宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 

ヨハネ 17章 1~26節
 

 「永遠の神・不変の神」


 おはようございます。私たちは日々、神様から沢山の恵みを頂いてます。“今日”という日も神さまからの贈り物なんですよね。
 私たちが今日生きていることは決して当然のこと(必然のこと)ではありません。聖書に『父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる』とあるように、神さまの変わらぬ愛があって、今日、私たちは恵みの中で生きているのです。

 〔死ぬかも知れない〕ような大きな病気をした人の多くは、回復した後「生きていることの素晴らしさ」(つまり命あることが当然ではないということ)に気づくそうです。そして“毎日”が貴重な日と思えるようになるそうです。羨ましいと思います。

 さて、古い時代から人類は「永遠の命」を追い求めてきました。人は時間とお金を費やして「永遠の命」を追い求めてきました。永遠の命に至る「薬」、「薬草」、「果実」、「種」などを探し求めてきたのが人類です。「生き血」をも求めたと言われておりますので、〔人の命を犠牲にしてでも〕自分の命を永らえたいと思う〔人の命に対する切望〕は強いものだと思います。

 私自身、小さい頃に死ぬのが怖くて、それがきっかけで神さまを求めるようになりました。今は信仰を持って喜びを感じているのですが、50を超えた今は、若い頃は見向きもしなかった“サプリメント”に魅力を感じるようになってきています (;^_^A 。
 
 確かに医学(特に遺伝子技術)が進んできて、ずっと人類が求めてきた「永遠の命」を今人類は手に入れようとしているのですが、良く考えると、それは「不老不死」なんです。「不老不死」が実現すると聞きますと、嬉しくなりますが、それを手に入れると、幸せになるのかと言えば、恐らくそうではないと思います。「不老不死」を手に入れても「死ぬ」という恐怖からは逃れることはできません。え、と思うかも知れませんが、事故や戦争などで死ねば、その人を蘇らせることはできないからです。そうなると何が起こるのか、永遠に生きること(つまり不老不死)が実現したら、今にもまして「命を奪われる」ことに対する恐怖が強まるのです。

 こうも言えると思います。誰もが「不老不死」を手に入れたとすれば、悪い人が永遠に生き続けることになりますし、弱い人たちは永遠に〔食べるもののために〕働かされることにもなります。また、愛する人を失えば悲しみが永遠に消えないのです・・・。

つまり「不老不死」を手にい入れても人は幸せにはならないし
問題は解決しないのです。

 神さまが与えようとしてくださっている「永遠の命」は「不老不死」ではありません。なぜなら、イエスさまは多くの人の病を癒し、死んだ人、死んで数日たった人まで蘇らされました。つまり人類は、今から約2000年前、イエスさまを通して人が「不老不死」の姿になっているのを見ているのです。神さまが私たちに与えようとしてくださっているのは「不老不死」ではないのです。

  神さまが私たちに与えようとされている「永遠の命」とは何か。それは、今日の聖書箇所にはっきりと書かれています。

 ヨハネによる福音書17章2,3節をご覧ください。
 こう書かれています。

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 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)
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 聖書は、「永遠の命」とはイエス・キリストを知ることだと言います。間違えないで欲しいのは、「永遠の命」とは、イエスさまを知ること(信じるこ)とによって与えられる、死後も生き続ける命のことではありません。死んだ後の霊魂の行先についてのことではありません。神さまは、私たちが「信じるか・信じないか」を見て「信じたら永遠の命をあげましょう」、「信じなければ永遠の命をあげません」ということをおっしゃっているのではありません。神さまは「私たちに永遠の命を与えよう」とお考えになっておられるのです。だから、イエスさまを世に遣わされたのです。そのイエスさまを知った時に、内に起こる変化(イエスさまと一つとなることによって起こる変化)、聖霊が私たちの内に住むことによって起こる変化。それが「永遠の命」です。

「永遠の命」は未来の話しではなく、
永遠の神・不変の神との関係が回復した状態のこと言います。

 ヨハネによる福音書4章を見ますと、イエスさまは、井戸の横で一人の女性と出会われましたよね。その女性は、暑いさなか、井戸の水を汲みに来ていました。生きるために彼女は汲みに来なくてはなりませんでした。その女性にイエスさまは何とおっしゃったのかと言いますと、

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 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13~14)
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 そうおっしゃったのです。この女性は、生きるために苦しい日々を過ごしていました(人の視線に苦しみ暑い日中に水を汲んでいました)。ここでイエスさまが「私を信じるものは死んだあとに永遠に生きますよ」という救いを伝えたとしてもこの女性にとっては何の喜びにもなりませんよね。イエスさまは「永遠に命に至る水がわき出る」とおっしゃっておられますよね。イエスさまは、ご自身に霊的なものを見出し、その永遠性を欲し、くださいと願う者には、今その変化が生じる、そしてその状態が永遠に続くとおっしゃっておられるのです。つまり“今から始まる変化”を教えておられます。

 ここまでのことをまとめますと、「永遠の命」は「不老不死」のことではありません。「魂の永続性」のことでもありません。それは、神と一つとなるという出来事(状態)です。信じた時に回復するものなのです。
 そして、「永遠の命」を神は与えようと思って御子を遣わした神の無償の贈り物であるということです。何より神は“今”「永遠の命」の状態に生きるということを願っておられます。

 さえ、最後に、「永遠の命」と「愛」についてお話ししたいと思います。
 わたしは幼い時の自分のことを考えて思ったのですが、私たちは「死ぬ存在」だからこそ「永遠の命」に目を向けるのだと思います。誰もが等しく死ぬことが定められているからこそ、誰もが「永遠」について考えるのだと思います。誰もが老いていくので、永遠で不変の神の存在を求めるのだと思います。そして、「死ぬ存在」だからこそ命を尊く感じることがきるのだと思います。そのために神さまは「不老不死」を望まれないのだと思います。

 教会では、信徒の方の霊性を高めるために、礼拝に必ず出席しましょう、神に正しくお捧げ(献金)しましょう、日々お祈りをしましょう、愛に生きるように努めましょうと言います。礼拝に必ず出席する人、神に正しくお捧げをする人、日々お祈りする人、愛に生きる人は必ず祝福された人生を歩みます。これは聖書の約束です。詩篇にこうあります。

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 いかに幸いなことか神に逆らう者の計らいに従って歩まず罪ある者の道にとどまらず傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
                         (詩篇1:1~3)
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 皆さまご経験あるかと思いますが、礼拝に出席する以上に、献金ってハードル高いですよね。なぜなら、お金には限りがあるからです。ですので、献金は神さまに対する「信頼」がないとできないんです。
 イエスさまの前に「永遠の命を得るために(持つために)何をしたら良いでしょうか?」と尋ねてきた裕福な青年がいましたよね。彼は、お金が減ることで心配になるということのない人だったと思います。律法を大切に守ってきた人ですので、10分の1を捧げることは出来たと思います。でも、イエスさまがおっしゃったのは、全財産を貧しい人に施し、私についてきなさいとおっしゃいました。もちろん、彼はできませんでした。尽きぬ富を持っている人の恐怖は、全てを失うことなんです。全てを捧げるには、本当の神への信頼がないとできないことなのです。

 これを「命」に当てはめれば、愛について見えてきます。命には限りがあります。だからこそ、人のために、自分の人生を犠牲する生き方は、愛がないとできないのです。では、人が「不老不死」を手に入れたとすればどうでしょうか。その時こそ、不老不死を捨てる(命を犠牲にする)のは、本当の愛がないとできないのがわかるかと思います。
 イエスさまはこうおっしゃいました。

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 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:12~3)
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 命に限りあるからこそ、その命を犠牲にすること、また、捨てるところに大きな愛があります。まして、永遠の命を捨てるとなれば、そこには本当に大きな愛が働くのです。それが父なる神とイエス・キリストでした。

 父なる神さまは、ご自身の愛する御子(永遠の命もつ独り子イエス・キリスト)を世に与えようとご計画されました。「永遠の命」を持つイエスさまにその命を捨てるようご計画されたのです。ここに大きな愛があります。また、イエスさまご自身は父なる神を愛し、そのみ旨に従い、ご自身の永遠の命を私たちのために差し出してくださいました。ここに本当に大きな愛があります。

 私たちはイエスさまによって、神の愛を知っただけでなく、その愛が受け取ったのです。それだけではなくて、神の命が私たちの中で命となったのです。神の命が私たちに与えられたのです。
 次週はペンテコステで、聖霊が弟子達のところに降ってきた時の話を見ます。その弟子たちから、父と子と聖霊の名による洗礼が広がっていくのですが、その洗礼も、未来における永遠の命の約束ではなくて、聖霊がその人の内に住むということの始まりを言うんです。

 私たちが〔老いて土に返るからこそ〕、「永遠の命」とは“どういうもので”、“どこにあるのか”を求めるのです。また、本当の愛とは何かを知ることができるのです。そして、神の命が宿るようになると、今度は愛を実践する人へと変えられて行くのです。

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 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。(ヨハネ12:25)
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 イエスキリストを知り、イエスキリストの贖いの愛を受け取り、神と一つとなった人(神の命を受け取った人)は、永遠の命に生きる人と“今”なります。

 「永遠の命」とは、永遠の神と、変わらぬ愛の持ち主である神と一つとなっている状態なんです。「永遠の命」は、「不老不死」でも、「死んだ後の世界(魂の永続性)」という時間の話しでもありません。今、神さまと一つとなっていること、それが、「永遠の命」なんです。
 私たちは、真の永遠の命を持つ神がお捨てになった命によって生きるものとされているのです。