宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
ルカによる福音書24章13~35節

 「キリストを証しする書」

説教者  江利口 功 牧師


◯ 奈良観光

 おはようございます。先日、アメリカに住んでいる私の姉が日本に帰って来ました。帰って来たといっても、アメリカ人のお友達を連れて観光しに来たんです。事前に観光スケジュールを尋ねると、奈良公園を観光する予定になっていたので、お休みを頂いて、奈良公園を案内しました。これまで奈良公園の付近を車で走ったりすることはありましたが、じっくり、お寺を巡ったり、鹿がいる道を歩いてぶらぶらするということは全然していませんでした。10年以上ぶりだと思います。ほんと、久しぶりに少しのんびりとしながら、奈良を観光してきました。鹿せんべいを買って、あげてみましたけど、今も昔も鹿たちが寄ってくる勢いは変わりませんね。気を抜いていると、私のポケットに入れてあったチラシも食べられました。姉と一緒に来た外国人の方は、鹿が群がって近づいて来たので、思わず、全部地面に落として逃げちゃったって言っていました。姉も友達もクリスチャンなのですが、一応、折角奈良に来たんだからということで、東大寺を訪れました。こちらは何十年ぶりになるかと思います。大きな大仏殿、また、大きな大仏さんは存在感がありますね。見応えがありました。私が小学生の時にくぐった記憶のある、柱の穴(大仏さんの鼻の穴の大きさ)も見る事できました。先日見た時には、あんなちっさな穴だったんだってびっくりしました。

◯お寺と教会

お寺の中の静けさって、教会の静けさとはどこか違いますよね。お寺に入ると少し暗くて、そして、仏像がいくつかあります。仏像は動きませんのでそういった仏像を前にすると、時間がとまったような感覚になります。

私たちの世界は、いつも動いていて、バタバタしていて、しかも、声や音でいっぱいじゃないですか。そして、頭の中は、過去の事、今の事、そして、未来のことをいつも感がえています。でも、お堂の中は、暗くて、静かで、仏像はしゃべりませんし、動きもしませんから、どこか、時間が止まった静寂さを感じるんです。そして、“死”とか“永遠”を思わせる何かがあります。私の感覚としては、仏式の葬儀の感覚に近いです。生きているというよりは、死の静けさというものを感じます。死の世界を畏怖の念をもって見つめるには、適しているのかも知れません。教会は、そういった静けさを同じように持っていますが、私たちは、ここで、生きた神さまの言葉を聞くことができます。それだけではなくて、神の御子として人となられたイエス様を礼拝しています。また、神さまは語られますし、神さまの言葉に命があります。また、聖書は、そのイエス様が十字架で死んで終わったのではなくて、今も生きておられ、私たちと共におられることを証ししているわけです。お寺では、その静けさの中で“私が何を感じるのか”が大事になりますが、教会では、静けさの中で“私に語り掛ける神さまの声を聴く”ことができるんです。

◯天の書物・聖書

仏教では、お経というものがあります。私は小さい頃は、仏教のお経をどこか遠い昔の人が書いた“意味の分からない不思議な言葉(呪文)”のように思っていました。もちろん、実際には、お経は、唱えれば自動的に救われるという“呪文(内容が分からなくても効果がある)”ではなく、悟りの言葉がが書かれているのだと思います。でも、子供の頃の私はそのようにしか思えませんでした。じゃあ聖書はどうかと言うと、私は、聖書についても、最初は、“昔々から人々が手にしている神さまの言葉”が書かれた“不思議な”書物のように思っていました。そして、そこには、沢山の正しいことが書かれていて、生き方を改めて、それを守るように教えているのだと思いました。天からの啓示ですよね。そうしたら、天国に行けるのだと思っていました。私は、神学校で先生が、「聖書は、天からポンと落ちて来た書物ではないですよ」と言われた時に、確かにそうなんですけど、一瞬“えっ”って思ったのを覚えています。仏教の経典のような神秘さを感じていたのでしょうね。

「じゃあ、聖書は人が書いた書物なの」となると思います。でも、ここが凄いところです。確かに、聖書は神さまの御心を教える書物です。でも、ポンと天から落ちて来たのではありません。テモテへの手紙の中にあるように、聖書は、神さまの霊の導きのもとで書かれた書物です(テモテへの手紙Ⅱ3章16節)。ここが大事です。神さまが、人々を通して書かせた書物です。

では、単なる人が書いた書かというとそうでもなくて、実は、みんな一つのことを書いていて、それが、イエス・キリストのことだったのです。でも、それが影のようであって、実態ははっきりしていなかったのです。ですので、ペトロの手紙を見ると、書いた預言者たちもまた、その内容がどういう意味かを深く探求した(ペトロの手紙Ⅰ1章10節)と書かれています。何千年もかけて何人もの著者が旧約聖書を一部を担って書いていました。でも、みんな、ぼんやりとしか分からないことがあったわけです。で何が隠されていたのかというと、神さまの御心を完成するため(成就するため)に生まれてくるイエス・キリストのことでした。みんなパズルの一ピースを描くので、自分が何を書いているのか“全体像”が良く分かりません。でも、女の子孫からお生まれになったキリスト、苦しみを受け、十字架で罪を背負って死ぬキリスト、そして、栄光を受けるキリスト・・・その姿を旧約聖書と照らしていくと、旧約聖書が、一つの絵を描いていたことが分かりました。旧約聖書は、決して、人間に力では完成することができないということがわかります。大切なのは、旧約聖書が「イエス様を示し、イエス様を通して救いに導く知恵」を与える書であるということです。イエス様ご自身も『あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。』(ヨハネによる福音書5章39節~40節)とおっしゃっています。これは、聖書から読み解かないといけないことは何かを教える大切なみ言葉だと思います。私たちはつい、聖書から教えを受け取ろうとします。つまり、「こう生きなさい」「それはだめです」「愛とはこういうことです」「悪いことから遠ざかりなさい」という風に、生き方を指導する書として聖書を読みがちです。もちろん、それは間違えではありません。大事なことです。そのように生きるように、神さまは教えておられます。最近の暗いニュースを見る度に思いますが、聖書の教えって本当に大事な生き方を教えているなって思います。世界の人が、本当に神さまの前に悔い改めて、愛に生きるならば、戦争もなくなるでしょうし、悲しい事件も起こらなくなると思います。でも、人間は、罪人で、神さまの教えを聴きながらも、罪を犯し、戦争をしてしまうんですね。この前、聖書を手にしながら、「悔い改めるように」という訴えをしているクリスチャンの動画がありましたが、残念ながら、イエス様による救いが何であるのかという話がないんですね。キリストが教えられたように、とか、キリストが十字架にかかったんだから同じように・・・という言い方です。つまり、律法が中心となっています。先ほども読みましたが、イエス様は、こうおっしゃいました。

『あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。』(ヨハネによる福音書5章39節~40節)今日の聖書箇所ですが、イエス様はエマオに向かう二人に話しかけておられますよね。彼らは、イエス様が凄い方であったことを認めています。預言者だと思っていました。そして、十字架で死なれたことも知っていました。そして、墓が空であったこと、そして、弟子たちが復活したイエス様と出会った話も聞いていました。でも、彼らは知ってはいましたが、信仰になっていませんでした。しかも、側にいる方がイエス様であることも分からなかったのです。それだけ、彼らにとっては、死んでしまったイエス様でした。そこでイエス様は、彼らに何を教えられたのか・・・。「わたしだ」「わたしだ」と言われたのではありませんでした。イエス様は、彼らに旧約聖書から、メシアが苦しみを受ける“はず”であったこと、そして、栄光を受ける“はず”であったことを教えられるのでした。聖書はわたしについて証しをするものだ。とおっしゃったとおり、イエス様は旧約聖書から解き明かされたんですね。その時、彼らの心は燃えていたと書かれています。不思議に思いませんか?彼らは、会堂での礼拝でみ言葉を耳にしてきたはずです。旧約聖書の教えも聞いてきたはずです。でも、イエス様の言葉を聞いて、彼らの心が燃えて来たんです。聖書を新約聖書の視点から見ると本当の姿が見えてくるんです。私は、ジグゾーパズルのピースが、彼らの頭の中で完成していったのだと思います。その過程で、彼らの心は燃えていたのだと思います。

○世の終わりについて

近年、戦争ばかりが続いて、世の終わりのような感じがします。Youtubeなどでは、世の終わりについて、聖書を通して解説している動画がよくアップされるようになってきました。ただ、私たちが注意しないといけないのは、旧約聖書は、イエス様について証しする書物であるということです。新約聖書もイエス様について証しするものであるということ。ここをいつも注意しないといけないと危険だと思います。イエス様は世の終わりについて教えておられます。ただ、終わりに日に、どの国がどの国に攻めると言った細かな国際情勢や、こんなことがあって、こうなって、ああなってという風に、細かく行程を説明なさいませんでした。もちろん、終わりの時について聖書が語っていることは大切です。これども、イエス様がはっきりとおっしゃったのは、ご自身が再び来られること。その時に、生きている人と死んだ人とを裁くこと。そして、いつ来られても良いように、目を覚まし、忠実に生きていなさいということです。何度も言いますが、聖書は、救い主イエスキリストについて証しする書物です。旧約聖書はやがて来るキリストの影を記した書物です。そして、新約聖書はベールが取り除かれたキリストの姿を記した書物です。ですので、旧約の救いと新約の救いは別々ではありません。

イスラエルの人たちはどのようにして救われるのでしょうか?イエス様を通してしか救われません。ユダヤ人だけが、特別な救いの道があるのでしょうか?イエス様を通して救われます。アブラハムも割礼によって救いを得たのではなくて、神さまを信じる信仰によって義とされました。さらにイエス様は、『あなたたちの父アブラハムは、わたしを見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て喜んだのである(ヨハネ8:56)とおっしゃいました。これはとても深い言葉です。アブラハムは旧約の時代に生きながら、神の約束の中で、やがて来られるキリストを待ち望んで生きていたのです。

見るのを楽しみにしていたのです。さらに、イスラエルの人たちは荒野で、水を渡り、天からのマナを食べ、岩から流れる水を飲んで過ごしました。

これは、新約の視点で見ると、私たちが、洗礼を通して救われ、そして、キリストの血を身体を頂きます。つまり、旧約聖書の民も物は違いますが、同じようにして福音に生きていたんです。旧約聖書をそういった視点でみると本当に驚くことばかりです。エマオの二人は、イエス様から解き明かされて、旧約聖書のジグゾーパズルが完成していくように見えて来たことに興奮していたのだと思います。ただ、彼らの目が完全に開かれるのは、イエス様がパンを裂いた時なんですね。私たちはこの後、聖餐式を行いますが、聖餐式がいかに霊的に大事な時であるかが分かるかと思います。聖書はキリストを証しする書物です。イエス様がどんな方であるのか、何をしてくださったのか、そのお方に信頼して生きるとはどういうことなのかを教えている書物です。さらに、イエス様の言葉がそのまま記されているのが新約聖書の福音書です。弟子達は、イエス様と共に生きました。イエス様が死んだのもはっきりと見ました。そして、イエス様が復活されたのもはっきり見たんです。

彼らはそのことを証ししているのです。最後に、是非、一緒に聖書を開いて読んでみましょう。新約聖書441頁、ヨハネの手紙Ⅰ 1章1~4節です。初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。エマオの二人と同じにように、共にいると言われるイエス様をきちんと私たちは見えていないのかも知れません。