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おはようございます。
「神さまは、どのようなお方なのか・・・。」このことは、私たちにとっては、とても大事なことではないでしょうか?神さまがどのような方かによって、私たちの生き方・あり方も変わってきますし、また、心の平安も「どんな神さまか」で変わってきます。さらに、苦しみに際しても、死に際しても、希望が持てるかどうか、慰めを得ることができるかどうか、そういったものも変わってくると思います。例えるならば、小さい頃、「どんな先生」が担任になるかって大事ではなかったでしょうか?どの先生が担任になるかで、その一年の楽しさって違っていたと思います。私の小さい頃の記憶を思い起こしても、いい先生のことって覚えています。後になって、良い先生に当たると、安定した一年を過ごせていたなと思いますし。楽しかったのを覚えています。
生徒のことを本当に大事に思ってくれる先生って本当にいいですよね。
「神さまがどのようなお方なのか・・・」で、私たちの人生は大きく変わります。遠い存在の神さま、恐ろしい神さま、すぐ怒る神さま、気分次第でコロコロ変わる神さまですと、生きていて、安心することもありませんし、心は平安になることはありません。私が良い子にしている時は、恵み豊かな神さまで、そうでないときは、これでもかって苦しめる。そんな神さまって嫌ですよね。神さまは選べませんから、どんな神さまであるかは、大きな関心事だと思います。そう考えますと、神さまは聖書を通して、本当にご自身のことを表しておられます。義ただしい神さまでありながら憐れみと慈しみに溢れた愛の神さまが、私たちの神さまです。そのことを知識や定義を記すのではなく、実際に人類に深く関わってくださることによって、ご自身のことを教えてくださっています。そのようなことを考えた時、私は、今日の聖書箇所は、神さまのことをとてもよく表している箇所だと思います。
さて、ある村に、マルタとマリアという姉妹がいました。よくご存じの姉妹だと思います。その姉妹に、ラザロという兄弟がいまして、そのラザロが死んでしまうんですね。ラザロが死んでから、4日目になってイエス様は彼女達の家に来られました。すでに、ラザロは墓に納められており、みんな悲しみの中にいました。イエス様が到着すると、姉のマルタがイエス様を迎えます。21節を見ますと彼女はこう言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」死ぬ前に来てくだされば、わたしの兄弟は助かったのに・・・」そのような彼女の思いを感じます。
そのように言ったマルタに対して、イエス様は、こうおっしゃいます。
「あなたの兄弟は復活する」イエス様の言葉に対してマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。つまり、マルタは、終わりの日に神さまがラザロを蘇らせてくださる・・・永遠のお別れではない・・・そのような希望を持っていたようです。でも、イエス様は、ここでもう少し違ったご自身の姿をお示しになります。イエス様は、こうおっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」「わたしは復活であり、命である。」これって、分かるようで、意味を掴みにくい不思議な言葉ではないでしょうか。「わたしは復活する」とか「わたしは人を復活させる」というのなら分かります。けれども「わたしは復活である」「わたしは命である」とはどういうことなのでしょうか。これは、イエス様が、命の源
命そのものであり、命も死も支配する者であるという意味になります。ですから、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」、とおっしゃるのです。
例えるならば、私たちをバッテリーで動く電化製品に例えることができます。バッテリーが切れると電気製品は動かなくなります。そういう時には、充電し直さなくてはなりません。充電できてもまた切れて動かなくなります。
でもどうでしょうか?電化製品をコンセントつまり電源にさすとどうでしょうか。そうすると、バッテリーを気にせず、ずっと動きます。
つまり、イエス様を信じる人は、死はないのです。スイッチを切ると電化製品は止まりますがいつでも再起動できる状態にあります。これが死と復活、そして、今の私たちの状態です。私たちの命はイエス様の命と繋がり、永遠にエネルギーが供給されます。ただ、ここでイエス様をコンセントのように思って欲しくはありません。今日、皆さまにお伝えしたいことは次のことで、私たちが利用する電気は、石油や風力、水力、太陽光など色々ありますが、それらは、全部、太陽のエネルギーがないと駄目なんですね。太陽は全てのエネルギーの大元です。ですので、イエス様は、太陽のような存在、太陽に優る存在ということです。「命のエネルギー」に満ちたお方、それがイエス様です。そして、もう一つ、イエス様は死を支配しておられるお方です。
アダムとエバに「採って食べたら死ぬ」とおっしゃったのが神さまでした。つまり、死を定めたのは神さまです。つまり、神の御子イエス様は死に支配されていないだけではなくて、死という事実の支配者でもあるということです。私たちのこの身体は、いずれ死を迎えます。でも、私たちの命は、もはや死に支配されていません。なぜなら、イエス様と一つとなっているからです。ですので、私たちにとっての死は、全ての終わりを意味しません。
勿論、死は恐ろしく、また、周りの人にとっては辛く、悲しいことです。
けれども死は私たちとその人との間の「永遠のさようなら」ではないのです。イエス様は、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」「このことを信じるか。」とおっしゃいました。このイエス様の言葉に、「はい」と答えたいですよね。
「神さまがどのような方か・・・」それは、私たちにとって大事なことです。イエス様は、命の源であり、死さえも支配しておられるお方です。
イエス様はそのようなお方なのですが、もう一つ、今日の聖書箇所から、私たちが知ることができる神さまの姿は、“寄り添う神”“涙を流される神”です。イエス様は、涙するマリア、そして、周りのユダヤ人たちも涙しているのを見て、ご自身も涙を流されました。なぜでしょうか?イエス様はこの後、ラザロを蘇らせることをご存じでした。手を取って「大丈夫だよ」ってニコって私たちならするじゃないですか?でも、イエス様は、涙を流されたと書かれています。それは、愛する者の死が深い悲しみであることには変わらないからです。それは、信仰を持っていても変わらない事実です。
イエス様は、その人の死の現実に寄り添ってくださって、涙されたのでした。涙されるということは、どういうことでしょうか。寄り添うことだけでなく、
必ず何とかなさるということではないでしょうか。初めに学校の担任の先生のお話をさせていただきましたが、私たちの学生時代、厳しい先生が多かったと思います。でも、その背後に愛情があったと思います。近年は、寄り添う先生が大事で、厳しい先生はあまり流行りません。でも、厳しさの背後に愛情がある先生こそ、本当にいい先生だったと思います。神さまは、義なる方なので厳しいです。そのようなお方なので、「罪をなかったこと」にすることは決してなさいません。でも、愛なる神さまは、義と愛とを同時に成り立たせることをお考えになりました。それが、十字架です。賛美歌の歌詞にもあるのですが、十字架というのは、神の義と愛が同時に示された姿なんですね。神さまがここまでする必要があるでしょうか。しなくても、誰も文句は言えません。でも、神さまの義は、罪人を滅ぼすことで満足する義ではありません。罪に正しく向き合い、そして、同時に、赦しを与える・・・そのためには、罪のために裁かれ、呪われ、苦しみ、痛みを負う人、同時に、罪の赦しを与えることができる聖なる聖い存在が必要でした。
それが、イエス・キリストだったのです。イエス様が十字架で死んでくださったその姿に、神さまの義が二つ現れています。一つは、罪は罪として裁ききる神さまの義。そして、もう一つは、捨てておかないという義なる神の姿です。すなわち愛です。人間の不義は、神の御子を十字架につけてしまいました。しかし、神さまのご計画は、その人間の企てのさらに上をゆき、そのことを通して、神の義を示されたのでした。十字架こそ、神の義と愛の現れたところなんです。神さまとはどんなお方でしょうか。神さまは、この広大な宇宙をお造りになったお方です。また、神秘に満ちた生き物をお造りになったお方です。また、ご自身に似せて私たちを造り、命を与えてくださったお方です。でも、それだけではありません。命を与えただけではなく、育み続け、寄り添い、人となってくださいました。そして、私たちと同じ現実の中に生きてくださり、涙を流してくださったのです。それが、この世界をお造りになった神さまです。私たちの神さまです。先週、生まれつきの盲人の目を開かれたイエス様のお姿を見ました。人々は、彼が見えなくなった原因を追究しようとしました。彼が罪を犯したからか、両親が罪を犯したからか。そんな風に考えました。でも、そう考えると、では、人を造った神さまのことで疑問が生じます。それは、「なぜ、採って食べてはならない木を置かれたのか」という質問と同じです。イエス様は、人々に、おっしゃいました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」聖書は、神が何をなさったのかを見るように教えます。聖書に隠された神秘ではなくて、現された奥義を見なさいと教えます。
すると、神さまの素晴らしさ、大きさ、豊かさが良く分かります。
十字架で死んで行かれた、神の御子を見るだけでいいのです。
ここに神さまのすべてが表されたのです。
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