったと考えます。
慣れない環境で、これまでこのような訓練の経験もほぼ全員が無い中で指揮と士気を維持し、努力を継続しました。
今回は状況を一部切る事にはなりましたが、また次回以降への良い経験になったかと思います。









一晩中雨が続く中、掘った穴にシェルターハーフテントで屋根を張っただけの寝床でアメリカ軍参加者は朝を迎えました。
全員を起床させた後、健康状態を確認します。
野営に限らずですが、野外活動を行なう際は必ず健康管理を行なうようにして下さい。





速やかに装具を整えます。
アメリカ軍の場合、攻撃後も前進の継続が予想される場合は背嚢まで背負って前進することになります。
天幕、毛布については今回は残置させました。





装備、被服を確認した後、攻撃命令について確認し、更に詳細な指示を示します。
また攻撃においては特に、支援の砲撃や隣接部隊に合わせる為に時間厳守で行動しなければなりません。
すべての準備が整った段階で、時間を確認し前進を開始します。






前進の形態や隊形はその状況(主に敵との距離)に応じて変化します。
まだ敵から発見される位置にないため、姿勢も高いままで縦隊で前進します。
ただし、敵の攻撃準備破砕射撃に対応できるよう、また万が一敵に発見されて射撃を受けた場合も、被害の極限ができるよう、個人間の距離は広めに開きます。







攻撃開始線を越えて、斜面に差し掛かります。
このタイミングを隣接部隊と合わせなければなりません。
昨夜何度も斥候が確認した経路です。
攻撃準備射撃の開始時刻が迫ります。





(想定)攻撃準備射撃が開始されました。
頭上を越えて飛んでいった砲弾が敵陣地へと次々と落下し爆発します。
この直接効果と、煙覆による間接効果の下で部隊は突撃発起位置まで前進します。
砲弾には「もちろん限りがあり、準備射撃もまた時間と弾数に制約を受けます。
決められた時間までに前進し、到達しなければなりません。






急な斜面も一気に超えて前進が続きます。
雨でぬかるみ、滑り易くなっているので慎重さも必要です。
攻撃準備射撃が始まり、頭上を味方砲弾が飛び越えて行きます(想定)






これは裏の取れていないエピソードですが、当時のドイツ軍では第100歩兵大隊を山岳部隊と見ていた、との話があります。
43年から44年冬にかけての彼らによる高地戦は、そのような印象を与える進撃っぷりだったのでしょう。
そこまで我々が再現できているなど思いもしませんが、迅速な山地機動を誇れる部隊であったことは戦史で証明されています。








突撃発起点に到達。
0アワーを待ちます。
装填と弾薬を確認。 状況により着剣します(今回はしていません)





突撃支援射撃開始。
砲弾が敵陣地に落ち、その防御力を削いで視界を奪います。
※今回は花火とハチトリでその射撃を再現しました。






分隊長がBAR班に指示を出し、BAR班は味方の突撃を支援できる位置へ移動し態勢を整えます。




突撃支援射撃の前段最終弾が落下。
BARが支援射撃を開始。








突撃開始。
突撃支援射撃は後段へと移行し、砲撃は延伸されて敵陣地後方へ落下します。
砲撃の通り過ぎた陣地前面、その態勢が整う前に投入しなければなりません。
突撃の経路は、夜間斥候の情報を元に定められています。














突入したアメリカ軍は、障害の突入路を通過すると、瞬時に横隊へと展開し、敵陣地を広く攻撃していきます。
ようやくアメリカ軍は、ドイツ軍の撤退を確認する事となりました。
敵陣地はもぬけのカラだったのです。






ドイツ軍撤収後の陣地へ攻撃をかけた米軍ですが、突入してようやく陣地が無人である事に気付きます。
実際、ベルヴェデーレ近郊での戦史を見ると異常なくらいの速度で第100歩兵大隊は前進しており、このような例は少なからずあったことと考えます。
中隊は残置された機材や装備を確認しつつ、敵の生き残りが居ないか掃討します。








本来の想定に無かった事ですが、陣地内に1名のドイツ兵が残っていました。
(彼は米国人で、言葉の疎通が一部上手くいかず、また「どうしても捕虜になりたかった」ようでした。このあたり、日本もアメリカも変わらない部分があるのでしょうね。)

幸い(?)にも言葉もあまり通じず、相手が何を考えてるか判らなかった為、捕虜としても緊張感を維持する事ができました。
対抗戦形式では起こり得る想定外ではありますが、このあたりは統裁部の裁量と言う所でしょう。
攻撃成功後周囲の警戒、逆襲対処が下令された所で状況中止といたしました。

徒歩にて戻り、整列して人員の異常の有無を確認します。
野外イベントでは必要な事ですが、実際の軍隊であっても人員と健康状態の確認は行なわれます。当たり前ですね。










状況が終了したところで、ドイツ軍と合同でAAR(事後研究会)を行ないます。
今回はアメリカ軍集結地から始め、野営した退避壕、歩哨壕を見学して回り、その後は斥候の侵入経路やドイツ軍側歩哨の位置、障害の位置、更に攻撃経路等をお互いにその意図を併せて説明し、両軍で確認しました。
これは全体の流れを把握できると共に、次回への参加者の良い教育になったものと思います。


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