おはようございます。本日は、イエスさまが、ゲラサに住む、、悪霊に憑りつかれて苦しんでいる一人の人を助けた時の話を見て行きたいと思います。
この人は、ゲラサという所に住んでいたのですが、このゲラサという場所は、ユダヤ人が住んでいる土地ではなくて、異邦人というユダヤ人とは違う人が住んでいる地域でした。ここで、イエスさまは、悪霊を追い出されたのですが、この出来事を通して、今日、私たちが心に留めたいことは、イエスさまが悪霊に対しても、絶対的な権威を持っておられること、そして、何よりも、イエスさまは、人を色々な束縛から解放し、自由にしてくださるお方であるということです。
さて、先ほども言いましたが、このお話の舞台となる「ゲラサ」という所は、ユダヤ人ではなく、異邦人が暮らす地域でした。その証拠に、この話しで、豚を世話している人が出てきます。豚はユダヤ人にとっては、律法により、忌み嫌われていた動物でした。ですので、ユダヤ人は飼育することすら許されていなかったそうです。ですので、ユダヤ人にとっては、このゲラサという所は、民族的にも、宗教的にも避けられていたところであったという事が分かります。
にも関わらず、イエスさまは、あえて船にまでのって、その地に足を運ばれたというんです。それは、そこに一人の苦しんでいる人がいたからです。
彼は、悪霊に憑りつかれていました。しかも、沢山の悪霊に憑りつかれていました。ですので、精神的に狂った状態、凶暴な人へとよく豹変していたんでしょうね。聖書を見ますと、その彼が住んでいたのは、人里離れた場所だけではなく、本来人が住みつく場所ではない墓場だったのです。
もちろん、彼がそこを選んで住み着いていたのではありませんでした。恐らく、人々に嫌がられて、そこに捨てられるように押し込められていたのだと思います。彼が暴れるからだと思いますが、周りの人にとって、彼は一緒にいてもらいたくない存在、むしろ、困った存在として扱われていたということがわかります。
彼の様子は聖書を読みますと少しわかります。彼は、暴れまわらないように、鎖でつながれ、足枷までつけられ、監視されていました。しかし、彼の凶暴さは、それを破壊して荒野に出て行くまでの状態でした。親もあきらめて、見捨ててしまっていたのかも知れません。しかし、神さまは、彼を見捨ててはいませんでした。イエスさまは彼を解放するために、彼のもとにやってこられました。
彼を見つけたイエスさまですが、彼が暴れていたので、少し離れた距離からだと思いますが、悪霊に出ていけと強く命じられました。聖書を読みますと、彼がイエス様の足元にひれ伏しているのがわかりますが、ひれ伏したのは悪霊でした。悪霊はイエスさまの権威を非常に恐れているのがわかります。出ていけというイエスさまの言葉に逆らえず、“助けて欲しい”と願い出ています。本人を苦しめて来た悪霊が「苦しめないでくれ」と願っているのはちょっと怒りがわきますよね。人を苦しめているのに、自分達は“苦しみたくない”って、ちょっと勝手ですよね。それが、悪い存在の特徴ですけどね。
ともかく、ここで、イエスさまの言葉の権威というものを私たちは知ることができると思います。このゲラサの人を癒す記事の前では、イエスさまは、弟子達と一緒に舟に乗っていて、そこで、突風に苦しめられます。その時、イエスさまは、波風をお叱りになったのですが、その時、強い風は静まり、穏やかになったとあります。自然をも従わせるのが、イエスさまの言葉の権威ですが、それだけではなく、悪霊さえも言う事を聞くんですね。
これらのことから、イエスさまが“言葉だけ”で自然も霊にも従わせる力と権威をお持ちだということがわかります。私たちは、そのようなイエスさまを礼拝しているんですね。
さて、出ていけと命じられた悪魔にとっては、どこに行けばよいのかということになります。彼らは、「底なしの淵」へ行けとは命じないでくださいと願っています。「底なしの淵」というのは、そこに入れられると許されない限り出てくることができない深い闇のことです。そこで、彼らは、少し離れたところで放牧されている豚の群れがいて、その豚の中に入ることを許して欲しいと願います。イエスさまは、それを許されるのですが、悪霊どもが、豚の中に入っていくと、豚も暴れだして、がけから湖に落ちて行って、溺れ死んでしまいました。何とも、不思議な終わり方です。
悪霊に憑りつかれていた人は、正気に戻り、服も着せられ、イエスさまの側にじっとしていました。
私は、このゲラサの人に起こった奇跡を読んで、“権威をお持ちのイエスさま」の姿が見えてきたのですが、同時に、このゲラサの人の人生が心に浮かんできました。のも想像しました。この人の人生って、どれだけ孤独で、絶望的な人生、どん底のような状態だったんでしょうか。この人は悪霊に憑りつかれてから、人生が大きく変わってしましまいました。社会から完全に切り離され、「人間」として扱われていなかったわけです。誰も彼を助けることはできず、誰も彼のところに来てはくれませんでした。けれども、イエスさまは、わざわざ湖を渡って、彼のところに来てくださいました。
まさに
「誰も来てくれないと思っていた場所に、神さまが来てくれた」
という出来事だったんです。
イエスさまは、悪霊に支配されていた人を解放されました。聖書にはその人が「服を着て、正気に返って、イエスの足元に座っていた」と記されています。これは、ただ「普通の人」に戻ったということではありません。イエスさまとの出会いによって、この人は、信仰が与えられ、神の前に人としての本当の姿を取り戻すことになったのでした。
聖書を読みますと、この後、話が展開していきます。まず、豚飼いたちは恐ろしくなってその場を逃げ出し、町や村に戻って人々にこの出来事を知らせました。町や村の人たちは、イエスさまの所にやってくるのですが、イエスさまと、その前に座っている、悪霊が出て行った彼の姿を見て、恐ろしくなります。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせたのですが、それを知って、人々はどうしたのかと言いますと、イエスさまに「出て行ってくれ」と願うんです。
彼らにとっては、一人の人の回復よりも、自分の経済的なことや、ややこしい事になって欲しくないという、日常の秩序の方が大事だったのかも知れません。
恐らく、この解放された人も、お前のせいでわたしの豚が・・・って責められたかも知れません。でも、この人にとって、何よりも大切だったのは、自分を救ってくださったイエスさまの存在でした。イエスさまこそ、人生のすべて、支えそのものになったのです。
わたしはこの出来事を見て思うのは、
「どん底にまで落ちた時に、人は神さまの救いを見る」
ということです。
私自身、何度か、人生のどん底のような時を経験してきました。それは他の人にとっては大きなことではないのかも知れません。でも、その時の私にとっては、本当に先が見えず、希望も感じられない、そのような時でした。
でも、神さまは、そのような時にも、わたしを見捨てず、救いの手を差し伸べてくださり、回復させてくださいました。
イザヤ書65章1節にこう書いてあります。
『わたしに尋ねようとしない者にも、わたしは、尋ね出される者となり、わたしを求めようとしない者にも、見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも、わたしはここにいる、ここにいると言った。』
これは、神さまが、私たちが求める前から、近づいてきてくださり、ご自身の存在を見せてくださるということです。私たちが祈ることさえできない時にも、神ご自身が近づいてくださり、わたしはここにいる、ここにいると、神のほうから語りかけてくださるのです。
ゲラサの人はまさにそのような人でした。悪霊に憑りつかれ、人々にも見捨てられ、異邦人なので、本当の神様を知らなかったし、助けてくださいと祈っていたわけでもありませんでした。それでも、イエスさま自らが船にのって彼の所にやってきて、彼を解放し、彼に真の信仰を与えられたのでした。
こに、神の恵みの順序があります。私たちが先に神さまを見つけるのではありません。神さまのほうが、私たちを見つけ出し、「わたしはここにいる、ここにいる」と語りかけてくださるのです。
「信仰を持てばすべてがうまくいく」というわけではありません。この前、ずっと雨でしたが、私たちの人生の現実も、全ての人に等しく降る雨のようなのかも知れません。しかし、一度でも、神の救いを経験すると、「変わらない現実の中で、神が私をずっと見てくださっている」ということが分かってきます。聖書には、「超えることができない試練はない」とありますので、その現実の中で、必ず神さまの栄光は現れてきます。それは、イエスさまが、どれだけ神の子として歩んでいても、最後に苦難の中を歩み、十字架でしなれた姿と似ていると思います。しかし、イエスさまは、復活されました。同じ様に私たちも、約束通り、雨の後には必ず晴れ間が広がるのです。
試練に苦しんでいることがあっても、神さまは、解放してくださり、信仰者へと回復させてくださいます。

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