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おはようございます。
失くした物を探した経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。
「あれ、どこに行ったのかな」と少し“気軽”に探すこともありますし、「え!どこに行ったんだろう」と不安になって“必死”に探し回ることもあります。失くしたことに気付いた時、私たちは落ち着かなくなります。けれども、それが見つかった時、「あ~良かった」と、張りつめていた緊張がとけて、「ほっ」とします。そのような経験、そして安堵感を多くの人が経験されたのではないでしょうか?勿論、これは物に限りません。
大切な存在についても同じです。大切な人を失う、もしくは失いそうになると心は張り裂けそうになります。聖書に放蕩息子の話(ルカによる福音書15章11節~)があります。この譬えでは、息子は家を出て、父親から離れて行きます。息子は、自分の力で生きていけると思っていました。でも、父親は、そうは思っていませんでした。実際に息子はボロボロになって帰ってきました。その息子の姿を、まだ遠くからではありますが見つけた時に、父親は走りよって、息子の処に行き、抱きしめ接吻したと書かれています。何故、抱きしめたのでしょうか。勿論、“帰って来たことの嬉しさ”、“失われたと思っていた者が見つかった喜び”、それがあったと思います。でも、それだけではないと思います。“もう離さない”という隠された思いも込められていたと私は思います。
さて、探していた大切なものが見つかった。それは何を意味するのでしょうか?それは、ただ「あった」ということだけではありません。「失われたままではなくなった」ということですよね。そしてそれはもう一つあります。それは、「ずっとこれからも共にある」ということです。
イエス様が十字架で死んで行かれ、墓に葬られた時、弟子たちは大切な人を「失った」という喪失感で一杯になりました。それまでイエス様と共に歩んだ日々。イエス様の口から出てくる数々の言葉。その力や慰め。そのすべてが戻ってこないのです。それだけではありません。弟子たちは、イエス様を失い、神の国を実現する希望をも失ってしまったのでした。
安息日が終わり、朝を迎え、婦人たちは、イエス様を納めた墓に向かいます。「失なった方を求めて」墓に行きます。しかし、何と、主イエスの亡骸はそこにはなかったのです。み使いが現れ、婦人たちにこう言います。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」「あなた達は、十字架につけられたイエス、つまり、死んだイエス様を探しているが、あの方、すなわち十字架で死んだイエスはここにはいない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と告げるのです。そして、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこで、お目にかかれる」と告げます。たちは恐れと喜びでいっぱいな中で、他の弟子たちの所に行こうとしますが、そこで、復活したイエス様と出会います。声をかけたイエス様に婦人たちは近寄り、足を抱き、ひれ伏しました。
この様子を現したみ言葉には、失った人を見出した婦人たちの喜びが描かれています。彼女たちは、近寄って行き、そして、イエス様の足を抱き、ひれ伏したと書かれています。その彼女たちのしぐさには、いっぱいの喜び、その喜びを肌でも感じたい、また、離さない、もう離れないでという、色々な思いが重なっているように感じます。かつ、甦ったイエス様に対する畏敬の念が、身をかがめる動作に豊かに表されていると思います。さて、イエス様は、こうおっしゃいました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」おそらく、ガリラヤで会おうというのは、また、新しくガリラヤから始めようという意味だと思います。弟子たちを集めて福音の訪れを告げ知らせ始めたガリラヤ、そこから、もう一度、今度は、成就した福音を告げ知らせるために、弟子たちを再び派遣されるようにイエス様はなさるのです。さらに、これまでは、“わたしについてきなさい”とおっしゃった。イエス様ですが、ガリラヤで再び出会ったイエス様は、今度は弟子たちに、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とおっしゃり、今まで通り、神の国の言葉を広めていくのですが、今度は、霊的にイエス様が共にいてくださって、聖霊の働きと共に、宣教していくという、新しい始まりを告げておられるのです。弟子たちは、イエス様の十字架の上で息を引き取られた姿を見て「希望を失った」と思います。また、墓に納めた時に「もう終わった」と思っていました。けれども、終わってはいませんでした。婦人たちは、「大切な人を失って悲しんでいた」と思います。けれども、失っていませんでした。イエス様は、甦られたのです。
これが神さまです。今日は、復活祭ですよね。復活の主はただ「わたしは死んでいなかった」と文字で示したのではありません。「今も生きている」という事実をお示しになると同時に、「あなたがたと共にいる」とずっと共にいることを教えておられるのです。
探していた大切な物が見つかった。それは何を意味するのでしょうか?それは、「ずっと共にある」ということですよね。復活の朝の出来事は、今の、私たちに何を示しているのかと言いますと、イエス様は、今も、そして、ずっとあなたと一緒におられますという事実なんです。
イエス様を墓の中に探してはいけません。と天使は言いました。
同じことを聖書は言っていて、それは、「聖書の文字の中にイエス様を探してはいけない」ということです。イエス様は、聖書の中ではなく、私たちの傍に今もいらっしゃるのです。神さまが「光あれ」と言われた時、光があったように、イエス様が「わたしはあなたと共にいる」と言われるのであれば、本当にそうなのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というイエス様の言葉を聞いて、私たちは、聖書を開いてイエス様を探すのでしょうか?イエス様は、そんな小さなお方でしょうか?イエス様は天地をお造りになった神です。その方は、聖書の文字の中に納まるお方ではありません。聖書の文字は、この世界を支配しておられるイエス様を証ししている書物なのです。この世界は、三位一体の神の力で覆われています。聖霊なる神さまがこの世界を覆っています。イエス様は、神の右の座につき、この世界を支配しておられます。そして、何より、父なる神さまがこの宇宙全体を支配し、星の運航をも定め、自然の摂理も命もすべてその手の中に納めておられるお方です。
私たちは、宇宙を見ても、自然の摂理を見ても、この世の現象を見るとき、いつも、神さまを見ているのです。さて、今日の説教題を「探し物は見つかりましたか」とさせていただきました。私は幼い頃から神さまを探していました。永遠の命を探していました。また、ひとつの真理を探していました。今思えば、私は人生で一番欲しくて探していたものを見つけることができたと実感しています。さらに言えば、私は自分の力で見つけたとは思っていません。探していた私に、神さまが「探し物は見つかりましたか」と優しく声をかけてくださり、そして、ここにありますよって、聖書を示してもらったと確信しています。そして、今、私は学べば学ぶほど、聖書が“人の知恵や力によって書かれたもの”ではなくて、“神の霊の導きのもと”で書かれた書物であると感じています。私が聖書を学んで、とても嬉しかったのが、「いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃってくださるイエス様が、聖餐の場で共にいらっしゃるということです。イエス様の永遠の命と私たちは交わることができるんです。これは本当に素晴らしいことだと思います。理性はそれを否定するかも知れません。しかし、信仰は喜んでそれを受けとるのです。婦人たちは、初めて復活したイエス様を見た時、近寄り、足元に身をかがめ、そして、足を抱きました。私は、これが、生ける神さまとの交わりだと思います。
聖餐式を通して、私たちは神を礼拝し、厳かに、聖餐を通してイエス様に触れることができるのです。イエス様は、復活して、その後、どこかに行かれたかたではありません。今も、神の右に座し、この世界を支配し、そして、み言葉による約束どおり、私たちのために聖餐の場にいてくださっているのです。信仰の弱い私たちのために、目に見える、パンとぶどう酒(ぶどうジュース)を通して「罪の赦しとわたしの命を受けなさい」とご自身を与えてくださっているのです。復活祭は、ただ過去に起こった出来事を想起してお祝いしているのではありません。復活祭は、今も主が生きておられ、私たちと共にいてくださっているという事実を知らせる時です。弟子たちは、墓の中に主を探しましたがいらっしゃらなかった。
私たちもイエス様を聖書の中に見つける必要はありません。
神さまは、聖書の中ではなくて、この空間を満たしておられます。
この後、聖餐式を行いますが、よみがえられた主が今ここにおられ、婦人たちが足を抱いてひれ伏したように、私たちも喜んで触れることができる、その時なのです。探し物は見つかりましたか?
探しているものが見つかったらそれはどういう意味になりますか?それは、大事なものが、ずっと、あなたと共にあるということです。イエスキリストは復活されました。それは、ずっと私たちと共にいるということです。
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