宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書14章1~14節

 「わたしだ」

説教者  江利口 功 牧師

 

◯世界を感じる

 おはようございます。私は大学生の頃、先輩に紹介されて、あるドラマを見ました。何話かある話の中で、今でも覚えている場面があります。それは、主人公の女性が、好きな男性に手紙を書いている場面なんですが、手紙の中で、彼女は、ある歌の歌詞を書き送ろうとするんです。その歌は、“アラウンドワールド”という歌で、彼女は自分の思いをその歌の歌詞を通して相手の男性に伝えます。こういう歌詞です。「私は、あなたを探して世界を旅していた。あなたに出会った今、あなたの中に世界を感じる。」この歌詞で表現していることはとても深く思います。意味としては、「あなたのような人をずっと探していた。今、あなたと出会い、あなたの中に世界のような広さを感じる」ということだと思います。“探し回っていた世界”の広さと“その人に感じる全て”を重ね合わせて表現しているのが素敵だなって思います。「私は、あなたを探して世界を旅していた。あなたに出会った今、あなたの中に世界を感じる。」

◯み言葉から

これと非常に共鳴している聖書のみ言葉があります。それは、マタイによる福音書に書かれているのですが、「畑に隠された宝の譬え」と「高価な真珠を探す商人の譬え」です。イエス様はこうおっしゃいました。『天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。』(マタイによる福音書13章44節~46節)イエス様は、天の国か私たちにとってどのような素晴らしさ(価値)を秘めたものなのかを例えておられるのですが、畑に隠されていた「宝」、そして、商人が見つけ出した「良い真珠」、ともに、見つけた人は、「持ち物をすっかり売り払ってそれを手に入れる」ほどである・・・そう言って天の国の素晴らしさを教えておられます。つまり、イエス様は、「天の国は、それを知った人にとって、他に何も必要としない、その人の人生の全てとなる」ということを教えておられます。持ち物を全部売り払うということはできていませんが、私にとって、天の国は本当にそのような感じがしています。私は小さい頃から“一つの答え(真理)”が欲しい人でした。ある人はこういっている。また、ある人はこういっている。どっちも正しい。というのが私は駄目なんです。一つの答えが欲しいのです。でも、私は中学生の時に聖書と出会いましたが、ここに真理が書かれているとわかりました。そして今、聖書の中に広い世界を感じています。

◯イエス様の中に世界が広がっている

私たちは、色々なものを探して生きているのではないでしょうか。

安心、幸せ、安らぎの場所、人生を共にしてくれる人を探します。

また、真理を探している人、生き方を探している人、生きる意味を探している人、永遠の命を探している人もいます。私たちは、何かを求めて、探して生きているのですが、聖書は、それらのものが世界のどこかに散らばってあるのではなく、全てが聖書の御言葉の中に、そして、イエス様の中にあると言うのです。イエス様は言われました。『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。』(マタイによる福音書7章7節~8節)もちろん、これは、どこかに答えがありますよ。と言っているのではなくて、ご自身の中にその答えがあるということをおっしゃっているわけです。それだけではなくて、今日の聖書箇所で、イエス様はもっと凄い事をおっしゃっています。『わたしは道であり、真理であり、命である』イエス様は、神の国に入るための道を解き明かす人ではなく、イエス様ご自身がその道なんです。真理は何かを教える人だけではなくて、イエス様ご自身が真理だと言うのです。また、永遠の命がどこにあるのかを教える方ではなく、イエス様ご自身が永遠の尽きない命そのものだと言うんです。そして、イエス様はご自身についてこう言われました。『わたしは天から降って来たパンである』『わたしは良い羊飼いである』『わたしはまことのぶどうの木である』これは、“単に”分かりやすく譬えておられるのではありません。旧約聖書を知っている人がこれを聞けば、全部、その意味が分かる言葉です。つまり、人間にとって、養う方、導く方、繁栄を与える方がイエスキリストであると言うのです。初めに、「私は、あなたを探して世界を旅していた。あなたに出会った今、あなたの中に世界を感じる。」という歌の歌詞を紹介しましたが、パウロは、キリストイエスについて、フィリピの信徒への手紙の中でこう言っています。『そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。』(フィリピの信徒への手紙3章8節)パウロは以前、家柄や、正しさ、聖書に対する熱心さ、そういったものを誇りとし、それを熱心に追い求める人でした。しかし、主イエスキリストを知った時に、全ての価値観が変わったというのです。また、こう言っています。『わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。』(フィリピの信徒への手紙1章21節)つまり、パウロにとって、人生の全てがイエス・キリストだというのです。生きている時、自分の中でイエス様が生きて働いておられる。さらに死ぬ時、私はキリストの所に行くことができる。つまり、生きているキリストと永遠に住むことができる。これもまた益であると言っているんです。、イエス様の中に、わたし達の全てがあります。イエス様こそ、初めであり、終わりである方です。イエス様は、私たちにとって全てであるお方です。そのイエス様が、「わたしを見た者は父を見たのだ」とおっしゃるのです。今日の福音書にこう書かれています。『あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。』(ヨハネによる福音書14章7節)イエス様ご自身が父なる神さまだと言っておられるのではありません。父なる神さまは、ご自身の御心を、イエス様を通してお示しになっているという意味です。御心が形になっているのがイエス様だといことです。イエス様は、こうおっしゃっています。『わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。』イエス様は、旧約聖書でずっと語り続けて来た神さまです。その神さまが人となられたのがイエス様です。イエス様は、私たちにとっての全てである。そして、父なる神さまの御心が表されているのがイエス様だということです。神さまは、どんな方ですかと問われれば、イエスキリストを観なさいと言えるでしょう。そして、そのイエス様が、私たちにもう一つのメッセージをくださっています。それは、「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる」というメッセージです。

◯わたしだ

ある時、船で沖に出ていると、逆風で波は荒れ、また、風のために弟子たちは船を前に進めることができなくなりました。弟子たちが漕ぎ悩んでいる時、湖の上をイエス様が歩いて来られたのです。弟子達は、初め、幽霊だと思い恐れました。しかし、イエス様は、彼らにこう言いました。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』。イエス様はここで、「わたしだ」と言っておられますが、これは、単に「幽霊ではなく、わたしですよ」と言っているようにも聞こえますが、実は、旧約聖書でご自身を示された神さまの言葉と深く関係している言葉なんです。出エジプト記で、モーセが神さまにあなたを民にどう紹介すればいいのですか?と尋ねた時、神さまは、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われました。これは、単に「わたしは存在しています。」という意味ではありません。これは、「昔いまし、今いまし、永遠にいます」というニュアンスを含んだ言葉です。さらに、神さまはモーセに「わたしはあなたと共にいる」ともおっしゃいました。「恐れるな」という神が「わたしが共にいるから」と約束してくださいます。わたしたちは「あってないもの」でも神さまは「あってある続ける存在」です。その方が「共にいる」と約束してくださり、「恐れるな」とおっしゃってくださるんです。

◯最後に

イエス様はわたしたちにとって全ての存在です。そして、様々な不安を抱えて生きる私たちに対して、イエス様は、今日も、「安心しなさい。わたしだ。恐れることない」と言ってくださいます。私たちは、他に安心できる場所を探す必要はありません。「わたしだ」とおっしゃるイエス様の中に全てがあります。