宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 

 創世記 1章  1~19節
 ヨハネによる福音書 3章  14~21節
 

 「霊の実と肉の業」


 おはようございます。
 教会の屋根と壁の塗装工事が無事終わりました。水曜日に足場が取り除かれたのですが、凛とした教会が現れてきた時には感動しました。
 工事が少し長引きましたが、イースター(復活祭)の後に工事が始まって、ペンテコステ(聖霊降臨祭)の時にお披露目できたというのは、どこか神さまの導き、また、ご配慮を感じます。また、「神さまが教会を新しくするようにと私たちの心を動かしてくださった」と思えて嬉しく思います。

 さて、今日は弟子達の上に聖霊が降った日の出来事を覚える日です。この日は、ユダヤ教では「五旬祭(七週の祭り)」というとても大事なお祭りの日でしたので、多くのユダヤ人が神殿に詣でていました。その時、イエスさまのお弟子さん達に聖霊が降り、弟子たちは、色々な国の言葉で話すようになりました。そして、神殿の境内で彼らが色々な国の言葉で「神さまの偉大な御業」について語りだしたので、周りに人たちが驚いたのでした。人々は彼らを見て、初めは怪しみましたが、ペトロの説得と、イエス・キリストについての証しを聞いて、彼らは心打たれ、多くの人が洗礼を受けました。聖書を読むと、この時、三千人程が彼らの仲間に加えられたと書かれていますので、ペンテコステは、キリスト教会では「キリストを信じる信徒の群れ(つまり教会)の誕生日」とも言われています。

 神さまは、三位一体の神です。父なる神、子なる神、聖霊なる神、このそれぞれの神が一つの神として存在しておられる・・・。これが私たちの告白しているところです。
 父なる神はこの地上を(宇宙をそして万物を)治めておられる絶対的なお方です。御子イエス・キリストは、私たちと同じ人となられた神です。では聖霊なる神はどのようなお方なのでしょうか・・・。このペンテコステの日に突然現れてきた神でしょうか。そうではありません。

 イエス・キリストは、ベツレヘムでお生まれになりました。そして、人々と共に生き、大切なこと(また真理)を教え、奇跡を起こし、最後に救いのため十字架で死んでくださいました。多くの人がイエスさまをその目で見ることができ、また、奇跡を体験しました。しかし、全ての人がイエスさまを見たわけではありません。人でもあるイエスさまは「場所(空間)」において制限がありましたので、〔全ての人〕が〔生ける神〕と交わることはできませんでした。同じく、「時」にも制限がありましたので、昔の人、そして、今の私たちもイエスさまと直接まみえることができません。
 しかし、聖霊なる神さまはそうではありません。聖霊なる神さまは、「時」と「場所」において制限がなく、旧約聖書の時代からずっと人々と関わって来られました。

 何より、聖霊なる神さまは“天地創造”の時から、ずっと私たちと関わりを持ち、この世界で業を成し遂げられてきた神さまなのです。

 そのことは創世記を見てもわかります。創世記1章1節から3節にこう書かれています。

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 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。                    (創世記1章1~3節)
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 天の父は「天地の造り主」であると、使徒信条で告白していますが、聖書は御子イエス・キリストもまた被造物を造られた神であると教えています。そしてさらに、今、読みました創世記1章2節に、創造の初めに「神の霊が水の面を動いていた」と書いてあるとおり、聖霊なる神さまも天地創造の時にいらっしゃった(そして関与されていた)神だと分かるのです。つまり、三位一体の神によってこの世界の全てのもの(そして生きるもの全て)が創造されていったんですね。

 もう一度言いますと、聖霊なる神は、天地創造の時からこの世界で活動されている神、今も、御業をなされている神なのです。

 天地創造の後にも、預言者をたてその人たちに語るべき神の言葉(やビジョン)を与えたのも聖霊です。さらに、人々の心を整え、神に相応しい人へと変えるのも聖霊なる神さまの業でした。もっと言えば、メシアの到来を待つように人々に預言者を通して語られたのも聖霊ですし、イエス・キリストは“聖霊によって”処女マリアから生まれたのです。聖霊は、そのように天地創造から、今に至るまでずっと、御業をなす神さまで、そして、今の私たちにとって聖霊はどのようなことをしてくださっているのかと言いますと、

「人を再創造」する神さまとしてお働きになっているのです。
つまり“私たちの目を開き『イエス・キリストこそあなたの命なのです』”
と悟らせる神(信仰を与える神)であり命ある人とならせる神なのです

 ルターは小教理問答の使徒信条の項目(聖霊)でこう記しています。

「自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを私は信じます。けれども、聖霊は、福音をとおして私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちにきよめ、支えてくださいました。」


 信仰は私たちが自分の“何か”で獲得したものではないんですね。私たちの信仰は神が私たちの内側から起こさせてくだっているものです。ですので、今日も、私たちの信仰は私たちを生かす力となっています。例えば、今日の聖書箇所(使徒言行録2章38・39節)でパウロはこう言っています。

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「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」       (使徒2章38~39節)
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 ここで、「洗礼を受け、罪を赦して頂きなさい」とありますが、「洗礼を受け」と言われれば、どこか、能動的な私たちの行為が中心なように感じます、しかし実際は「洗礼を受け」という単語は能動態ではもちろんなく、受動態なんですね(当たり前といえば当たり前ですが)。つまり、「罪の赦しを得る洗礼を施していただきなさい」と神さまの力に頼りなさいと言うのが実際の意味なんですね。

 聖霊なる神は無から有を創造する神であり、闇から光を創造する神です。また、無から生命を創造する神は、一度、罪によって死に定められた私たちを土に返し、そこからまた、水と霊とによって再創造する神でもあるのです。

 もちろん、先週お話しいたしましたが、私たちの状態は、イエスさまの命が私たちの内で生きていますので、すでに永遠の命の状態ではあります。この私たちを終わりの時には完全に再創造してくださる・・・それが神の業であるわけです。それはパウロが、『だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。』(2コリント4:16)と言っている通りです。

 私たちの内にすみ、私たちを日々新しくしてくださる神さまは、罪を教え、また、キリストによる義を悟らせます。そして、永遠の命に与らせてくださいます。それが聖霊の御業です。
 さらに、私たちが、神のご性質である“愛”に目覚め(“愛の素晴らしさに目覚め”という方が良いかも知れませんが)、その“愛に生きる(愛を選択して生きる)”ように変えて行ってくださいます。そのような変化を私たちに内に起こしてくださいます。

もちろん、そこで大事なのは、
私たちがその生き方を望み、意識することです。

 イエスさまはこうおっしゃっています。
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『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む』
                      (ヨハネ14章23節)。
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 愛に生きる時、御霊も豊かに働きます。そうすると、私たちは〔御霊に満たされる〕という経験をするのです。

 少し前のことになりますが、私が本棚を整理していましたら、久しぶりに、ある牧師先生がお書きになった本を見つけました(以前にもご紹介させて頂いた本です)。その本は牧師先生が書かれた「詩」を集めた本なのですが、その中の一つの詩を紹介したいと思います。

 その詩を読んで、私自身、〔聖霊なる神と共に生きる私たちにとって(忘れてはならない)大事なことを教えているな〕と思いました。このような詩です。

 天の父さま、どんな不幸を吸っても、はく息は感謝でありますように、すべては恵みの呼吸ですから

「どんな不幸を吸っても、はく息は感謝でありますように・・・」

 私はこの詩を読んで自分を顧みました。嫌なことがあれば、出てくる言葉、思いもなんか良くないものとなります。機嫌が悪い時や、良いことが続かない、悪いことばかり続くと、言葉も態度もすさんできますよね。
 しかしそこで「どんな不幸を吸っても、はく息は感謝でありますように・・・」そう思う生き方って、どこか、聖書が教える大切な生き方ではないかと私は思います。ペトロも手紙の中で「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(1ペトロ3:9)と教えています。このことにアーメンと思える人こそ、肉の人ではなく、霊の人だと思います。そして、イエス・キリストこそ、まさにそのような生き方をなさった方だと思います。

「どんな不幸を吸っても、はく息は感謝でありますように・・・」

 私はこの言葉を意識して数週間歩んでみて、気づかされました。はく息って意識することありませんが、ほんと意識せず、愛のない言葉を使っているんですね。改めて反省させられました。意識して良い言葉を使おう、良い行いをしようって思うのですが、後で、「あっ」って気づかされます。本当に肉の私は神に喜ばれないことばかりしてしまうんですね。

 天の父さま、どんな不幸を吸っても、はく息は感謝でありますように、すべては恵みの呼吸ですから

「すべては恵みの呼吸ですから・・・」すべてを恵みとして捉える。そこから始まるのかな・・・と私は思いました。

 聖霊なる神さまは、天地の創造の時から人を造りかえる神さまであり、そして、今日も、私たちを造りかえる神さまです。

 わたしは、この詩を読んだ時に、ふと、〔野の花〕が浮かんできたんです。花って美しいじゃないですか。花によっては良い香りがします。どんなところに咲いていても綺麗に咲いていますよね。場所によって、不服そうに咲いている花ってないじゃないですか?虫が飛んでこない、みんなが見て喜んでくれない、〔横で咲いている花の方が綺麗だ〕といって、いい香りがしなくなる花もありません。
 水や栄養がなければ、しおれたりはしますが、そこに不服そうな姿はありません。また、踏まれてもその色合いというのは変化しませんよね。当たり前っていったらそうなのかも知れませんが、でも、花の美しさは、無垢な美しさではないでしょうか。わたしは、「花のようでありたいなって」思いました。

 どんな不幸を吸っても、はく息は感謝でありますように・・・そのような人になりたいなと私は思ったのですが、その時に今度は(具体的なこととして)、聖書のみ言葉が浮かんできたんです。それが、本日お読みした聖書箇所のパウロの手紙〔ガラテヤの信徒への手紙5章19~26節〕なんです。

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 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
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 パウロが言っている肉の思いというのは、私たちの内側から出てくる悪いものですよね。敵意もそう、争いも、ねたみも、怒りもすべて、私たちから当然のように出てくる悪い「はく息」ですよね。
 一方でパウロは、霊に生きる人はそうではなくて、霊の結ぶ実を教えるんですよね。「霊の結ぶ実は愛であり喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とありますが、喜びの言葉、平和な心、寛容な言葉、親切な言葉、誠実な言葉、柔和な言葉・・・そのような言葉や思いが「はく息」のように出てくる人になりたいですよね。

 わたしはそういう生き方をする人こそ(しようと願う人こそ)、聖霊に満たされる思いになるのだと思います。
 最後に、イエスさまが「霊の結ぶ実」について教えてくださったみ言葉をお読みして終わります。

 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
                         (ヨハネ15章5節)

 イエスさまは見えませんが〔聖霊はいつもイエスさまを見させてくださいます〕。そのイエスさまに繋がる時、イエスさまの愛と力が私たちの内に力となって、霊の実を結ばせるようになるのです。