宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 

ヨハネ   13章 31〜35節


 「愛をください」


おはようございます。

今日、皆さんにお伝えしたい信仰の中心となる祈りの言葉があります。
それは

『主よ、私は自分の力では、人をあなたが望まれるようには愛せません。
でも、あなたが私と共にいてくださるなら、それは可能となります。』

どうかこの祈りを、今日ここにおられる皆さん一人ひとりの心の言葉として受け取っていただけたらと願っています。

さて、皆さまは「借り物競争」ってご存じでしょうか?幼稚園や小学校の運動会で借り物競争をしたご経験のある方、いらっしゃるかも知れません。
 ルールはシンプルで、「よーいドン!」の合図で走り出し、封筒の中にあるお題(たとえば「赤い服を着た人」「めがねをかけた人」「校長先生」など)そのお題に合う人や物を見つけて一緒にゴールを目指します。

 普通、運動会では、子供達は、かけっこしたり、リレーをしたりして勝ち負けに一生懸命になります。また、ダンスや組み立て体操では、おうちの人に「頑張って来た姿を見て欲しい」とか「凄いなって思ってもらおう」と一生懸命練習してきた成果を披露します。
 普通は、子供達と観客の人は違う立場にあるのですが、、借り物競争ってよく考えられた競技だなって思うのは、「競技をする人」だけではなく「見ている人」までもが巻き込まれてしまう競技なんですね。

「校長先生」とか「白い服を着ている人」という「見てすぐ分かるお題」もあれば、「例えば赤いハンカチ」というお題だと「赤いハンカチ持っている人いませんか〜」とか叫ばないといけません。もし、赤いハンカチを持っていると、声をあげるかそれとも黙っておくか・・・そんなソワソワ感も見ている側に生じます。

借り物競争って、まさに、「頑張る人」と「見る人」との境界を取り払って、全員が“参加者”になる競技です。
でも、もう一つ、その競技に隠されているユニークさがあると思うのですが、それは、

誰かと関わらないとゴールできない。

ということなんです。答えは外にあり、それを探し求めなければなりません。

私は、ふと自分の人生を振り返ったとき、この借り物競争と似ているなと思いました。借り物競争では、「めがね」とか「赤いハンカチ」とか「校長先生」っといったお題ですが、私にとってのお題は「永遠のいのち」と「愛に生きる」ということでした。
私は小さい頃は「永遠のいのち」に関する答えを、必死に探し求めていた気がいたします。そして、出会ったのが、聖書でした。では、今、私は、借り物競争で「永遠のいのち」というお題が書いてあれば、聖書を手にして、ゴールを目指すのか?と言えば、そうではありません。私は、イエスさまの手を取って、ゴールします。

なぜなら、私の「永遠のいのち」はイエスさまの中にあるからです。

一方、「愛に生きる」というお題は、今もなお、私がゴールを目指して取り組み続けているテーマです。

私は、教会に行こうと思ったのは、「愛に生きる人」になりたかったから(あこがれていたから)なんです。今でも、愛に生きる人になりたいという思いは強くあります。でも、そうなりたいけれどもなれないんです。イエスさまは、愛に生きるように命じられていますが、なれないんです・・・。ここに私の苦しみがあります。

今日の聖書箇所で、イエスさまは、弟子達に、

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」           (ヨハネ13:34〜35)

 と言っておられます。ほんと、これこそ、正しい生き方だし、そうありたいし、そうであるべきだと思います。でも、人間の集まりである限り、このイエスさまの命令というのは不可能なことだと思います。

「家族ならまだしも、他人を本気で愛するなんて、自分には無理です」「人に親切にしたくても、心がついてきません」「自分のうちに、そんなきれいなものは見当たりません」それが私たちの正直なところではないでしょうか?

 パウロでさえ、ローマの信徒の手紙8章17節で

『わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。』

と言っています。
私たちは、自分の力だけでは無償の愛(アガペー)に生きることができません。それは神の愛であって、人間の自然な愛情とはまったく異なるものだからです。
 では、神さまはできないことを命じておられるのでしょうか?イエスさまがおっしゃることは、確かに絶対的な命令だと思います。しかし、そこに、大きな意味があって、「できない自分」「愛のない自分」「愛が湧かない自分」にきづかせるためなのです。

 実は、その気づきが、恵みがその人の中に注がれ始める出発点になります。

イエスさまはこうおっしゃいました(ヨハネ15:5)。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

「愛に生きる」ことは、「まず、自分の中に人を愛する力はない」という気づきから始まります。すると、神さまは、わたしたちの内に働きかけ、わたしたちは人を愛するように造りかえられていきます。

最初にお伝えいたしました、祈りの言葉

『主よ、私は自分の力では、人をあなたが望まれるようには愛せません。
でも、あなたが私と共にいてくださるなら、それは可能となります。』

この言葉が、私たちの信仰の祈りとなります。

 さて、最後になりますが、今日の聖書箇所の最後のイエスさまが弟子達におっしゃった言葉の意味を考えて見たいと思います。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」           (ヨハネ13:34〜35)

イエスさまは、「互いに愛し合いなさい」と弟子たちに命じられました。その際に、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われ、私たちの愛の基準を、ご自身の愛の姿に置かれました。これは非常に重要な点です。私たちは、人間的な感情や都合による愛ではなく、イエスさまの自己犠牲と赦しに満ちた愛の姿をしっかりと見て、相手を愛していく必要があります。

さらに注目すべきは、イエスさまがこの愛の命令を、特に弟子たちの間の関係、つまりキリストを信じる者たちの共同体の中で現すようにと命じられている点です。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という旧約の律法も素晴らしい教えですが、「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めには、より具体的で深い訓練の場が伴っています。それが教会という共同体です。
共同体の中で愛し合うことは、助け合うだけでなく、赦し合い、受け入れ合うことも含みます。
共同体というのは、利害関係があり、でも、家族ではないという、特別な距離を持った関係です。だからこそ、見えない弱さや不一致も現れてきます。だからこそ、私たち(共同体そのもの)を愛してくださっているイエスさまの愛を知る必要がありますし、私たちを愛しているイエスさまの愛が土台となっていく必要が出てきます。しかし、そうした葛藤の中でこそ、愛は練られ、育まれていくのではないでしょうか。

また、イエスさまは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言われました(ヨハネ13:35)。つまり、教会の中での愛の交わりそのものが、イエスさまの愛と福音の力を世に証しする方法となっていくということです。

 今年の私たちの標語は「神と人とを繋ぐ」としていますが、私たちは「互いに愛し合いなさい」というお題を頂いていて、共に答えを求めながら歩んで行きましょう。もちろん、私たちの力だけでは決してゴールにたどり着くことはないと思います。イエスさまが共にいてくださることにより、生きた信仰者へと変えられて行くということも忘れないで行きましょう。