おはようございます。
もし、皆さまが、「誰かのためにこれを使ってください」と言われて100万円を託されたら、皆さまは、どうなさいますか?皆さまは、そのお金を何に使いますか?
パッと思いつくのは、困っている人に差し上げることだと思います。他にも、慈善団体に寄付するという方法もあります。また、先日、ミャンマーで大きな地震がありましたが、そういった被災地に募金する方法もあると思います。他にも、沢山の人にプレゼントをあげるという用い方もできるかと思います。でも、それって、普段でもできること(普段でもしていること)だと思います。特別に託されたのですから、もう少し、託した人の思いを汲んで、特別な使い方をしたいですよね。
100万円を託されたら・・・わたしは、自分なりに、どうするかなぁって考えました。私は、まず、祈るかなぁって思いました。「必要な方がいらっしゃったら教えてください」って。もしくは、「良い使い方を教えてください」って神さまに祈ると思いました。そして、これが神さまからの答えだって感じたら、それに使うだろうなって思いました。
イエスさまがおっしゃった教えの中に、こういう言葉があります。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(ルカ14:12〜14)
神が報いてくださると言うことだと思います。誰も目を留めないような人に親切にしなさい・・・そうすれば、神があなたに報いてくださる。そのような意味です。神さまは、いつもそういう人に目を留めておられる方です。
イエスさまは、感謝されることや、また、見返りを受けることも期待せず、本当に困っている人にこそ配慮し、その人が「助かったと思える」ことをしてあげなさい・・・そうおっしゃっています。
「あしながおじさん」こそ、そのような人なのかも知れません。また、日本でいうなら、♪どこの誰かは知らないけれど、疾風のように現れて、その人を助けて去っていく、「月光仮面」、のような人なのかも知れません。
いずれにせよ、どんな使い方にせよ、私は、感謝されそうになったら「これは私のお金ではありません。託されたお金です。誰かを助けるためにある人が私に託してくださったお金なのです」って言うと思います。
私は「命」とか「人生」についても似ているところがあるなって思います。確かに私の「命」ですし、私の「人生」です。でも、どう生きるのかって、大事ですよね。特に、永遠の命を頂いた私達ですから、尚更、どう生きるのかって大事だと思います。
聖書には、人が罪を犯した結果として死が入り込んだと記されています。悲しい事実ですよね。私達にとっては「罪の結果」というより、死は「罪の罰」のようにさえ感じます。
確かに、人に罪が入り込んだ結果、死が定められました。でも、神さまがなさることは、全てに意味があると思います。
死が入り込んだからこそ、命の尊さを感じることができるのだと思います。
もし人が死なない存在であれば、命の尊さを実感することは難しいと思います。人の死に対して涙することもありません。死があるからこそ、私たちは、自分の命、人の命、その尊さを感じるのだと思います。
私たちクリスチャンにも、必ず、死が訪れます。蘇りが約束されていますが、一度、死ぬことと、その後に、裁かれることが定められていると聖書にあります(へブル9:27)。私は、この定めの中にも、「命」について深く考えることを神さまはクリスチャンに与えられたのだと思います。
私達クリスチャンは、新しい命を頂きました。ただ、それは、私たちが願う前に、イエスさまが、ご自身の命を捧げて下さり、私達の罪を全て背負って十字架で死んでくださったことによって頂いたものなんです。
新しく生きることができた、パウロは、次のように言っています。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
(ガラテヤ2:20)
この言葉の中に、パウロの生き方が、“イエスさまに根差した新しい生き方”に変わっているのがわかります。素敵ですよね。
私は思うのですが、イエスさまの十字架の贖いにd、心から感謝できているか、新しい命を頂いてどのように生きようとしているのかということを時に振り返る必要があるのだと思います。
さて、今日の聖書箇所ですが、イエスさまの十字架の贖いを理解し、感謝し、自分にとって「一番大切なものをささげた」一人の女性の話が書かれています。
イエスさまが、十字架で殺されてしまう、約1週間前(他の福音書では数日前になっていますが)、イエスさまは、ベタニアというエルサレムの近くにある村にやってきました。そこには、親しくしている、マリア、マルタ、そして、ラザロの家がありました。イエスさまは、彼女達の家を訪れ、食事を共にされました。イエスさまが食事の席についておられると、マリアがイエスさまの足元に近づいてきて、イエスさまの足に純粋で非常に高価な香油を注ぎ始めたんですね。他の福音書を見ますと、頭にも注いだとあります。そして、マリアはイエスさまの足をその髪の毛で拭ったのでした。純粋で高価な香油ですから、部屋はとても良い香りでいっぱいになったと思います。また、麗しい光景だったと思います。
当時、舗装された道路が少なく、人々は砂埃の多い道を歩いていたので、客人を家に招く時には、客人の足を家の人が洗うことが一般的だったようです。これは、歓迎のしるしであり、また、敬意を表すしるしでもありました。
もちろん、イエスさまの足はすでに、誰かが洗っていたとは思います。それに加えて、マリアは、食卓に座っておられるイエスさまの足に香油を注いだんですね。このマリアの行為は、歓迎や敬意の思いを超えた、深い思いが含まれていたのだと思います。
恐らく、マリアはイエスさまを客人としてではなく、神の使者、人類のために命を捨てられるメシアとして、理解していたのでしょう。そして、イエスさまに対して、自分ができることは何かと考えた時に、自分にとって、一番高価で大切な香油を捧げる・・・このことが、彼女ができる最高のことだと判断したのだと思います。
ところがなんですが、聖書を読みますと、ユダは、その行為を非難しています。実は、他の福音書を見ますと、他の人達も、このマリアの行為を「もったいない、売って、貧しい人に施すべきだ」と責めました。でも、イエスさまは、マリアの思いを受け止め、また、自分がまさに罪の贖いのために死に向かっていることを教えるために「彼女は、わたしの埋葬の準備をしてくれたのです」とおっしゃったのでした。
これは当時、死者の体に香油を塗る習慣があってのことだと思いますが、さらに言えば、恐らく、イエスさまが十字架につけられ、葬られる時にも、マリアが注いだ香油の香りが残っていたと思われます。そういう意味もあってイエスさまは「彼女は、わたしの埋葬の準備をしてくれたのです」とおっしゃったのだと思います。
さて、マリアは、女性として特別な時に使うはずだった香油を惜しみなくイエスさまに用いたのですが、ここにマリアの「信仰」が豊かに表されました。マリアはイエスさまが来られた時は、手をとめ、イエスさまの前に座り、イエスさまの話をずっと聞く人でした。ですので、イエスさまが、多くの人を贖うために神さまが遣わされたメシアであることを理解していました。さらに言えば、無力である私達のために、神の独り子が、罪の赦しを与え、神さまとの関係を回復するために、十字架で死んでいかれることも理解していました。マリアは、多くの人のために「命」を捧げるイエスさまに対して、彼女は「自分の持っている最高のもの」をイエスに捧げることで、感謝を表したのでした。
ユダが、マリアの行為に対して、「その香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施せたのに」と責めた時、イエスさまは、
「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」
とおっしゃいました。イエスさまは、こうもおっしゃっています。
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:40)
私たちは、マリアのように、直接、イエスさまにして差し上げることはできません。しかし、弱い人に目を向けるとき、そして、その人を助ける時、それは、イエスさまに仕えることでもあるとイエスさまはおっしゃっています。
私たちは、イエスさまに感謝して、何ができるのかと言えば、人々に仕えること。そして、もう一つ、イエスさまが、私たちのために「命」と「人生」を捧げてくださったことを“忘れない”ことです。
私たちはこの後聖餐式をしますが、聖餐式の中に、“恵みを恵みとして喜んで頂く”ことと“忘れない”ということを同時に行っています。
パウロはコリントの信徒への手紙でこう言っています。
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(1コリント11:26)
私たちは、聖餐式を行いますが、聖餐式は、主の恵みを直接受けとる時であると“同時に”、その姿を通して、主の死を覚え、世に、主の死による恵みが何であるのかを告げ知らせる時でもあるのです。
私たちは、礼拝の中で聖餐式を行う時に、ただ、恵みとしてパンとぶどう酒を頂くのではなくて、その背後に、主の体が裂かれ、主の血が流されたことを思い起こしながら、感謝をして、信仰によって真の主の体と血を頂きます。大事なのは、ただ恵みを受けとるのではなくて、私のために、主の体が裂かれ、主の血が流されたことを受けとめることです。
イエスさまは、人となり、ご自身の人生、そして、命を私達のためにささげてくださいました。そのことを通して私たちは、イエスさまの愛を受け取りました。
私達は、新し命を頂き、新しい生き方に招かれています。主に感謝し、主の死を忘れず、そして、隣人を通して、主に仕えて行くんだ・・・今日、そんな風に受け取って頂ければと思います。

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