宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 

 マタイによる福音書  14章 22~33節
 

 「あなたの土台は」


 「あなたの土台は?」

 おはようございます。少し前のことではありますが、(1912年に)海底に沈んだタイタニック号を見学するツアーの潜水艦の事故がありました。潜水艦は潜って行く途中で消息を絶ち、その後、深い海底でバラバラになって発見されました。多くの専門家が口をそろえて言った言葉は「深海の恐ろしさを分かっていなかった」という言葉でした。実際に、潜って行った潜水艦には浮上能力はなかったそうです。重りで沈み、重りを外して浮いていく…そんな単純なシステムでした。また、操縦するのも、ゲームのコントローラーというのですから、何千万円も払って乗った人たちは、危機感を感じなかったのでしょうか。実際に、窓ガラスは、あの深さの水圧に耐えれなかったみたいです。また、後ろの尖がったイルカの尾っぽのような形も水圧に対して弱い構造だったそうです。
 思い起こせば、昨年、知床でも遊覧船が沈没する悲惨な事故がありました。あの事故も、強風で波が荒れているのにも関わらず、船を出港したところに問題があったようです。

 私は、幼い頃に何度か溺れた経験がありますので、基本的には水は恐いです。しかし、船に乗っていると安心します。特に大きな船は安心します。
 とはいっても、船というのは水の上でも(沈まず)安定して進むことができる安全な乗り物なのですが、一度、自然の驚異にさらされてしまうと、だめなんです。タイタニック号の事故もそうでしたが、船も人も一度、自然の驚異にさらされると、無力であることを改めて示されます。そういう時、人は、自然の恐ろしさ(水の怖さ)に包まれてしまいます。

 想像してみてください。ご自身が安心だと思って乗っていた船が、今まさに沈みそうになっている状況の事を…その時、皆さまはどうしますか。



 先週、私たちは2匹の魚と5つのパンを用いてイエスさまが5000人もの人のお腹を満腹させるというイエスさまの奇跡の出来事を共に見ました。今日の聖書箇所はその後の出来事です。
 イエスさまは、弟子達を船に再び乗せ、向こう岸に渡らせました。そして、ご自身は船に乗らず、群衆を解散させて、一人、山に登り、祈りの時を持たれました。
 
 船にのって向こう岸に向かって行った弟子たちですが、〔風が吹いて(波に悩まされ)〕思うように船が進まなくなります。恐らく、水もうねっている状態だっと思います。弟子達の多くは漁師でした。しかし、その弟子達でも、歯が立たないんです。しかも、その状況が、明け方まで続いたのです。

 明け方まで、一生懸命、船を漕ぎますが、船が思うように進まない…。〔焦り〕と〔恐怖〕を感じると思います。ただでさえ、疲労しきっていて、危険にもさらされていた弟子達が、向こうから、水の上を歩いてくる人を見るんです。彼らは恐怖のあまり「幽霊だ」と叫びました。
 一説によりますと、ガリラヤの漁師達の間では、船に乗っている時に幽霊を見たら、それは〔お迎えが来た時である〕と、そのように言われていたそうです。ですので、疲労困憊し、水の上を歩く人の姿を見た時に、自然に対する恐怖と共に、「もう終わりだ…」という別の恐怖も湧き上がって来たんです。
 ところが、それはイエスさまでした。イエスさまは、彼らにおっしゃいます。

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

「安心しなさい」というのは「勇気を出しなさい(しっかりしなさい)」とも訳せる言葉です。
 恐らく、このイエスさまの言葉は「幽霊じゃないよ。安心しなさい」という意味ではなく、

〔恐怖に包まれパニックになっている〕彼らの信仰を呼び起こそうとされた言葉だと思います。そうすることで、「イエスさまが共におられるから安全である」という平安を与えようとされたのだと思います。

 イザヤ書28章にはこう書かれています。

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それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎(いしずえ)の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。          (イザヤ28章16節)
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「神を信じ、人となられたイエス・キリストを信じる人は、信仰が深まるにつれ、慌てることは少なくなって行く…」私はそれは真実だと思います。皆さまそう思われるのではないでしょうか。

 さて、〔嵐で右往左往している〕彼らとは反対に、〔水に飲み込まれることもなく〕、〔風に戻されることもなく〕、また、〔沈まず〕、〔動じていないお方〕を見て、彼らはどう思ったでしょうか。
 船に乗っているのに不安定な彼らと違って、船に乗っていなくても安定(安心)しておられるお方を見て彼らはどう思ったでしょうか…。

 彼らは、そのイエスさまの姿に「神の子の姿」を見たのです。もちろん、今回だけではありません。イエスさまの色々な奇跡を見てきて(体験してきて)この時、彼らから口から『本当に、あなたは神の子です』という告白の言葉が出てきたのです。

私は、この出来事を見ながら、私達の人生も同じだなと思いました。

 私たちの人生って、不安定なものの上を進んでいる船のようなものだと思います。いつ何時、何が起こるかわからない人生です。だから、貯蓄したり、保険を掛けたりするのではないでしょうか。また、安定した職業に就くことを望んだり、そのために受験戦争を戦ったのも私たちではないでしょうか。
 そういった安心を得て、何も問題なく人生を歩んでいるような時に、時として、思いがけないことが起こるのです。船が翻弄されるかのようなことが起こるのです。そして、いっきに弟子達と同じように、どうなるのかと不安でいっぱいになるのです。それが私たちではないでしょうか。
 それは、嵐に見舞われたり、逆風に見舞われたりしたのと似ています。また、何をやっても上手くいかないのは、漕ぎつかれた今日の弟子達の姿と似ていると思います。
 私たちはそういう時に、イエスさまのこの言葉

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 この言葉を聞く必要があるのだと思います。

 私達の人生は、ほんとに、不安定なものの上に船を浮かべ進めているようなものです。でも、私たちはイエスさまを知っています。信じています。それを意識していないようで、実は見えない大きな支えになっているのです。

旧約聖書にこうあります
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 主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。わたしを逃れさせ、わたしに勝利を与え、不法から救ってくださる方。         (サムエル記下22章2~3節)
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 これこそ、神さまが私たちに与えようとされている、神への信頼の言葉です。
 人は無力です。時に神さまはは、安定した所から、不安定な所に追い込まれることがあります。しかし、それは、神さまという安定した土台を信頼して歩む力を与えるためなのです。
 さて、この聖書箇所では、もう一つ、興味深い出来事が記されています。それは、ペトロの行動(信仰)です。
 ペトロは逆風で波もうねるガリラヤ湖の上で、イエスさまの方へ自分も歩いて行きたいと願いました。恐らく、この時、ペトロはイエスさまのお姿だけが見えていたのだと思います。つまり、信仰が最も大きな力となっていた状態にあったのだと思います。「出来る」と思えたのだと思います。
 イエスさまもまた、ペトロに「こちらに来なさい」と言ってペトロを迎えようとします。

 ペトロは初めは恐る恐るだったと思います。しかし、霊的に最高潮になっていたペトロはガリラヤ湖の上を歩けたんです。これは、ペトロにとっても〔すごい体験〕になったと思います。しかし、ペトロは、現実の恐怖に目が行ってしまったんです。そして、ペトロは沈んでしまいました。正確には、沈みかけたのでした…。

 私はペトロの信仰はすごいと思います。でも、ペトロでも沈みかけました。これは、信仰が足らなかったのではなく、これが私たち人間の限界なのです。私たちの力では神の手を取ることができないのです。
 私たちの信仰はやはり、弱いです。ペトロは『強い風に気がついて怖くなった』とあります。そして、『沈みかけた』とあります。
 私たちの信仰も、信仰を持ってはいても、現実の出来事に恐れを感じてしまうものです。でも、それが私たちなんです。

 しかし、今日の箇所は何を教えているのかと言いますと、その弱さをイエスさまが補ってくださる。イエスさまの延ばされた手によって、完成するということです。

 沈みかけるペトロ、手を差し伸べて、引き揚げるイエスさま。これが、私たちと神さまとの関係なのです。

 私達は不安定な人生の上に、船を浮かべて進んでいるようなものです。私たちは、その船に過信せず、イエスさまに対する信仰(最後には沈む私を引き上げてくださるという信仰)を深める必要があるのです。

 今日、聖書を読みながら、イエスさまという堅固な土台を人生の土台として欲しいのです。イエスさまは水の上を歩いたから凄いのではありません。風が吹き、波がうねる水の上でも立っておられるのが凄いのです。
 「イエスさまこそ、私たちの救い主、安定した土台である」その信仰を持ってください。それは、私たちに平安を与え、力を与え、未来を見る力を与えます。
 イエスさまはこうおっしゃっています。

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「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:24~27)
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 行う人とは、神を信じ、愛と戒めに生きる人のことを言います。

 私たちの人生の土台は神の慈しみ、憐れみです。その土台の上に私たちは生かされています。そのことを主は教えようとされています。そして、その土台がいかに堅固な土台であるかを、色々な訓練(試練)を通して鍛えてくださるのです。

「本当に、あなたは神の子です」

 私たちは、必ず、この告白に至ります。