宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 

ヨハネ   14章 23〜31節


 「聖霊の御業」


おはようございます。
周りの子供達を見ると、何かスポーツをしている子って多いですよね。野球とか卓球とか陸上とかバスケットとか、色々なスポーツを子供達は頑張っています。この前、息子の卓球の試合を見に行きました。選手と応援する人達で体育館はいっぱいでした。一点ごとに「わ〜」とか「あ〜」とか声があがり、みんなの熱気を感じました。確かに、みんな勝つために熱くなっていますが、でも、やっぱり伝わってくるのは、「みんな卓球が好きなんだな」ということでした。
試合は、トーナメント方式で、誰かが一番になります。中には、全国大会に出場していくような子もいるかも知れません。でも、そういった選手は、数人だと思います。さらに、世界に出て行くような人になるのは、ほんの一握りの人たちです。体育館で試合を見ていて、沢山の子供達は、プロ選手に憧れ、上位を目指しつつ、さらには練習に励み、頑張りつつも、やはり、「卓球が好き」「卓球を楽しんでる」のが良く分かりました。

私は、信仰生活もどこか似ているなって思います。私たちは、洗礼を受けた時に「クリスチャンらしく生きよう」「イエスさまのように・パウロのように生きたい」って思いますよね(決意)。信仰を持った後では、例えばマザーテレサや、日本ではシスターの渡辺和子さんの本とか読むと、感銘を受けて、「わたしもそんな風に生きた」いって思います。そのような有名な方ではなくても、素晴らしい信仰者の話を聞くと、「そんな風に生きたいな」って思い、同時に、自分の姿を見て「自分はダメだなって」ちょっと落ち込むこともあると思います。時には、自分を裁いてしまったり、あきらめたりすることもあります。

でも、スポーツの話と同じように、信仰生活においても、すごい信仰者と自分を比べる必要はないのです。

神さまが見ておられるのは、私たちが「どれだけ立派な人になったか」ではなく、どれだけ「神さまを信頼し、愛しているか」です。なぜなら、そこに「いのち」があるからです。

今日の聖書箇所でイエスさまは、こうおっしゃっています。

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」(14:23)。「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」(14:23)。

どうですか?このイエスさまの言葉を聞いて、「わたしを愛するというのなら、わたしの言葉を守りなさい」とか、また、「わたしを愛していないから、わたしの言葉を守らないんだ」みたいな、ちょっと律法的に聞こえてくることないでしょうか。

でも、このイエスさまの言葉ですが、原文のギリシャ語の文法に注目すると、少しニュアンスが違ってきます。よく読むと、この言葉の中に、込められているイエスさまの思いが見えてきます。

まず、イエスさまは、「あなたがわたしを愛するなら」とはおっしゃっていません。「もし誰かがわたしを愛するなら…」と言っておられます。イエスさまは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守るようになります。そして、父もその姿を喜んでくださり、その人は、神と共に生きるようになります」という風に、愛に基づいた交わりの連鎖をおっしゃっておられるのです。
一方で24節の、「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」というのは、わたしを愛していない状態の人は、「残念なことだけど、命の言葉である私の言葉を聴こうとしない」という風に、現実の姿の悲しさを語っているのです。

神さまの言葉を守ること、それは「がんばって守る義務」ではありません。イエスさまを愛する思いが生じると自然とみ言葉を守る人へとなっていくのです。そして、父なる神さまの豊かな懐に抱かれて生きる人となっていきますよという「愛」の「義務」ではなく、「愛」による「恵みの連鎖」を教えてくださっているのです。

聖書に次のような話があります(ルカ7章)。ある日、ファリサイ派のシモンという人がイエスさまを自分の家に招きます。そこに「罪深い」一人の女性がやってきて、イエスさまの足もとにひれ伏し、涙で足を濡らし、髪の毛で足をぬぐい、そして、接吻して香油を注ぎました。シモンは、彼女を見下しますが、イエスさまは彼女の行為をむしろ喜ばれました。

この女性は、町で名の知れた罪深い女性でした。でも、イエスさまの口から出る福音の言葉を聞いて、自分は神さまに赦されるんだ、愛されているんだということがわかったんでしょうね。普通だったら、律法に厳格なファリサイ派の人の家に入っていくことはありません。でも、神さまの愛と赦しを素直に受け取ったので、彼女はその喜びで行動できたのです。だからこそ、彼女のしたことは、福音と一緒に、世界中に語り継がれることになったのです。

イエスさまは、一つのたとえをシモンにおっしゃいました。

「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」(ルカ7:41〜42)

これは、誰が聞いても答えは同じです。金貸しを多く愛したのは、多く帳消しにしてもらった方です。

イエスさまは、私たちの罪を代わりに負うために十字架で死んでくださいました。私たちは、神さまに多くを赦されたものなんです。
神さまへの愛は、まず、多く赦されることで生じてくるものなのです。「多く、赦された」、「こんなわたしに『あなたを愛している』とおっしゃってくださる方がいる」この思いが相手を慕う思いに変えられて行きます。
実際に、自分の力では決して帳消しにできない私たちの罪を、イエスさまは、ご自身が十字架で死んでくださることによって、全部帳消しにしてくださいました。ここに神さまの愛が示されました。イエスさまを愛するとは、まず「神の愛を受け取ること」から始まります。私たちが愛する前に、神が先に私たちを愛してくださった・・・これが福音の中心です。この愛を受け取った時に、私たちは、イエスさまを愛する人と変えられます。すると、イエスさまの言葉が輝き始め、それが、わたしたちにとっての命の言葉へと変わり、父なる神さまとイエスさまと一つとなっていきます。この美しい連鎖が、イエスさまを愛する時に生じるんです。

どのスポーツの世界でも、練習はきついものです。でも、頑張ります。でも、それは、そのスポーツが好きだからではないでしょうか。
信仰持った私たちが、イエスさまの言葉に生きるのも、やはり、イエスさまの愛を受けて、自然と応答するからではないでしょうか。

私たちがそのような愛に生きるために、聖霊なる神さまが来てくださいました。

イエスさまが十字架で死なれたとき、弟子達はイエスさまを見なくなりました。しかし、3日目に復活し、彼らにご自身を示されました。次にイエスさまは、彼らが見ている前で、「神の姿」で天に昇って行かれ、また、見えなくなりました。
でも、ちゃんと、聖霊なる神さまがイエスさまを見させてくださるようになりました。

イエスさまは、今、地上での公生涯とは違う愛し方を弟子達に(また私たちに)してくださっています。それは、聖霊なる神さまのみ業によって、私たちの目を開き、イエスさまの言葉を、命の言葉として受け止めることができるようにしてくださり、共に生きてくださっているのです。

聖書は、わたしたちが神を畏れて生きるようにと教えています。それは、神を神とすることです。そして、もう一つ、神さまが求めておられるのは、神の愛を受け、神を愛することです。
神さまは、人と人とが互いに愛し合うことを求めておられますが、同時に、神と人とが互いに愛する関係も求めておられます。

復活したイエスさまは、弟子達の前に現れ、そして、ペトロに対して、3度「わたしを愛するか?」と尋ねました。これは、ペトロがイエスさまのことを見放さないと断言しつつ、3度「知らない」と言ってしまった、彼の後悔を回復されるためだったと思います。でも、もう一つ、神さまが愛されることを求めておられることがわかります。

このイエスさまの問いは、私たち一人一人に向けられている問いでもあると思います。
イエスさまは、不安だから尋ねておられるのではなくて、神と人とが一つとなるときに、本当の命がその人の中に宿るからです。
もちろん、私たちが愛する前に、神さまが私たちをまず愛してくださったのです。しかも、神の愛は、無償の愛です。私たちの愛は、限界がありますが、神の愛は限界がありません。永遠の愛、敵をも愛する無償の愛です。

イエスさまは、ご自身の愛、父なる神さまがイエスさまを通して示された愛を受け止めて欲しいと願っておられます。
そして、私たちが神を畏れ、イエスさまの言葉に生きる人になることを望んでおられます。聖霊なる神さまは、そのために、み言葉と共に、今も働いておられ、私たちの目を開き、心を開き、イエスさまの命が私たちの内に生きるようにしてくださっています。

イエスさまは今も生きておられます。そして、聖霊なる神さまも、生きておられ、イエスさまがいかに大きなことをしてくださったのかを私たちに知らせようと働きかけてくださっています。

この十字架を見ながら、是非、イエスさまが私たち一人一人に、ペトロの問いかけたように「あなたは、わたしを愛しますか?」と尋ねておられる声を聴いてください。それは、「わたしの愛を受け取ってくれていますか?」という問いかけでもあります。