宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ヨハネによる福音書10章1~10節

 「永遠の世界への門」

説教者  江利口 功 牧師

◯はじめに

 おはようございます。私は公務員から神学校に行くことを決心したのですが、初めて神学校を訪れた時のことを今でも覚えています。玄関に入って、スリッパに履き替えていますと、奥の方で賛美をする声が聞こえてきました。その歌声を聞いた瞬間、「霊的な場所だなぁ」って感じました。

そして、“これからここで学ぶんだな”って思うと、神聖な空間に対する緊張と、そこに自分も属するようになるという喜びを感じました。その時、神さまの世界に、少し触れることができたような気がしました。今日は、聖書箇所から「永遠の世界への門」についてお話したいと思います。“永遠の世界”とは、人が神さまの顔を仰ぎ、交わりを持つことができる世界のことです。今は隔てられていますが、神さまがいらっしゃる場所です。

神さまのおられる所に、私たちの永遠のいのちの世界が広がります。

◯二つの門(ひとつめ)

 イエス様は、今日の聖書箇所で「羊の門」について二つの面から語っておられます。一つは、普段、羊たちが養われ、守られている囲いの門です。そして、もう一つは、永遠のいのちの世界に通じる門です。この二つは、別々のようで、実は深く繋がっています。まずは一つ目、「羊たちが養われ、守られている囲いの門」についてお話します。羊は、普段、持ち主の家の側で囲われて飼われていたと言われています。ですので、ちゃんとした囲いと門がありました。羊飼いが羊を連れて放牧している時は、野原で石か何かで囲ったような簡単な囲いの中で羊を休ませます。野原では、羊をその囲いに納めたら入って来た場所に羊飼いが座り、門の代わりをします。イエス様は、そのように囲われた場所から、羊を奪っていく人や獣と重ね合わせながら、お話されました。イエス様は、門からではなく、他の所を乗り越えて来る者は盗人であり、強盗であるって、おっしゃいました。実は、この時、イエス様は、ファリサイ派の人に向けて語られました。盗人であり、強盗であるという言葉は“言われている人”からすればきつい言葉です。特に「強盗」という言葉は強い言葉です。盗人はこっそり盗みますが、強盗は暴力を使ってでも奪っていく人のことだからです。イエス様は、ファリサイ派の人たちに、あなたたちは、聖書の正しい教えを無視して、民(信仰者)を支配しているとおっしゃっているのです。

イエス様は、彼らに対し“羊たちを正しく導かず、むしろ、強引にでも滅びの世界へ引っ張っていく者たち”と批判しておられるのです。彼らは、実は自分達こそ、イスラエルの民を導く者、世話をする者だと自負していました。さらに、自分達こそ聖書の教え通りに生きる正しい人だと思っていました。けれども、イエス様は、彼らを盗人強盗だとおっしゃったのです。正しくない導き手だとおっしゃるのです。例えば、病院に行ったのに、お医者さんが、数値が悪い、重症ですと言うだけで、薬を与えず、もっと生活を改めなさいとだけしか言わなかったらどうでしょうか?

それだけではその人は助かりません。必要なのは、悪い処を明らかにし、そして、治療することです。治した後で、これからは、こういう生活をしましょうねと言うのなら判ります。聖書は正しい生き方を教えます。しかし、同時に、私たちは、それを守ることができない罪人(病人)だと教えます。律法は、私たちの罪を明らかにします。でも、それだけなら、薬を与えないお医者さんと一緒です。それで終わるなら、人には恐怖しか残りません。必要なのは、その罪に対して治療薬を示すことです。

それが、キリストの贖いです。キリストによって、あなたは救われます、というのが聖書の教えなんです。神さまは、人を憐れみ、慈しみ、慰め、そして最終的に平安を与えるお方です。しかし、ファリサイ派の人たちは、その神さまに導きません。聖なる神さまを教え、律法は示しますが、キリストへと導きません。それどころか、「自分達は、律法を守れている、神の目に良い生き方をしている」と自負しているので始末が悪いです。

律法は、私たちの姿を暴きますが、最終的に、救いの道を示すのです。

イエス様は、「あなたを救う方がいる」という最終的な慰めを語らず、羊たちを導こうとする者達を、門ではなく、他の所を乗り越えて羊を連れて行く羊飼い(滅びに導く者)ですとおっしゃったのでした。人々を本当に導く者は、聖書から、救いは自分の力ではなくて、イエス様の十字架によって救われると教えなくてはなりません。

◯もう一つの門

 さて、イエス様は、もう一つの羊の門についておっしゃっていますが、これもまた、一つ目と深く繋がっています。今から、ヨハネによる福音書の10章9、10節をお読みしますが、是非、聖壇の聖書と十字架を見ながら、イエス様の言葉としてお聞きください。『わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。』イエス様は、ご自身が「私たち人間にとって、永遠のいのちの世界に入っていくための門」であるとおっしゃいます。ファリサイ派の人たちが教えていたのは、「聖い人だけが神の国に入れる」という教えでした。ある程度、良い人ならば、大丈夫。神さまの教えに従って生きていたら大丈夫。会堂で礼拝し、神殿で生贄をささげれば大丈夫。そのような教えです。

教えの意味も、礼拝の意味も、生贄の意味も深く考えず、私たちは自分の力では神の国に入ることができないので、救い出してくださる人が必要であるということは教えませんでした。実際に、そのような信仰では救われませんし、イエス様に繋がれません。それどころか、喜びも、慰めもありません。イエス様は、ご自身が門であることを教えられました。イエス様を通って入る人は救われるとおっしゃいました。そして、いつも、牧草で養われる、つまり、乏しいことなく、いのちある生き方ができるようになりますと、約束してくださっています。ただし、とても大切なことがあります。それは、私たちがその門から入ることですが、同時に、本当の喜びを持って生きるためには捨てないといけないものがあるということです。ですので、イエス様は、ご自身の命の門について、マタイによる福音書の中では“狭い門”であるとおっしゃっています。日本の文化に“茶道”があります。お茶を頂くためには、茶室に入ります。ただ、昔、その茶室に入るには、狭く小さい扉から入らなければならなかったそうです。例えば、武士がそこに入るには、刀を置いて入らなければならなかったそうです。武士だと刀を置いて入るって嫌だと思います。つまり、精神的にも狭い扉なんです。聖書が教える永遠のいのちの世界への扉は、その門の前で、捨てなくてはならないものがあります。それは、自分の栄光です。

「これだけのことをやってきた」「この人よりましだ」「少しは神さまの前に差し出せるものがある」そう思っていると、入れないのです。神さまが準備してくださった救いの衣を受け入れる人だけが入れます。でも、自分の栄光って、中々下ろせないものです。永遠のいのちの世界へ通じる門の前で、最終的に問われるのは、私たちがどれほど立派であったかではありません。問われるのは「私は他の人と同じように、あなたの前に罪人でしかありません」と認める信仰です。そして、「私の救いは、ただイエス様の十字架だけです」という信仰です。そう聞くと、「それなら、私もそう思っていますよ」って感じるかも知れません。私もそうです。頭では、その通りだと分かっています。けれども、私たちの中にいる古いアダムは、それを素直には受け入れたがりません。心の奥底に隠しています。なぜなら、古いアダムは自分が神の前に何も良い事はできていないと思いたくないからです。自分のうちに神の国に相応しい誇れる何かがあると思っていたい。自分の努力、自分の価値を最後まで握っていたいのです。私は、この思いを捨てることができれば、どれだけ楽かなって思う事良くありますが、それができないんです。

◯アダムとエバの話から

 聖書の初めに、アダムとエバの話があります。彼らは取って食べてはならない木から取って食べたために神さまの前に死ぬものとなってしまいました。彼らは初め、いちじくの葉を綴り合せて自分達を覆いました。

しかし、その後、神さまの声が聞こえて来た時、彼らは、隠れてしまったんです。なぜでしょうか?それは、律法を恐れたからです。律法には裁きがあります。律法だけなら、彼らには死しかありません。しかし、実際に神さまは福音を持ってやって来られたのです。神さまは、皮の衣を彼らに着せた(創世記3章21節)と書かれています。それは、一つの命が犠牲になったこと、血が流されたことを示されていて、それは、未来のイエス様のことでした。ここでちょっと、想像してください。アダム、エバにとって、その神さまが準備してくださった皮の衣を着るために何をしなくてはならないでしょうか?それは、自分の覆いに使っていたいちじくの葉を捨てることです。私たちに必要なのは、自分の誇りを捨てて、イエス様だけを受け入れることです。でも、救われた私たちであっても、皮の衣の下に、いちじくの葉を着たままの人が多いのです。それでは、イエス様の救いを心から喜ぶことができません。私は善い行いを否定しているのではないです。水曜日、連盟大会がこの会堂であり、ディアコニアについて学びます。私たちの善い行いは、人同士の間では大変、素晴らしいことです。神さまも喜ばれます。しかし、そのことと、神さまの前に出ることができるかどうかは、次元が違うのです。レベルではなくて、次元が違うのです。私たちは、自分を誇りたくなります。でも、その誇りは、神さまの前には逆に、恵みを小さくさせてしまうものとなってしまいます。神さまの前には、捨てなくてはならないものがあります。イエス様は、『わたしは羊の門である。』とおっしゃいました。また、『わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。』とおっしゃいました。神さまは私たちを、救いを通して自由にしてくださるお方です。そして、私たちを草原で養ってくださるお方です。イエス様は、そのために人となってくださいました。そして、十字架で私たちの罪を贖ってくださいました。そして、復活して、今も私たちと共におられます。神の世界のお方が、門であるとおっしゃり、羊飼いであるとおっしゃり、神の小羊にまでなられました。そして、私たちを贖い、羊飼いとして私たちを肩に担ぎ、そして、ご自身の門をくぐり、ご自身の永遠のいのちの世界へと私たちと連れて行ってくださる、それがイエス様です。

◯ヤコブの話から

創世記には、ヤコブが眠っている時に、天から階段のようなものが降りて来て、地上と天を繋ぎ、そして、み使いが昇り降りしていました。

そして、気づくと、主と言われる方がそばにいて、ヤコブを励まし、共にいると約束してくださいました。ヤコブはその時、『ここは神の家』『天の門』だと言いました。ヤコブは、天の門を見ると同時に、そこから降りて来た主と出会いました。この出来事は、神さまの救いの業と似ていると思います。

◯最後に

イエス様は、神さまです。そして、救いの門です。そして、そこから羊を養う羊飼いとして、私たちのところへ来てくださいました。それだけではありません。何と、ご自身が、羊にまでなって、人と共に生き、最後には、人の罪を背負って十字架で死なれました。そして、復活されたのです。イエス様こそ、永遠の神であり、門であり、羊飼いであり、羊です。全てなんです。ですので、私たちは、自分を無にして、イエス様の肩に担がれ、そして、神の国へと連れて行ってもらえばいいのです。御言葉にはいのちがあります。イエス様の中にそのいのちがあります。いのちは私たちが生み出すことはできません。ただ、イエス様を通してのみ、私たちは生きることができます。イエス様という羊飼いに養われながら、自由にされて、今日も、平安のうちに歩んで行きましょう。