宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 

 詩篇 31編  1~7、15~17節
 ヨハネ 14章  1~14節
 

 「あなたにとっての私」


 おはようございます。
 4月の半ばごろから教会の屋根と壁の塗装をしています。恐らく、今週中には終わるかと思います。わたしは、結構日曜大工が好きでして、出来は素人ですが何でもしたい方です。しかし、塗装に関しては本当の素人で、知識も経験もありません。
 ネットで塗装について調べてみますと結構色々な情報が書かれています。情報と言っても良い情報ではなく『こんな施工業者に注意』という情報です。中でも〔塗装を依頼した人〕よりは、〔塗装業者の方自身〕が『こんな施工業者に注意』と言って悪い施工の仕方について情報を提供しているのが多いんですよね。『こんな施工業者がいます。でも私たちは違います』と言って自分達の良さをPR(ピーアール)しているのですが、そうやってお互いが書きあっているというのであれば、結局のところ『どの業者も同じ(で信用できない)』ということになるのだと思います。
 つまり、塗装工事は不安がいっぱいということです。

 先月の終わりの頃のことですが、教会の屋根ではなくて、壁の塗装の「下塗り」をしておられました。玄関から会堂に入る時に、何気なく下塗りのペンキが入った缶を見たのですが、その時に、「ん?」と思ったんですね。自分でも何に気づいているのか分からないんですが「ん?」って思いました。
 気になって見積書を見てみると、やはり、予定のものと違うんです。値引きしてもらったからかな?と思ったのですが、値引き後の見積書を見ても同じ表記でした。現場に塗装屋さんがいらっしゃらなかったので、元受けの方に連絡したところ「変更することは塗装屋さんから事前に聞いております」という返事がきました。つまり、“契約と照らし合わせて問題ないと判断していますので安心してください”。ということです。そして、「塗装屋さんから説明させます」というお返事が返ってきました。
 しばらくして、実際に塗装屋さんが来て、なぜ、下地のペンキを変えたのかを説明してくださいました。どのような理由なのかは長くなるので省きますが、その時、塗装屋さんが私にこうおっしゃったんです。

「わからないように安いものを使うようなことは私は絶対しません。私を信じてください」

 その場しのぎの言い訳って何となくわかります。しかし、その方の話し方から「私を信じて欲しい」という思いが伝わって来ました。また、作業の仕方についてのお話しを聞いておりますと、私たちの教会を良いように仕上げようと作業してくださっているのが分かりました。

 私は、その方の言葉を聞いて任せることにしたのですが、任せようと思えた後に、気持ちが軽くなったんですね。
 そのような事があって私は一つ気づいたことがあるのですが、それは

本当に信じれた時には、不安は無くなり心は平安になるということです。

 実は、「信じている」ことと、「心が平安になっている」ことはイコールではないんですよね。お医者さんに対してもそうだと思います。若いお医者さんが担当されるとちょっと不安になるときありますよね。「信じてはいても不安は拭えていない状態」ってありませんか。一方で、年配で言葉に重みのある先生が担当されるとどこか安心しますよね。信じてはいても“不安な状態が解消していない”ということあるんです。

人は信頼すればするほど心は平安になっていくものです。

 このことは、信仰においても同じです。神さまを信じていても、人生に不安を感じる時ってあると思います。もしかしたら、そういう時の方が多いのかも知れません。
 しかし、実際には信仰は委ねる力となり平安へと変わっていくんです。神さまに対する信仰(信頼)は、未来を委ねる力へと変わり、心に平安というものを作り出していくのです。
 もちろん、必要なのは神さまを第一として生きる。神さまの御業を意識する毎日を過ごすということが必要になってきます。

 私たちの心は騒ぎます。しかし、神さまは私たちの心が平安になることを願っておられます。信仰を与える神さまは、心に平安を与える神さまでもあるのです。

 詩篇に次のような言葉があります。
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 あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。
                         (詩篇55編23節)
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 私たちには弱さがあって、見えない未来を委ねきるということが難しいんですね。しかし、聖書は「未来を神さまに委ねるように」教えます。

 最初に塗装屋さんのお話ししましたが、その方は「私の疑う心」を払拭しようと「わたしを信じて欲しい」と真剣におっしゃいました。このことは、誰だって同じだと思います。疑いからくる不安はその人のためにも払拭したくなるものです。

 父なる神さまが御子を遣わされた(神が人となられた)という事実も同じではないかと思います。イエスさまが人となられたのは私たちを罪から救うためではありますが、別の理由として、直接ご自身をお示しになることによって、私たちの心に信じる思いを強く持たせようとされたのではないかと私は思います。

 実は、イエスさまのご生涯を見てもそのことがわかります。イエスさまは、公に宣教し始められてからは、沢山の奇跡をおこなわれました。
 目の見えない人の目を見えるようにし、口のきけない人をしゃべれるようにし、また。耳の聞こえない人の耳を聞こえるようになさいました。歩けない人を歩けるようにし、また、悪霊を追い出し、死人を蘇らせ、重い病の人を治されました。
 これは、ご自身の凄さをPRしようとしているのではなくて、この慈しみと憐れみに満ちた姿があなたと共にいる神の姿です。ということをお示しになっているのです。
 このことは、イエスさまが起こされた数々の奇跡からもわかります。イエスさまはご自分のためには神の力を用いられませんでした。ご自分のために奇跡を起こしても人はイエスさまの凄さ(力)を認めると思います。でも、イエスさまはなさらなかった。それはなぜか・・・

 それはイエスさまは、「わたし(イエス)の凄さ」ではなく、「あなたにとってわたしは誰なのか」ということを示そうとされたからです。

 塗装屋さんの話しをしましたが、その方も、自分の正直さを私に伝えようとしたというよりは、この教会のために一生懸命仕事をしている自分のことを分かって欲しかったのだと思います。

 イエスさまは「あなたのために来た(人となった)」ということを信じて欲しいんです。それは、私たちがこの人生において神に委ね平安を得るためでもあります。

 イエスさまは多くの人の病をいやされましたが、恐らく、癒された人たちは癒されただけではなく、イエスさまの愛に触れることができたと思います。そして、イエスさまが神であることが分かった時には、喜びに加えて神を見たということからくる平安で満たされたと私は思います。

 私たちは、直接見たわけではありませんが、こうして十字架を見ながら、また、聖書を通してイエスさまのお姿を見ながら、同じように信頼から生じる平安を頂いていくのだと思います。

 イエスさまは色々と奇跡を行われたのですが、他にも「私たちにとってイエスさまは誰であるのか」を教えておられます。それが、『わたしは何々である』という表現です。

 今日の聖書箇所でイエスさまは「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃっています。聖書を読みますと(特にヨハネによる福音書を読みますと)、他にもイエスさまは、『わたしは何々である』ということを何度かおっしゃっていますよね。

 『わたしは光である』『わたしは天から降ってきたパンである』『わたしはぶどうの木であなたがたはその枝である』『わたしは良い羊飼いである』『。わたしは羊の門である』。
 イエスさまは、パンじゃないし、門じゃないし、ぶどうの木でもありません。共通しているのは、「あなたにとってわたしは誰なのか」ということを伝えておられることです。「わたしはあなたにとって光であり、命である」。「わたしはあなたにとって羊飼いのように守り、導き、命を与える者である」そのようなことを分からせようとしておられるのです。大事なのは「あなたにとってわたしは・・・」という点です。

 実際に、イエスさまを受け入れ信じた人は闇ではなく光の中を歩むようになりますし、イエスさまの言葉を通して私たちは色々なことが分かるように(見えるように)なります。また、イエスさまを信じる人は、不思議なことを体験し飢え渇くことからも守れます。また、イエスさまに繋がり、み言葉を実践する人は豊かな実を結ぶようになっていきます。イエスさまを信じ受け入れる人は、生き生きとした生き方へと変えられて行くのです。

 イエスさまは「ご自身の凄さ」ではなく、「あなたにとってわたしは誰なのか」ということを教えようとしておられます。それは、今日の聖書箇所にある「わたしは道であり、真理であり、命である」というイエス様の言葉も同じです。

 私はこの「道」「命」「真理」をひとくくりでおっしゃった真意って何かなぁって思いました。もちろん、神学的な答えを見つけることはできませんでしたが、わたしはこうかなぁって思ったことがあります。それは「道」「命」「真理」って“聖書そのもの”だということです。

 聖書は、わたしが歩むべき道を示します。それは永遠の命へと通ずる道です。また、聖書はゆがめられた世の真理とは違い、聖書の真理は神が人に与える真の真理です。また、聖書は生き生きとした生き方に導く命の書でもあるわけです。

 イエスさまが「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃる時、それは、イエスさまこそ“聖書のみ言葉が人となって私たちの前に現れた方”というです。見方を変えるならば、あなたが慣れ親しんでいる聖書の言葉・・・それが私自身です。そうおっしゃっているようなものです。さらには“聖書を通して語って来たのは私である”ということをおっしゃっているのと同じだと思います。

 聖書は、イエスさまがどんなにすごい人なのかを書きたいのではありません。また、抽象的に救い主であることを説明していたいのではありません。聖書はイエスさまが「あなたにとって誰なのか」を教えています。
 つまり、わたしにとっての命のパンであり、良い羊飼いであり、光であり、わたしが豊かに実を結ばせるための接ぎ木の台木となってくださる方なんです。また、命の水を与える方であり、青草の原に憩わせてくださる方なのです。

 イエスさまは誰なのか、イエスさまは「わたしにとって誰なのか」これはとても大切な問いかけです。十字架を見つめながら、また、聖書を通して語られるイエスさまのことばを聞きながら、問いかけてください。そして、心を開いてイエスさまの言葉を受け入れて欲しいと思います。そうしていく時に、委ねる心、安らぐ心も同時に得られるようになっていきます。

 イエスさまの願いは、私たちがイエスさまを信頼することです。イエスさまがわたしにとって誰なのかがわかることです。
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14:1)。これは今日お読みした冒頭のみ言葉ですが、これは、聖書全体と通して語られている真理です。
 どうでしょうか、「この先どうなるのか・・・」そのような不安ありませんか。わたしもありますし、日々生じてきます。でも、イエスさまはおっしゃいます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」「わたしはあなたにとってどのような存在なのかを知りなさい」そうおっしゃるイエスさまの語り掛けを聞いてください。神さまを信じ、不安な思いを主に委ねてみてください。

お祈りします・・・


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 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。わたしは空しい偶像に頼る者を憎み、主に、信頼します。慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり、わたしの魂の悩みを知ってくださいました。わたしを敵の手に渡すことなくわたしの足を広い所に立たせてくださいました。
(詩篇31編6~9節)
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