宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
詩編16篇1節~11節
ペテロの信徒への手紙Ⅰ 1章3節~9節
ヨハネによる福音書20章19節~31節

 「わたしの主 私の神」

説教者  江利口 功 牧師

今日は、復活のイエス様と出会ったトマスが言った「わたしの主、わたしの神」という言葉を中心にお話したいと思います。

 イエス様の弟子たちは、復活されたイエス様と出会うことができました。イエス様は、彼らに“傷跡を示して”復活したことをお示しになりました。ただ、その時、トマスはその場にいなかったんです。復活したイエス様を見たと言った弟子達の話を聞いたトマスは、「わたしは傷跡に指を差し入れてみなければ信じない」と言いました。つまり、他の弟子たちの証しを受け入れなかったのです。トマスという人は、“疑い深いのかな”とも思いますが、福音書に書かれているトマスの言葉を見ていると、ただ疑い深いということではないようだと云うことが見えて来ます。ヨハネによる福音書ではトマスの言葉が記されていまして、例えば、イエス様が死んだラザロの処に行こうとされる時、他の弟子たちは「そんなところに言ったら他のユダヤ人たちに殺されてしまう」と止めようとするのですが、トマスは『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』(ヨハネによる福音書11章16節)と言います。そこには、「わたしはどんな時でもあなたと一緒です」というトマスの愛・忠誠心を感じます。また、イエス様が、「父の所にいく。あなたがはその道を知っている」という風に言う時にも、『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。』(ヨハネによる福音書14章5節)と道を見いだそうとします。イエス様が「道」という時、それは「どこに行くどの道か」と具体的に問うのです。ですので、トマスは具体的にイエス様の言葉を受けとる人物で「道を教えてもらえれば着いて行きます」と、ここにもイエス様に着いて行こうとする忠誠心が見えてきます。“着いて行こう”そういう思いが強い人物なんですよね。それがトマスなのでしょう。ですので、弟子たちが「主を見た」という時、トマスは、本当に主が復活されたことを具体的に確信したかったのだと思います。それだけ、イエス様の十字架で死なれた姿が、彼にとって、現実のこととして深くささっていたのだと思います。そして、もう一度、イエス様を確認して、“着いて行こう”と思ったのだと思います。

 さて、次の週の日曜日、トマスは他の弟子達と一緒にいたのですが、そこにイエス様が再び現れてくださいます。そして、前と同じように傷跡を示しながらトマスに『あなたの指をここに入れて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』(ヨハネによる福音書20章27節)とおっしゃいました。
 さて、聖書を読みますと、トマスはこう言っています。『私の主。私の神。』聖書を読みますと、トマスは触れたので「私の主。私の神。」と言ったのか、触れずに言ったのかが書かれていません。ヨハネは触れたかどうかを書いていないんです。不思議ですよね。「指を差し入れるまで信じない」と書きながら、そのことの結果を書かないんです。イエス様がおっしゃった言葉の後、トマスが“答えて”「私の主。私の神。」と言ったとだけ書いているんです。トマスが“触れて”「私の主。私の神。」と言ったとは書かないんです。さらに、イエス様はトマスにこうおっしゃいます。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』ここでも、「わたしに触れたから信じたのか?」という風におっしゃっていません。不思議ですね。トマスは触れたのでしょうか?勿論、私たちには分かりません。ヨハネは「触れないと信じない」というトマスのことを書き記しながら、触れたかどうかを書かないのです。むしろ、トマスの「私の主。私の神」という信仰告白を全面に出したのです。
 触れたから信じるというのは、私たちの中から生まれる信仰です。しかし、本当の信仰は

共にいるイエス様の存在に触れた時に生まれてくる信仰だということではないでしょうか。

 私たちは聖書を読みます。しかし、そこに正確さを求めて、正確さを確認できたら信じるというのをどう思いますか?むしろ、聖書の記述を見ていると、本当か?と疑うことが多いです。タイムマシーンがあったら行って、この目で見て見たい。そうしたら、信じれるのにって思いませんか?つまり、みんなトマスなんですよね。しかし、聖書は、それを超えた信仰を教えるんです。トマスが、父のもとへ行く“道”を教えてください、と言う時、イエス様は、わたしが道であり、命であり、真理である。と“道とはわたしそのものである”と言うのです。具体的な道がなく、イエス様を信じることでしか道が何か分からないということですよね。そして、触れたら信じると言った具体的なものを求めるトマスでしたが、イエス様を見て、傷ではなく、イエス様の存在に触れた時に、答えて『私の主。私の神。』と言ったのです。つまり、イエス様とのやりとりで目が開けたのです。

 トマスは弟子たちの証言を信じませんでした。イエス様は、見なくて信じる者は幸いであるとおっしゃいました。これは、何もないところから信仰を呼び起こせとおっしゃっているのではなくて、また、タイムマシーンで過去に戻ってその現実を見たら信じますというような私たちの思いとも違って、弟子たちの証言を全面に出されて、弟子たちの証言を聞いてそれを信じることを求めておられるのです。

 ですので、ヨハネはこのトマスの信仰告白の後、『この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。』(ヨハネによる福音書20章29節~31節)と書いています。ヨハネは「イエス様は沢山の奇跡を行われました。そして、私たちはそのことを証しし書き記します。この奇跡は驚かせるためではなく、疑いを起こさせるためではなく、キリストが神の御子だと分かるように、そして、あなたが信じて命を得るように書き記します」というのです。イエス様は、見なくて信じるものは幸いであるとおっしゃいました。これは、ヨハネが書き記した流れから言うと、弟子たちの証言を聞いて、それが真実であると確認したら信じますではなくて、イエス様に関する証し、イエス様の言葉を聞いて信じる者は本当の命を得るとおっしゃっているのです。これが、聖書が神さまの書であるゆえんだと私は思います。

 イエス様は、弟子たちを選び、色々な奇跡を見せ、そして、復活という大きな奇跡を通してしるしを示されました。でも、聖書はそれをただ記した日記のようなものではありません。ここに聖霊が働くのです。本当の信仰はどのように生まれるのかと言いますと、トマスに現れたイエス様の時と同じように、聖書のみ言葉と共に聖霊が働きかけ、イエス様の存在、今も生きておられる主に触れさせることによって生じると言えます。イエス様の言葉は、聖書を開くと出てきます。

 また、礼拝では、イエス様の言葉が沢山語られます。そのイエス様の生きた言葉に触れる時に、信仰は呼び起こされるのです。それは、羊飼いの声を聞いたら羊がちゃんと認識して着いて行くのと同じです。信仰を理性に頼る必要はないのです。使徒たちの証しを信じる時に聖霊が働くのです。

 さて、最後に「私の主。私の神。」というトマスの言葉に含まれている思いをお話したいと思います。トマスは「私の主。私の神。」と言いました。トマスは「おお主よ。おお神よ」と言ったのではありません。“わたしの”主、“わたしの”神と言いました。これは、信仰告白としてはとても大事な言葉です。私たちが大事にしているのは、イエス様の十字架が「わたしのためであった」という実感を持つことです。「イエス様は私たちの罪のために十字架に架かった」とか「イエス様は復活された」と一般論として告白するのは、抽象的な信仰告白です。イエス様はわたしのために死なれた。イエス様はわたしのために復活された。というわたしの事として受け取る必要があります。

 詩編23編の最初には、「主は私の羊飼い」という言葉があります。
これが、「主は羊飼い」と違って、「主はわたしの羊飼い」という時、意味は全然違いますよね。それは、心からの信仰告白となります。そして、「私の主、私の神」という時、それは、「私の本」という時のように、わたしの所有であることを表しているのではありません。「こちらはあなたの配偶者」「この人は私の配偶者」という関係性を言っているのではなく、「私の主、私の神」という時、それは「本当にあなたは、私を愛してくださり、わたしを支えて支え、守り、命を与えてくださるお方です」という内側からの表現です。所有ではなくて、関係性を言う言葉です。

 今日の聖書箇所の一つが詩編16編でしたが、ダビデは、私の神、私の主とはどういう関係なのかを美しく表現しています。神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを。(1)主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」(2)主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。(5)わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし わたしの心を夜ごと諭してくださいます。(7)わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。(8)わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。(9)あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず(10)、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。(11

 さて、今日は、トマスの言った言葉、『私の主。私の神。』という言葉を見ました。「おお主よ。おお神よ」という言葉ではなくて、『私の主。私の神。』という言葉がトマスの口から出てきました。ヨハネはトマスが触れたかどうかを記さず、その言葉が口から出て来たことを記すのみでした。それは、キリストの臨在が信仰を与えるからです。触ったから信じるのは本当の信仰ではありません。イエス様に触れられる時に生まれるのが本当の信仰です。本当の福音はそうして私たちの所で命となります。


 ただ、私たちは具体的なものを欲しくなると思います。具体的な確信があって信仰は生じると考えます。神さまはそのような信仰の弱い私たちであることを知っておられます。ですので、使徒たちの証しである聖書を読む時、そこに聖霊が働き、信仰を起こさせてくださるのです。すると、主は今生きておられるという喜びが生じてくるのです。信仰は、素直に使徒たちの証しを信じるところから始まります。私たちは、心から、「私の主。私の神。という時が必ず来ます。すると、「わたしには何もかけることがない」という言葉が口にでてくるでしょう。イエス様はその信仰を望んでおられます。