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おはようございます。
少し前のことになりますが、不思議な夢を見ました。それは天国の夢だったんです。天国と言っても、光り輝く空間ではなくて、綺麗な庭園のような処でした。そこには、穏やかな人達がたくさんいて、楽しく会話していたり、楽器を演奏していたり、みんな幸せそうにしていました。
私は、その中を歩きながら、途中で「ここは天国だ」って気づいたんです。すると嬉しくなって、「こんにちは」「こんにちは」って周りの人に挨拶をして回っていました。“余りに嬉しそう”だったから「どうしてそんなに嬉しそうなんですか?」って驚いた感じで私に声をかけて来る人がいました。ところが、場面が変わるんです。今度は、暗~い建物の中にいるんです。地下に降っていくような階段を、私はどんどん降りて行くんです。
私は「ここは地獄だ」って思いました(夢ですからね)。すると、今度は、“喜び”ではなくて、“不満”や“愚痴”が出てくるんです。夢のことって目が覚めたら忘れてしまうこと多いですが、夢で言った“言葉”をはっきりと覚えています。どんな言葉が私の口から出て来たと思いますか?
私は、神さまに対してこう言ったんです。「どうして、私に命を与えたのですか?」わたしは、そう言ったんです。これは「苦しみを与えるために命を与えたのか」という意味です(どこか、イスラエルの民がシェルの荒野で言った不平と似ています)。神さまは永遠のお方です。この世界を造り、私たち一人一人に命を与えてくださっています。でも、もし、私が永遠の地獄に行くとするならば、命を与える意味が、永遠に苦しみを与えるためということになります。わたしは、永遠に苦しむために命が与えられたのか・・・そこに嘆いたのです。でも、聖書が示す神さまは、そのようなお方ではありません。神さまは独り子を与えるほどに世を愛されたのです。
私たち一人一人を愛し、私たちを、愛ゆえに、命を与えてくださいました。それが、私たちと神さまとの関係です。さて、今日の聖書箇所ですが、ある時、イエス様とお弟子さんたちとが、歩いていると、そこに目の見えない人が座っていました。この人は、生まれながら目の見えない盲人であったと記されています。弟子たちは、その盲人を見て、イエス様にこう尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネによる福音書9章2節)当時、病気や苦しみを、罪の罰であるという考え方がありました。ですので、弟子達は、生まれつきの盲人である“原因”に目が行ったのです。本人が悪いのか、親が悪いのか・・・そう考えました。
でも、これは、今の私たちにも同じように考えることがあるかと思います。何か、悪い事が起こると「罪の罰」もしくは「わたしに対する神さまの警告」そのように捉えることあるかと思います。神さまが怒っているのではないかと考えるのです。さて、弟子たちが、「彼の罪か原因か」「親の罪が原因か」とイエス様に尋ねたところ、イエス様は、何とおっしゃったでしょうか。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネによる福音書9章3節)この人は“神の業が現れるために、長い間苦しみが与えられていた”という意味ではありません。そうではなくて、「この人に現れる神の業(神の栄光)を見なさい」とおっしゃるのです。私たちは、すぐ「なぜこうなったのか」とか「何が悪かったのか」と過去を振り返ったり、原因を考えがちです。でも、神さまは、過去に意識を向けるのではなくて、神さまに希望を持つようにとおっしゃるのです。そのようなあなたに神さまが何をしてくださるのか・・・そこに注目するようにおっしゃるのです。私たちは、時々、周りの人が輝いて見える時があります。「あの人はいいな」「あの人は成功しているな」「どうして自分だけこうなんだろう」って思うことあります。子供もそうです。流行りのおもちゃやゲーム機をみんなが持っていて自分だけ持っていないと、「どうして僕だけ無いの」とか、時には「どうしてうちは貧乏なの・・・」って言います。大人になっても同じなんですよね。健康、性格、境遇、能力・・・周りと自分を比べてしまうこと多いです。周りが輝いて見えて、自分はみじめに見えることあります。
誰でもそうです。でも、イエス様は、そのように嘆く私たちにこう言われます。「そのあなたに神の栄光が現れる。神に祈りなさい。」私たちはいろんな壁を前にするときがあります。すると私たちは、自分の力でその壁を迂回しようとします。その時、迂回するのではなく真正面から壁に向かって神さまに祈ることが正しい時があるのです。それは、願いが叶うということばかりではなく、違う事柄が神の祝福となって返ってくるのです。
さて、イエス様は、その盲人の目を癒されます。唾で土をこねて、それを彼の目に塗り、そして、「シロアムの池」に言って洗ってきなさい。そう命じられました。彼は、疑いもせず、言われた通りにします。すると、不思議なことに、彼の目は見えるようになったのです。
さて、この出来事は、ここから、話は大きく展開していきます。生まれつきの盲人が見えるにようになったので、人々は驚きます。あまりの驚きに、「本当に彼なのか」と疑う人までいました。盲人の目が見えるようになっただけではなく、その“表情や姿が生き生きとしていた”からかも知れません。そこまで変わったのです。すると、人々のうちの何人かが、彼をファリサイ派の人の処に連れて行きます。
ファリサイ派の人たちがこの出来事をどう説明するのかを期待していたのでしょうね。でも、ファリサイ派の人たちは「神の栄光が彼に現れたのです」とは言いませんでした。イエス様を認めたくなかったからです。
神の子とも、神から遣わされた預言者とも認めたくなかったのです。
何度も何度も問いただしている姿は、滑稽ですし、可哀想な人達だなって思います。それに対して、盲人だった人はこう言います。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(9章25節)
「目が見えなかったわたしが、今は見える」という言葉は、美しい言葉だと思いませんか。神はどんな方なのか・・・。安息日とは何か・・・罪とは何か・・・そんな難しい議論よりも、シンプルで一番神さまの姿と栄光を証しする言葉は、「目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」この言葉が最高の感動の証しではないでしょうか。「今は見えているのです」この言葉は大きな証です。この盲人にとっては、見えなかった目が、見えるようになったということではありますが、実際は、信仰の目も開かれているんです。「神さまのことは、以前は分からなかった(もしくは恨んでいたかもしれない)。でも、今は、わかる(味わった)」その内側から変えられた喜びの言葉でもありますよね。小さい子に「お母さんのこと好き?」って聞いて、子供が「好き」って答えるとします。そして、「どこが好き?」って聞いた時に「おもちゃ買ってくれる」とか「料理が美味しい」とかそういう答え方もあるかも知れませんが、「う~ん、わかんない」って言う方が可愛いですよね。そういった理屈ではなく、言葉で表現できないことが、かえって、お母さんの愛情を表現しているのだと思います。神さまは私たちの目を開いてくださるお方です。そして、目が開かれた私たちは、どう人生が変わったのか説明しにくい時がありますが、言葉にはならない証しを私たちは持っているのだと思います。ファリサイ派の人には見えなかったけれど、見ようともしなかったのです。この盲人も、もしかしたらずっと「何で、私はこんな風に生まれて来たんだろう」って思って生きてきたのかも知れません。目が見えて、楽しそうに生きている人、自由に歩いている人を感じて、「みんないいなぁ」って思っていたかも知れません。さらに、宗教的には、「あなたの罪の性だ」とか「あなたの親の罪の性だ」と定義されることもあったわけで、彼は、自分の人生を喜べなかったと思います。その彼の人生にイエス様が光を差し込まれたのです。
単に目が見えるようになっただけではなくて、霊的に目が開かれ彼の人生が変わったんです。心も体も解放されたのだと思います。
私たちの人生には色々なことがあります。みな同じです。苦しみもあり、悲しみもあり、自分だけが背負う重荷もあります。
でも、みんなそうです。その時、聖書は、「原因探し」の中にいる私たちを解き放ちます。聖書はこう語ります。「そのあなたに現れる神の御業(栄光)を期待しなさい」最初、私が見た夢のお話をさせて頂きました。
わたしは、輝かしい世界にいることを喜んだのではなくて、解放された心を感じて、それが嬉しかったんです。本当の神の国は、もっともっと、喜びに満ちた世界だと思います。イエス様は、私たちをただ「良い場所」へ連れて行ってくださるだけではありません。私たちの塞ぎ込んでいる心を完全に解放してくださるのです。私たちは、時に、人とは違う人生を送る自分に悲しむことがあります。他の人が輝いて見えることあります。
オセロゲームで言うならば、周りが全部白で、自分だけが黒になっているような感じです。でも、イエス様がそれをひっくり返して白に変えてくださるのです。その時、その人にとっては、周りの白いコマよりも、白く輝くコマのようになっている自分に気づくと思います。それは、悩みが消えることではないかも知れません。でも、祈って神さまに訴え、そして、どんな形であれ、神さまの特別な眼差しを感じた時(神さまを知った時)の顔は輝いていることは確かです。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(ヨハネによる福音書9章25節)これは最高の証しの言葉です。聖書は難しい。三位一体の神さまのことは良く分からない。でも、ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は、“神”を見ているという事実です・・・。そして、この神さまに希望を持っているということです。この言葉こそ、理屈を超えた、反論をゆるさない、最高の証しです。この喜びを神さまは必ず私たちに与えてくださいます。
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