おはようございます。
最近ワインの勉強をしていまして、勉強するとワインって奥深いんですね。良く、ワインが注がれたグラスを鼻に近づけ、香りを嗅ぎますよね。私は、美味しい匂いを嗅いで、「良い香り〜」とか言っているだけなのかなって思っていました。でも、実はそうではありませんでした。ワインの好きな方は、そこから沢山の香りを嗅ぎ分けておられるんですね。
ワインってぶどうの香りだけがするのではないんです。ブルーベリーやいちご、ブラックベリー、そういったぶどう系の香りだけでなく、柑橘類、南国のフルーツ、他にも、バニラ、シナモン、ミントやバラ、土のにおい、青草のにおい、キノコのにおい、枯れた落ち葉のにおいまで、沢山の香りあるみたいで、それを、ワインを飲む前に、嗅ぎ分ける…これが楽しみの一つのようです。もちろん、高級なワインほど、沢山の香りが香ってくるようようです(ソムリエが注いだ後に香りを嗅ぐのは腐食しているかどうかの確認です)。
ちなみになんですが、ワインの味を意識して味わおうとすると、そのぶどうが育った“気候”や“土壌”も感じとれるそうです。すごいですね。
私は、ワインを勉強するようになって、一つ、嬉しい発見がありまして、それは、自然の中にでかけた時に、自然の微妙な色合いを感じ取るようになったことです。
これまでは、茂っている(青々としている)とか、枯れているとか、大きくしか自然を捉えていませんでした。でも、葉っぱも一枚一枚よく見ると、光の当たり方によって、微妙に色が違っているんですね。木によって、また、同じ木の葉っぱでも、微妙に色合いが違うし、綺麗なんです。この微妙な色の違いを意識すると、自然の美しさをさらに深く感じることができるんだってわかるようになりました。
自然の雄大さ、また、台風や雷の時に、造り主である神さまの存在を感じることありますが、そよそよと吹く風の静けさの中や、小鳥のさえずりを聞いていても、天地を造り、命を育む神さまの存在を感じることもできます。
イエスさまは、こうおっしゃっておられます。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。(マタイ6:28)
このみ言葉は、皆さま良くご存じの御言葉だと思います。これは、思い煩いが多い私たち、何を着ようか、何を食べようか、明日どうなるのだろうか、このことはどうなるのだろうか・・・そういった思い煩いの多い私たちにイエスさまがおっしゃった言葉です。
イエスさまは、野の花、鳥を見て、特に生きるために一生懸命何かをしているわけでもないけれど、どこまでも美しく装ってくださる神様、糧を与える神さまのことを知りなさいとおっしゃっています。そのみ言葉ですが、イエスさまは、『野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。』とおっしゃっていますよね。ここで、イエスさまは、ただ「見なさい」とおっしゃっておらず、「“注意して”みなさい」とおっしゃっています。これは原文のギリシャ語では、「カタマンサノー」という言葉が使われています。これは、ただ「見る」ということを現す単語ではなくて、何かに気付くために「じっくり見る」「よく観察する」という意味を持った単語なんです。
つまり、イエスは単に「見なさい」と言ったのではなく、「心の目をもって、深く観察し、どうやってこれらの花や生き物が生きているのかということを感じ取りなさい」と呼びかけておられるのです。
自然をじっくり観察する、どのように育つのかを観察する、一枚一枚の葉っぱの形、色、鳥や昆虫の姿、色々な自然の姿を、じっくり見ると、そこに、自然を造られた神さま、自然を育み続ける神さま、繊細さをもった神さまの愛が見えてくるんですね。自然の中で感じる安らぎは、ただの感覚ではなく、「神とともにいる」ことを思い出させる小さな御声かもしれません。
詩編の104編24節にこう書かれています。
『主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。』
神さまが創造された自然をじ〜と観察し、そして、育まれている命に目を向ける時に、野の花以上に、私たちに目を向けてくださっている神さまのまなざしを感じ取って欲しいなと思います。
さて、神さまは、この世界の全ての命を育む神さまです。そして、太陽を昇らせ、雨を降らせることで地上の生き物(私たちを含めて)を養い育てます。太陽の光や雨は具体的に見える神の恵み、そして、自然界の空間は神さまの恵みの繁栄だと思います。
そう考えた時に、わたしは、「大空」「見える形で降ってくる雨」「育まれて行く空間」という三つの要素の中に三位一体の神さまの働きを見ることができるかなと思いました。
今日の聖書箇所ですが、イエスさまは弟子達の前で、天に昇られました。その時、イエスさまはこうおっしゃっています。
『わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。』(ルカ24:49)
イエスさまは、「父」が約束されたもの「つまり聖霊」をあなたがたに送るとおっしゃっています。「聖霊」とは、この世界で神の御心を成就(実行)していく神さまです。先ほど言いました、この自然界が神さまによって具体的に育まれて行くように、聖霊なる神さまは、私たちを育むお方です。もう少し、具体的に言えば、この礼拝を考えて見て欲しいと思います。私たちは、父なる神さまを礼拝しています。しかし、そこには、目に見える形できてくださり、触れて下さり、語ってくださり、そして、十字架にかかってくださったイエスさまを礼拝しています。また、この後、天からの恵みである聖餐を受けます。そして、聖霊なる神さまは、今、この空間を満たしてくださっていて、そして、私たち一人一人の心の中に、恵みを注ぎ込んでくださっています。礼拝の中にも、三位一体の神さまがいらっしゃるんですね。私たちは、三位一体の神さまを豊かに感じ取れる空間で、神さまに包まれていると言ってもいいと思います。
しかし、そのために必要なのは、ただ、この空間に身を置くのではなくて、
信仰を豊かに働かせることが大切です。
『わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。』(ルカ24:49)
弟子達はその約束を喜びました。それまで、神殿で神さまをほめたたえていたと書かれています。彼らは、「高いところからの力に覆われる」時を待ちました。彼らは、聖霊なる神さまが本格的にお働きになるその時を証明する人として選ばれたのです。
使徒言行録には、聖霊が弟子たちにどのように働きかけ、キリストの復活(つまり「神が今も共におられる」ということ)を人々に伝えていく様子が記されています。私たちの聖書では「使徒言行録」となっています。確かに弟子たちの宣教の記録ではありますが、その背後には聖霊の力強い導きがありました。
私は、洗礼を受けたばかりの頃、青年会の中でこう話したことがあります。「使徒言行録は、正直あまり読まないんです。なぜなら、信じられないような話がたくさん書いてあるから」って。
今思えば、当時の出来事が、現在の私たちの現実とはあまりにも違って見えていたからだと思います。
でも、牧師として18年ほど歩んできた今、あらためて思うのは、「ああ、やっぱりこれは本当にあった出来事なんだ」ということです。
聖霊は、「息」や「風」とも訳すことができる単語です。風はいろんな形の風があります。やさしいそよ風もあれば、激しい台風のような風、思いがけない突風もあります。弟子たちの時代は、まさに激しい風、つまり吹き荒れるような聖霊の働きの時代だったのではないかと思います。
それから時が流れ、イエスさまの昇天から2000年が経とうとする現代。今は、風がやんだように(吹いていないように)感じられるかもしれません。けれども、そよ風のようであっても確かに、聖霊は今も働いておられます。神の霊はいつも私たちのそばにおられ、導いてくださっています。この礼拝堂も、その神の霊に満たされています。
教会に働く神さまの姿でありますが、私たち一人一人にも働きかける神さまであることを忘れないで欲しいと思います。
神さまは、私たち一人一人に命を与えてくださいました。そして、家族を与えてくださいました。この世の糧もそうですが、天からの糧(みなさまに本当に必要なもの)を与えてくださっています。何よりも、御子イエス・キリストを私たちのために与えてくださいました。キリストは見える形で私たちの前に現れた神さまです。そして、私たちのために、痛み、苦しみを耐え忍び、私たちを救うために、十字架で死んでくださいました。そして、復活してくださることで、私たちの罪が全て赦されたこと、罪赦され、永遠の命に生きるようになったことを教えてくださいました。そして、今や、見えないのですが、聖霊なる神さまが、私たちを包み、また、内に住み、私たちに神の恵みで満たしてくださっています。
私たち一人一人、三位一体の神さまの、恵みの中で生きています。

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