おはようございます。ほとんどの方が、今はスマートフォンお持ちだと思います。スマホに慣れてしまうと、スマホがないと不便に感じますよ。一昔前は、写真を撮るために、デジカメ(デジタルカメラ)を持ち歩いていました。でも今は、スマホひとつで、しかも当時のデジカメよりもさらに高画質な写真が撮れるようになりました。他にも、どこででも動画が見れるようになりましたし、本も読めます。コロナ禍以降は、会議や授業にもスマホで参加できるようになりました。また、目的を入力すれば、何時何分の電車にのって、どこで乗り継ぎをすればよいのかを全部教えてくれます。車で移動する際も、渋滞状況を判断して最もよいコースを教えてくれます。何より、自分が今どこにいるのかがすぐにわかります。私は、すごい方向音痴なので、スマホのGPS機能には本当に助けられています。この前、東京に研修に行きましたが、地図に重ね合わせて、今、自分がどこにいるのかがわかるので、本当に安心して過ごせました。
そうなってくると、逆に不安になるのは、スマホを忘れてしまったり、スマホのバッテリーが途中で切れてしまうことです。時々、基地局の不具合か何かで全く情報が届かなくなることがありますが、そのような時は、多くの人が不安になり、焦り、時に、パニックになります。
今は、スマートフォンが、ライフラインになって来ていますので、それが急に仕えなくなると大変なことになります。
これに似た話で、次のような例え話があります。
ある探検家が洞窟を探検していました。探検家の頭にはライトがついていて、その光が足元や行く先の道を照らしています。ところが、ある時、頭のライトが突然消えてしまいます。当たりは一面暗闇です。探検家は、リュックに入れてあった予備の懐中電灯を使って照らしますが、歩いているうちにそれも落としてしまいます。もはや、全く何も見えません。足元も、自分がどこをむいているのかさえわかりません。静けさと暗闇の中で彼は取り残されてしまいました。
そのような時、彼にとって、唯一の救いは“誰かが、灯りを持って、彼を助けに来てくれること”です。
これは、私たち人間と神さまとの関係を良く現しています。私たちは、自分の人生において、道に迷うことがあります。自分の人生が思ったように行かず「どうしたらいいのか」「何が答えなのか」と悩む時(苦しむ時)があります。自分の好きなように行動すれば良いのかと言えばそうではない。でも、どうすればいいのかに悩み、答えが欲しくなります。また、命とは何か、生きる意味とは何か、自分の命はどうなるのか、人間の力では答えの見つからない問題にぶつかるときもあります。
聖書が教えているのは、「わたしたちの目はふさがれていて、何が正しいのか分からなくなっている」ということです。
そして、そのような私たちの目を開くのが、正確に言いますと、そのような私たちの目を開きに来てくださるのが、聖霊なる神さまのお働きです。
先ほどの、洞窟の話ですが、灯りを灯して助け出しに来てくださり、出口を教えているのが「聖霊なる神さま」です。
人生において道に迷う私たち、また、自分勝手に生きるようになってしまった私たちに神さまは、助け主を送ってくださいました。それが、「聖霊なる神さま」です。
私たちは、先週、聖霊降臨を覚えての礼拝を守りました。弟子達は、大胆にイエスさまのことを証ししていたのですが、それまでの弟子達は、イエスさまの言っておられることがちゃんと理解できていませんでした。
今日お読みした、福音書では、イエスさまが弟子達と会話をしている時の出来事ですが、「あなたがたは間もなくわたしを見なくなる」そうおっしゃったイエスさまの言葉に弟子達は不安を抱きました。そのような戸惑いと不安に満ちた彼らにイエスさまはこうおっしゃいました。
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。 (ヨハネ16:12〜13)
そして、今日お読みした聖書箇所の次にあるのですが、
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(ヨハネ16:16)
と弟子達に教えられました。これは、復活のイエスさまを見るということでもありますが、イエスさまの存在を知るようになるという意味でもあります。つまり、イエスさまが天に昇られた後、神さまが、今度、世に霊(つまり、聖霊)を送ってくださり、目を開き、人を導き、真理を理解させ、そして、イエスさまを分からせてくださるということです。
そして、イエスさまの約束どおり、ペンテコステの日に弟子達に聖霊が降りました。彼らは驚くほど大胆に、イエスさまが、救い主であることを語りました。また、永遠の命のことを教えました。弟子達は、聖霊によって、イエスさまこそ、永遠の命に至る道であり、また、イエスさまこそ、真理であるということがわかったんです。それは、彼らの知識や理解によるものではありませんでした。聖霊が、彼らの心の目を開いてくださったのです。
同じように、聖霊なる神さまは、私たちの目を開いてくださったのです。今日、こうして礼拝していますが、このようにイエスさまが私たちの主である。救いであるということを分からせてくださり、日々、成長させてくださっているのが聖霊なる神さまのみ業です。実は、それが、私たちが神さまに愛されている証しでもあります。
弟子たちと同じように、どんな人も、自分の力で道を探すことも、真理を探すことも、命を探すこともできません。しかし、聖霊なる神さまが、私たちに働きかけてくださり(つまり、私たちのところに来てくださり)、私たちの目を開き、心の闇に光を照らしてくださったのです。
聖霊なる神さまは、私たちのもとにやって来て、目を開いてくださる方です。そして、聖霊なる神さまが一番なさりたいことは、私たちの目を開いて、イエスさまを見させることです。なぜなら、全ての答えは、イエスさまの中にあるからです。
イエスさまは弟子達に「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)とおっしゃいました。
イエスさまは、「わたしは道を知っている」とおっしゃいませんでした。「わたしが道である」とおっしゃいました。「わたしが真理を教えましょう」とか「わたしが命のあるところを教えましょう」とは言わず、「わたしが真理である」「わたしが命である」と教えました。これはとても深い意味を持ってます。
私たちは、時に、神さまのなさることが良く分からなくなる時があります。「愛の神なのに?なぜ?」と感じる時があります。
神さまは愛です。でも、この世には、なぜ、悲しみがあるのでしょう?なぜ、争いがあるのでしょう?なぜ、人の命には限りがあるのでしょう。
そういったものがない世界を造るのが神さまなのでは?とさえ思います。私たちには神さまに対して分からないこと、理解できないことが多いです。
マタイによる福音書にこのようなイエスさまの言葉があります。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」
(マタイ11:25)
これは、幼子のような素直に信じる人には神さまは良く見えて、そうではない人には神さまの姿は隠されています。という意味です。ルターは、ここで、「隠れたる神」という言葉を使い、神さまご自身の本当の姿(御心)は「隠されている」という風に教えます。
しかし、一方で、神さまは、ご自身を知ってもらうと、隠しながらもご自身の姿をお示しになりました。
それが、十字架で死なれた神の御子の姿です。
私たちは、神さまのなさること、悪が世に満ちていることに対して、疑問がわきます。でも、その答えは、隠されています。しかし、私たちには、ひとつ、神さまがこれがわたしですとおっしゃって、その栄光を隠しつつ、示してくださった姿があります。それが、ご自身の独り子を十字架にかけ、私たちの全ての罪を赦すために、殺されたということです。そして、イエスさまが復活されたことです。
神さまの光り輝くお姿、また、御心は覆われていて私たちは見ることができません。神さまは、私たちに御自身の背中を見せられます。しかし、たった一つ、窓口のようなものがあって、そこから神さまが見えるようになっている・・・。それがイエスさまのあの十字架の姿なんです。
私たちが、世の色々な出来事を通して、自分の中の常識で、神さまを知ろうとすると、限界があります。なぜ、こうなさるのか?と疑問がわきます。でも、イエスさまの十字架とは何か、なぜ、十字架にかかられたのか、なぜ、罪のない方を父なる神さまは十字架にかけられたのか・・・そのことから神さまを見ようとすると、神さまが本当によく見えるのです。
イエスさまは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とおっしゃいました。イエスさまが、私たちの全ての答えだということです。イエスさまを通さないと父なる神さまが見えてきません。
イエスさまがどうして人となり、あの苦しみを通して、あの十字架の姿をとり私たちの罪を赦されたのか・・・。このことを深く深く追求していくと、神さまがよく見えるのです。
私たちは、人生色々なことがあります。答えが欲しい、解決が欲しい、色々な願いが沢山でてきます。そのことは、神さまに正直に訴え、祈っていきましょう。なぜなら、祈ることがその答えの一つであるからです。一方で、もう一つ、イエスさまの十字架が良く分かるようにも祈りましょう。なぜなら、イエスさまが道であり、真理であり、命であるからです。
初めにスマートフォンの話をしました。恐らく、持っていることに慣れてしまっている(当然のことのように感じている)と思います。でも、どうでしょうか、昔々の人が、スマートフォンを手にしたら、感動して、そして、安心して、毎日を過ごすのではないでしょうか?
私たちに聖霊なる神さまは働きかけ、神さまと繋がるようにしてくださっています。これは、当然のことではありません。聖霊なる神さまが今も一緒にいてくださっていて、わたしたちの内に住んでくださっているということはとても素晴らしいことです。私たちはいつも“道であり、真理であり、命である”神さまと繋がっています。これこそ、人生を悩み生きる私たちに神さまがくださっている安心ではないでしょうか?
神さまは、共にいてくださっています。イエスさまの十字架の姿は、その奥に輝く神さまのご栄光を覗き見る窓のようなものです。
「道・真理・命」はどこにあるのでしょうか?悩む時は、イエスさまの十字架を通して神さまを見てください。

|