宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 

 フィリピの信徒への手紙 2章 1~11節
 

 「人となられたキリスト」


 おはようございます。私たちは使徒信条を、今、学んでいます。先週は、父なる神さまのことを学びました。父なる神さまは何をしてくださったのかと言えば、それは、天地万物を造り、そして、私たち人間をお造りになられたということでしたよね。

 しかし、ここで一つ知って欲しいことがあります。神さまは〔天地万物〕をそして〔人間〕をお造りになったのですが、それを〔知る人〕をお造りになったということです。ご自身の作品を見る人、ご自身の作品を喜ぶ人をお造りになった、それが、私(あなた)であるわけです。

 私が存在し、意志がある。そして、私の命のルーツとなる存在を求める心がある。このことが、造り主である神さまが存在している証しなのです

 そして、使徒信条において〔父なる神さま〕に続き、〔子なる神さま〕について告白している私たちですが、〔子なる神であるイエス・キリスト〕が私たちに何を与えてくださったのかといいますと、

 それは「私は愛されている。私は存在していて良いんだ。存在は喜ばれているんだ」という思い(喜び)なんですね。

 どうですか?みなさまは、「私は存在していて良いんだ。存在は喜ばれているんだ」という思い(喜び・実感)ありますか?「わたしは愛されている」という思い(喜び・実感)はありますか?

 私は〔愛する人になりたい〕という憧れがありました。クリスチャンになれば〔愛する生き方〕を学べるとも思っていました。しかし、クリスチャンになって、自分のしていることと言えば、愛のない生き方ばかりになっていました。
 そのような私に神さまは牧師になる道をお定めになったのですが、牧師になり、〔聖書を学び、色々な方と接していく〕中で、それぞれの人の状況にふさわしい〔聖書箇所・み言葉・真理〕を探っていくとだんだん分かってきた(見えてきたと言った方がいいかも知れませんが)そのようなことがあるんですね。

 それは、〔人は愛されることを求めている〕ということなんです。〔愛されることを求めている〕とは、どいうことかと言いますと、〔自分の存在を尊いと実感したい〕という欲求を人は持っているということなんです。

 皆さまも〔大切な人〕、〔大切にしたい人〕、〔大切にしなければならない人〕、身近にいらっしゃるかと思います。その方を大切に思い、親切にしたり、一緒に過ごしたり、何かプレゼントしたりするかと思います。〔大切に思っている〕、〔大切にしたい〕、〔大切に思っていることを知って欲しい〕そのような思いがあって一生懸命になることありますが、大事なことは何かと言いますと、

 その相手が〔自分の存在を尊いと実感したい〕という心の中心にある願いを知ることなんですね。

 親切にしたり、一緒に過ごしたり、何かプレゼントしたりすることありますが、一番の方法って何かといいますと〔その人の存在を尊いと思ってあげる〕ことなんです。
 その中で最高なものは何かといいますと・・・

 それは〔その人の存在を尊いと思っている〕ことがわかる〔言葉(声かけ)〕をしてあげることなんです。

 私もそうなのですが、人は〔自分の存在を尊い、存在して喜ばれている〕と実感できると嬉しいです。
 例えば、プレゼントをもらっても、喜べる時とそうでない時ってないですか?どこに違いがあるのでしょうか。〔自分のことを思ってくださろうとしている〕ことを感じるプレゼントって嬉しいですよね。プレゼントは思い乗っける笹船のようなものだからです。

 人は〔自分の存在を尊いと実感したい〕という願いを心の奥底の方で持っています。親子や夫婦や兄弟、また、恋人同士や友人同士において、案外、大切にしあっている関係であっても、言葉選びを間違っています。その人の心もしくは魂と会話していない時って多いんですよね。その人の存在が大切なんですよって思っているだけではダメなんですよね。〔その人自身が「存在を大切に思ってもらえている」と実感できる〕言葉(単語)選びって大事なんです。そのような言葉をかけられるとき、人は安堵するし、平和なお顔になるんですね。
 是非ですね、自分にとって大切な人に〔大切な人なんですという思いを伝えたい時〕には、言葉(単語)に気を配って見ていただければと思います。

 話を使徒信条に戻しまして、

 天地万物を造り、愛の秩序で治める世界を父なる神さまはお造りになりました。そして、私(あなた)をお造りになったのが父なる神さまです。

 そして、イエス・キリストは、私たちに、「私は愛されている。私は存在していて良いんだ。存在は喜ばれているんだ」という思い(喜び)をくださいました。

 使徒信条ではこう告白しています。「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」これだけのことをイエスさまはしてくださいました。

 今、受難節(四旬節)で4月9日はイースターですよね。クリスマスには「主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ」という部分がクローズアップされる期間ですが、受難節の時期は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」という部分がクローズアップされる時期です。

 人間というのは、人が自分の思い通りに動くように権力を持ち始めると、「自分を神さまのように誤解」するようになっていきます。歴史を見ても、支配者になりたくて仕方のない人たちって沢山誕生してきました。人は高慢にも〔神のようになろう〕とします。しかし、人がなろうと欲する神さまの姿を捨てた方がいらっしゃいます。それが、イエス・キリストです。
 今日、読んでいただいた、フィリピの信徒への手紙2章6~8節にはこう書かれています。

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 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
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 神の独り子、イエス・キリストは何をなさったのかと言いますと、まず、神の身分をお捨てになられたのです。『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました』とあるとおりです。私たちを罪と死と悪魔から解放するためです。

 人間の中に、罪というものが入り込んできた時に、私たちは、罪の奴隷、悪魔の奴隷になってしまっていました。私たち人類は既に自分たちの力で、その罪の縄目を断ち切ることも、悪魔に反抗することも(言い方を変えれば悪魔の誘惑に負けないことも)できなくなりました。私たちのすることなすこと、しないこと、全て、自分中心な思いがいつも潜んでいます。私たちは神の怒りのもとに生きる存在となってしまいました。聖書はそれを霊的に死んだ状態になったと言っています。
 そして、神の御子、イエス・キリストは、その悪魔を滅ぶすために、女から生まれることで人となられました。しかし、それだけではなく、私たちの罪の罪科(罪に対する刑罰・しおき・とがめ)をご自身のものとするために十字架でその罰を負って、神の怒りを受け、死んでくださいました。『へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした』とあるとおりです。

 昨日、うちの子が食事の時に「助けると救うとはどう違うのか?」ということを聞いてきました。どう思いますか?「私は英語に訳してみたら分かるんじゃない?」と答えました。どうですか?「助ける」は「Help」かなと思います。では、「救う」はどうですか?「Save」もしくは「Rescue」でしょうか。他にも「Salvage」という言葉もあるんです。もう大分前になりますが、知床で観光船が沈んでしまって、引き揚げるために大きな船が来ましたよね。あの手の船は「サルベージ船」って言うんです。海の底から引き上げるという意味です。ですので、聖書で「救い」という時「Salvage」という意味の方が分かりやすいんです。

 でも、実際にイエスさまがなさったことは、「Save」「Salvege」よりも深い意味がありまして、それは、日本語で言いますと「買い取る」「買い戻す」という意味です。聖書では時に「贖う」という言葉を使います。
 
 「あなたを買い取る」これはどういう意味でしょうか。フィリピの信徒への手紙Ⅰ 6章19~20節にこう書いてあります。

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知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
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 聖書は、「あなたは代価を払って買い取られた」と言っています。もちろん「代価を払って」とありますが、それは、お金ではなくて、イエスさまの命、ご自身のきよい、尊い血、そして、罪人でないのに受けてくださった苦しみと死です。イエスさまは、本来与える必要のないものをもって私たちを「買い取ってくださった」のです。

 「買い取られた」そのことを私たちはどれだけ深く意識しているでしょうか。もし、みなさまが自分に値段をつけるといくらにしますか?この世は、みなさまにいくらの値段をつけるでしょうか。
 イエスさまは、私たちに最高の値打ち、価値をお示しになったのです。お金ではなくて、イエスさまの命、ご自身のきよい、尊い血、そして、罪人でないのに受けてくださった苦しみと死によって私たちを買い取っただけでなく、価値をお示しになってくださったのです。
 また、「買い取った」というのはどういうことかと言いますと、「イエスさまのものとなった」ということです。皆さまも大事なものは自分のものにしたいと思います。買ってから、放っておくということも時にするかも知れませんが、イエスさまは違います。

 私たちは、意外と「買い取られた(イエスさまのものとなった)」ということを忘れがちなんですね。
 ルターは使徒信条の解説でこのように言っています。

 さて、「あなたはイエス・キリストについて第二条で何を信じるか」と尋ねられたならば、ごく簡単に「私は神のまことのみ子、イエス・キリストが私の主となられたことを信じる」と答えるがよい。

 「買い取る」というのは、「罪の奴隷(悪魔の奴隷・死の縄目が絡みついていた状態)から解放する」という意味を含んでいます。もちろん、イエスさまは「買い取った」からと言って、足枷をつけて、私たちを奴隷のようになさるのではありません。神の子として、私たちを自由にしてくださったのです。
 そのうえで、私があなたを愛したように、互いに愛し合いなさいという新しい教えを私たちにくださったのです(つまり自由に愛する人となるように)。

 父なる神さまは、私たちに命を、そして、意志を与えてくださいました。そして、イエス・キリストは人となって苦しみを受けることよにって、私たちに、「私は愛されている。私は存在していて良いんだ。存在は喜ばれているんだ」という思い(喜び)をくださいました。是非、そのことを今日覚えていただければと思います。