宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 

  ヨハネによる福音書 20章  19~31節
 

 「主は生きておられる」


 「わたしは主を見ました」これは、復活されたイエスさまと出会ったマグダラのマリアが弟子達に言った言葉です。弟子たちは墓が空であったという事実を見て(あるいは聞いて)知っていましたが、イエスさまが復活された(主は生きておられる:He lives.)とは思っていなかったようです。
 「わたしは主を見ました(完了形:今もその影響を受けている時に使う)」これは、イエスさまと最初に出会ったマグダラのマリアが弟子達に言った言葉なのですが、私は、彼女のこの言葉に、驚き、喜び、また、興奮を感じます。

 私は信仰を持って長く歩んでいます。確かに、神さまがいらっしゃると思われるような出来事をいくつか経験してきてはいますが、それでも、〔一目でいいから、神さまの姿を見たい〕、〔イエスさまの姿を見てみたい〕という願いはいつもあります。「わたしは主を見ました」という言葉を私も言ってみたいです。もし、イエスさまを見たならば、恐らく、目が輝いて、興奮して人に伝えるでしょうね。それだけではなく、イエスさまを一目でも見たら、私の信仰は大きく変わるでしょうし、生き方も、未来に対する希望も今とは全然違うと思います。
 神さまの姿を一目でいいから見たい。みなさまもそのように思うことないでしょうか。

 マグダラのマリアの「わたしは主を見ました」という言葉を聞いた弟子たちは半信半疑だったようです。それだけではなく、ユダヤ人たちを恐れて鍵をかけて家に閉じこもっていたと書かれています。先生であるイエスさまを失って、途方に暮れていたのもありますし、ユダヤ人達が自分たちを捕らえに来るのではないかと思っていました。
 そうして閉じこもっていた弟子達の所にイエスさまが現れてくださいました。傷跡を見せて、復活した事実が真実であったことを示されたのでした。
 イエスさまは、彼らが〔神さまの力を喜び〕し、そして、〔希望と勇気を持つ〕ことができるようにしてくださいました。

 さて、イエスさまは弟子達の前に現れたのですが、その時、その場所にいなかった一人の弟子がいました。トマスという弟子です。トマスは『私たちは主を見た』という弟子たちの言葉を聞いて信じませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言っています。トマスは〔疑い深い弟子〕として有名ですが、良く考えると、他の弟子達も、マリアの「わたしは主を見ました」という言葉を聞いて信じなかったのですから、トマスも同じように思ってもおかしくないと思います。
 トマスが言った〔見て、傷跡に触れたら信じる〕というのも、もしかしたら、トマスが「幻を見たのでは?」とか「勘違いじゃないか?」と言った時に「いやいや、俺たちは十字架の傷跡を見たんだ」と弟子たちが言ったからかも知れません。それを聞いてトマスが「じゃあ、わたしは傷跡に触ったら信じる」と言い返したのではないかと私は思います。

 そう言ったトマスのもとに、イエスさまは次の日曜日に現れてくださいました。イエスさまは、〔ご自身の傷跡を見せて、その指で確認してみなさい〕とトマスにおっしゃり、疑うトマスを信仰者トマスへと変えられたのでした。

 イエスさまは、トマスに傷跡に触れさせながらこう言っておられます。

『信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』

 日本語を見ますと、イエスさまは、「信じなさい」と命じておられません。「信じる者となりなさい」と命じておられます。「信じる」と言うのと「信じる者になる」というのは違いますよね。「信じる」というのは一時的なことで、「信じる者になる」とは状態の変化です。実際にギリシャ語では、〔ギノマイ:become,be〕という単語が現在形(命令法+現在形)で書かれています。ギノマイは「なる」「ある」という意味ですので、〔ずっと信じている状態であり続けよ〕という意味になります。

 平たく言いますと、トマスは「見たら信じる」「触れたら信じる」と言っていました。つまり、「見て触れたらイエスさまが復活した事実を認める」という感じです。でも、イエスさまが求めておられるのは、「主と共に歩む人になる」ことでした。

 初めに、弟子達に現れた時に、イエスさまは、彼らに息を吹きかけて『聖霊を受けなさい』とおっしゃっておられるんです。恐らく、イエスさまは信仰者となるように、彼らの目を開かれたのだと思います。同じように、トマスに関しては、傷跡に触れさせながら『信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』とおっしゃって、イエスさまはトマスに働きかけたのだと私は思います。信仰を与えようとされる神さまの姿です。
 「見て触れたらイエスさまが復活した事実を認める」と言っていたトマスですが、イエスさまに触れた時、「わたしの主、わたしの神」という最高の信仰告白をする人に“なってしまった”んですね。

 聖書に次のような言葉があります。

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 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(1コリント12:3)
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 ここでパウロは、「イエス・キリストはわたしの主である」と告白する人には聖霊が働いていると言っています。別の言い方をしますと、聖霊で満たされている人は、イエスを主、神と告白できると言っているのです。書かれていませんが、トマスにも神の息吹が吹き込まれたのだと私は思います。

 このことは私たちにも当てはまります。聖書を〔知識で知っている〕もしくは、〔理解している〕人と、こうして、神を礼拝する人とは違います。何が違うのかと言いますと、礼拝する人の内には聖霊が働いているのです。(聖霊に満たされている)という言い方もできるかも知れません。
 イエスさまは「信じている人(神と共に生きる人:礼拝する人)」になることを望んでおられます。確かに、洗礼を受けた方は、信じた人であり救いに与っています。しかし、神が願われている信仰者とは、「信じた人」ではなく「信仰者として歩んでいる人」です。なぜなら、そのような人こそ本当に力ある生き方が出来るからです。もちろん、辛さ(十字架)を背負って歩まなければならないこともあります。しかし、不思議な体験をするのも、「探し」、「求め」、「門を叩く」人です。

 私は今日の説教題を「主は生きておられる」とさせて頂いたのですが、「主は生きておられる」と言える信仰を持ってほしいからです。「主は生きておられる」という思いで生きている人こそ〔生きた信仰者〕なのです。そのような言葉を言える人は、〔生きている神さま〕と生きた交わりを持っている人です。
 
 「わたしは主を見た」と告げた婦人や弟子達は「主は生きておられる(He lives.)」という喜びがありました。神さまは、抽象的な方でもなく、遠く天から見守っているように思えるお方でもありませんでした。実際に、人となり、私たちの傍に来て、私たちと共に生きてくださいました。そして、最後には、私たちのために、ご自身が罪人となって、贖ってくださいました。弟子達にとって、旧約聖書を通して知っていた神が、今度は、イエス・キリストという方として現れ、目の前に現れた神、リアルな交わりを持ってくださる神となったのです。
 その意味では、「主は生きておられる」という信仰は、彼らにとって、信仰の土台となったでしょうし、普通とは違う、信仰者として力をもっていたと思います。

 「主は生きておられる」というのは旧約聖書にも使われています(40回ほど)。普通に考えると、〔神が生きている〕というのはおかしな表現だと思います。〔死んでいる神〕は神ではないからです。でも死んでいる神があります。それは、偶像の神です。詩篇に次のように書かれています

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 わたしたちではなく、主よ/わたしたちではなく/あなたの御名こそ、栄え輝きますように/あなたの慈しみとまことによって。なぜ国々は言うのか/「彼らの神はどこにいる」と。
 わたしたちの神は天にいまし/御旨のままにすべてを行われる。国々の偶像は金銀にすぎず/人間の手が造ったもの。口があっても話せず/目があっても見えない。耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。               (詩篇115編1~8節)
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 信仰者が「主は生きておられる」という言葉を使う時、それは、民を救うためにリアルに働きかける神さまのことを意味し、また、不思議な業を行う神さまへの信頼を込めて使います。また、畏れ多い神、不義なことをすると罰する神であるという畏怖の念を込めて使います。例えば、信仰者が何かを誓う時、もしくは、自分の言葉に嘘偽りがないということを示すために、「主は生きておられる」と言います。

 今日の聖書箇所でマグダラのマリアは「わたしは主を見ました」と弟子達に言ったと書かれていました。また、弟子たちは、トマスに「わたしたちは主を見た」と言っています。私は、実際には私たち自身も彼らの言葉を、自分に語り掛けているかのように読むと良いかと思います。弟子たちは、本当に復活したイエスさまを見たのです。そして、「主は生きておられますよ」というメッセージを伝えているのです。

 「主は生きておられる」この言葉は、神は私たちを見守り、私たちと共にいてくださる神であるという告白です。また、手を伸ばし私たちを救い出す神、また、悪いものを撃ち滅ぼす神、今も、そのようにこの世界に働か気かけている神ですという告白です。
 主は生きておられます。この神が、私たちと今日も関わりを持ってくださっています。そのことを忘れないで欲しいと思います。