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おはようございます。
先日、夢を見ました。私は目が覚めても、結構、夢を覚えている方でして、私は、天国にいる夢を見ました。天国と言っても、きらびやかな世界、美しい世界という感じではなくて、普通の庭園のような空間でした。そこに、沢山の人がいて、みんな幸せそうに過ごしておられました。私は、最初、「ここは何処だろう」って思っていたのですが、途中で、「ああ、天国だ」って、分かったんです。そしたら、嬉しくなって、周りの人に「こんにちは」「こんにちは」って挨拶し始めました。すると、何人かの人が「どうしてそんなに嬉しそうなんですか」って声をかけて来ました。それくらい嬉しかったんですね。私はそのとき、綺麗な景色に感動していたと言うより、開放感に喜びを感じていました。心が自由になっているのがわかりました。聖書の最後に黙示録という書簡が最後にありますが、そこにはこう書かれています。
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(黙示録21章2節~3節)
天国とは、ただ美しい世界・輝く世界ということではありません。神さまが共にいてくださり、涙をぬぐってくださり、死も悲しみも嘆きも労苦も、もう私たちを支配することがない、そんな世界なんです。でも、私たちはまだ、そのような完成した世界の中にはいません。私たちは、今、この世界を生きています。そして、この世界には、色々な不安があります。
最近、モノの値段がどんどんあがっています。この先、やっていけるだろうかと不安になります。昔は、定年は60歳でしたが、今は、いったい何歳まで働かなければならないのかなって感じです。世界の変化も速くて、子供達や孫たちの時代はどうなるのだろうって心配になることがあります。「できれば不安でいたくない」「できれば安心していたい」これが私たちみんなの願いではないでしょうか?だから、“満たされたい”と願います。
お金のことだけではありません。良い家族が与えられたら・・・信頼できる友人がいたら・・・健康でいられたら・・・人に必要とされたい・・・そういうものを願いながら私たちは生きています。勿論、それ自体は、悪いことではありません。でも、そういったものがあったとしても、なお、どこか、完全には満たされない自分に気付くことあるんです。はっきりと、「これが足りない!」と言えるわけではない。ただ、漠然と満たされていない自分がある。何か心の奥底に、満たされていない空間がある。そう感じないでしょうか。お金があれば満たされるのかと思ってもそうではない。誰かがそばにいてくれたら安心するかと思っても、それでも埋まらない何かがある。忙しくしていれば紛れていても、ふと静かになった時に、心の奥に空いた何かを感じる。うまく言葉にできない『渇き』のようなものがある。
それが私たちではないでしょうか?日本語に「欲」という漢字がありますよね。「欲」という漢字は、「谷」に「欠かける」欠席という字の欠と書きますよね。この「谷」というのは、空いたくぼみのような形を表しているそうです。そして、「欠」という字ですが、これは“あくび”をする時のように口を開けた人の姿を現しているそうです。これは、満たされていなくて、口を開けて、何かを飲み込もうとしている人の姿を表しているそうです。
旧約聖書によく似た言葉があります。それが「ネフェシュ」という言葉です。聖書では「魂」と訳されますが、もともとは「喉のど」という意味を持つ言葉です。喉が渇くと、人は口を開けて必死で水を求めます。それと同じように魂もまた渇くのです。この「ネフシュ」という単語が使われている有名な箇所がありまして、それが、詩編42編2節~3節なんです。
涸れた鹿が谷に水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
ここで、「喉の渇き」と「魂の渇き」を重ね合わせています。鹿にとっては、水はなくては生きて行けません。そのように、わたしの魂は神さまを切に求めていますと詩人は歌うのです。この人は、信仰のない人ではありません。神さまを知っているのに、神さまが遠い・・・だから、魂が渇いているのです。私たちの心の中には、ぽっかりと空いた空間があります。何で満たさないといけないかを知らないと人は、ひたすら何かで埋めようとします。でも、実は、そこは神さまでしか満たせないところなんです。人は、ただ、食べて、眠って毎日を過ごしているだけでは、本当の意味での平安がないんです。今日の聖書箇所は、本当に、そのことを記している箇所だと思います。
水を汲みに来た女性が一人登場します。彼女は、喉が渇きを覚えないように、定期的に水を汲みに来なくてはなりませんでした。喉が渇けば水が必要になるからです。でも、彼女を苦しめていたのは、それだけではありませんでした。彼女は人目を避けるように、昼間の暑い中を水汲みに来なくてはいけませんでした。これは彼女にとって辛い仕事でした。ある日のこと、彼女がいつもと同じように、水を汲みに行きます。そして、井戸端で疲れて座っているユダヤ人の男性を見ます。イエス様でした。イエス様は彼女にこう言います。「水を飲ませてください」彼女は驚きこう言いました。あなたはユダヤ人であり、男性なのにどうして「水を飲ませてください」と頼むのですか?これは確かに、自然な反応です。
ユダヤ人とサマリア人には壁がありました。そして、男性と女性との間にも壁がありました。「どうしてユダヤ人の男性のあなたがサマリア人の私に頼むのですか?」という思いに対してイエス様は、
もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。とおっしゃいます。
不思議な言葉です。イエス様は、会話の主導権をひっくり返しておられます。女性は自分が水を与える側だと思っていました。イエス様は水を求める旅人のように見えたからです。けれどもイエス様は、「本当に喉が渇いているのは、私ではなくてあなただ」とおっしゃるんです。「あなたが、私が誰かを知っていたら、あなたの方からわたしに求めていたはずだ」と言われるんです。彼女は、まだ、その意味が分かっていません。彼女は、「汲むものを持っていないのに私に水を与えることができるのか?」そんな風に思っています。
彼女の中には目の前にある井戸の事しかわからないのです。すると、イエス様はこうおっしゃいました。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
井戸の水は飲んでもまた渇きます。今日汲んで帰ってもまた、しばらくした汲に来なくてはなりません。同じ様に、この世のものはみな、手にしても、また渇くのです。得たとしてもモノ足らなくなるのです。でも、イエス様の与える水は違う・・・そうおっしゃるのです。
それは、その時だけのもの(その場しのぎのもの)ではないのです。その人の中で泉となって、永遠に内側から湧き出てくる泉のようなものなのです。それが、魂を生かします。
私たちも、自分の中にある、本当の渇きを分かっていないことがあります。これが欲しい、これがあれば安心するって思います。でも、それを手にしても、なお渇くんです。なぜなら、魂は神さまでしか満たされないからです。イエス様は、彼女に「夫を呼んできなさい」と言われます。これは彼女を責めるためではありません。彼女が一番触れられたくないところ、人生の辛さに触れられたのです。彼女は自分のことを話します。しかし、イエス様は、それを裁くのではなく、そこから生ける水を与えようとされたのです。イエス様は、「あなたの人生は問題だらけだからわたしを信じて人生を改めなさい」とはおっしゃいません。「あなたの魂が渇いている。だから、私を信じなさい。私はあなたの魂を癒す神である。」とおっしゃるのです。これが福音です。
イエス様は、その後、礼拝についても教えられます。これまでは、エルサレムが神さまと交わり場所でした。サマリア人にとっては、山がその代わりでした。でも、イエス様は、場所の問題を超えて、真の礼拝へと彼女を導かれます。神さまとの交わりは、場所に縛られなくなりました。イエス様のおられるところ、イエス様の声が聞こえてくる処、そこに、礼拝があります。そして、そこに、主がおられるのです。私たちは、こうして集まっています。私たちはイエス様の十字架という過去の出来事を思い出すために集まっているのではありません。今も生きておられる主を中心にして礼拝しています。
み言葉を通してイエス様のことを知り、また、イエス様の言葉を聞きます。また、生きた命の糧を頂きます。サマリアの女性は井戸の側で、イエス様の言葉を聞いて、魂が癒されました。私たちは、礼拝に来て、イエス様についての話を聞くだけではなく、イエス様の言葉そのものを聞きます。そして、永遠の命に湧き出る水を頂くのです。もっとも具体的なのが聖餐式です。イエス様は、見えるパンと杯に、み言葉の約束を添えてくださって、私たちに、「ご自身」という恵みを与えてくださいます。その恵みが、私たちの魂を潤し、生かすのです。彼女は、村に帰り、この出来事をみんなに話そうとその場を立ち去ります。印象的なのは、彼女は、水をためる瓶をそこにおいて帰っていったことです。
彼女は、喉の飢え渇きではなく、魂の飢え渇きを満たすイエス様と出会ったのです。
この時から、彼女の魂は、湧き出る恵みの水によって潤い始めて行くのでした。私たちの中にも、言葉にならない渇きがあります。それは、富でも、人でも、名誉でも、完全には埋めることができない渇きです。その渇きをイエス様は知っておられて、この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。とおっしゃるのです。私たちは、この世のもので満たすのではなくて、渇きをもったままでイエス様の前にやってくればいいのです。イエス様は、そのように渇きを覚えてくる人に、生ける水を与えてくださるのです。それが、礼拝という時なんです。イエス様ご自身が、私たちを潤してくださいます。
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