宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 

 創世記 1章 1~19節
 ヨハネによる福音書 3章 14~21節
 

 「力ある神・愛の世界」

力ある神・愛の世界

 おはようございます。
 これまで、十戒と主の祈りを学んでまいりました。十戒が旧約聖書の時代に神様がモーセを通して民に与えられた戒め(つまり、天から降ってきた神の言葉)だとしますと、主の祈りは人となられたイエスさまが〔人として願うべき、祈るべき祈りの言葉〕(つまり、地上から神様へ向かう霊的な言葉)を教えてくださったものと言えます。
 それでは、今週から学ぶ使徒信条とは何かといいますと、これは信仰者である私たちが、〔何を信じているのか〕ということを〔私たちの側から公に(つまり水平方向に)宣言している言葉〕ということができます。つまり十戒(↓)、主の祈り(↑)、使徒信条(←→)です。
 ただ、いくつかある信仰告白(信条)というのは、歴史的に教会間の分裂をもたらしてきた経緯がありますので、細かく理解せず、少し漠然と理解して頂いた方が良いかと思います。

 さて、使徒信条を理解していくうえで、まず、大事になってくるのは、「神」とはどのような存在なのかということです。
 たぶん、一度は、神さまを信じない人の〔言い分〕を聞いたことあるかと思います。たとえば、「神がいるならどうして世界はこんな争いばかり起こるのか」とか「どうして理不尽・不条理なことが起こるのか」とか「悪がはびこるのをお赦しになるのか」とか、時には歴史的な侵略などから、また、クリスチャンの姿を引き合いにだして「クリスチャンを見ていると神がいるように思えない」という言葉をお聞きになったことあるかと思います。
 ただし、これは神さまの存在を否定していることにはならないんですね。それは、人間が定義した〔神さまってこんな方のはずだ〕ということと違っているだけなんですね。
 
 では、「神」とはどのような存在なのかと言えば、たとえばですね、わたし(江利口)は神さまですか?(幼稚園では神さまの話をするので、イエスさまとか神さまと子どもたちに呼ばれたことありますが・・・)違いますよね。いい人ではないからですか?完全ではないからですか?違いますよね。一つは永遠ではないからです。また、天地を創造する力もないし、自分の命をどうすることもできません。天皇陛下はどうでしょうか?現人神と言われたこともありますが、そうではありませんよね。同じように天地を創造する力もないし、寿命が来れば死にます。

 「神」というお方は、簡単に言いますと、なぜ〔この世界が存在しているのか〕、なぜ〔人間が存在しているのか(あなたが存在しているのか)〕なぜ〔私たちに意志があるのか〕そういったことを説明しようとすると、なくてはならないご存在なんです。

 そのうえで、「神」とは、まず〔天地万物の造り主〕であり〔永遠の存在なるお方〕であり〔人間を超越した存在〕で〔人知ではかることができない能力をお持ちの方〕となります。
 実は、ここまででまず〔神さま〕の定義を終わらせておくと、この神さまの存在を否定する言葉って意外にないんです。
 神様がいるということを証明することは理由があって難しいのですが、逆に、神さまが存在しないということを証明することも難しいのです。

 少し想像して欲しいのですが、誰も住んでいないように思われる家であっても、そこを訪れた時に、一輪でも花がテーブルに飾られていたら、そこに誰かが存在していると思うのではないでしょうか。この世界が存在していること、私たちが存在していること、私たちに意志があること、このこと自体が、〔世界〕と〔わたし〕を造った神さまの存在を証ししているのです 。誰にでも必ず父、母がいるのと同じように

わたしが存在し、意志がある。そして、造り主を求める心がある。
このことが、神さまは存在している証しなのです

 まず、このことを覚えて欲しいと思います。

 さて、「神」という存在を〔聖書的〕というよりは〔一般的〕な定義でお話したように思われるかも知れませんが、実は、神さまご自身も、ご自身のことを紹介する時に同じことをおっしゃっておられるんですね。出エジプト記3章13節、14節をお読みします。

********************************************************************
 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出エジプト記3章13~14節)
********************************************************************

 名は体を表すという言葉がありますが、神さまはご自身の事を何とおっしゃったのかと言いますと「わたしはある」とおっしゃったのです。どのような神なのかではなく、ただ「わたしはある」これが私である。とシンプルに教えてくださいました。事実、ヘブル語で神の名を現す「神(ヤーウェ:יהוה)」という単語は、「わたしはある(אֶהְיֶה)」という単語から派生した言葉だと言われています。
 さらに言えば、「わたしはある」という言葉は、「わたしはあなたと共にいる(ある)」という神さまのご性質と強く関係しているのです。

 さて、私たちは使徒信条で、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しています。神さまは言葉によって世界をお造りになりました。「光あれ」とおっしゃれば、そこに光が生じましたし、「あれ」という言葉によって、月・星が生じ、太陽が生じ、地球が生じ、生き物が生じました。
 「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という告白の中に、全能なる神、天地万物をお造りになった神さまのことが言い表されているのですが、もう一つの神さまの大切なお姿を知ることができます。それは「父なる神」であるということです。
 この世界は全能の神さまによって造られました。そして、神さまの愛と慈しみの心によって覆われているのですが、それに加えて、私たちの命を本当に尊いものとしていつも見てくださっているのが私たちの信じる神さまなのです。
〔親〕という字を使う〔親身になって〕という言葉がありますが、その意味は〔肉親に対するように相手の立場に立ち思いやりを持って〕という意味です。まさに、父なる神さまは、〔神さまとの愛の交わりを持つ対象として〕さらに〔永遠に生きる存在として〕、私たちを創造してくださいました。さらに聖書には「神御自身に似せて人を創造した」と書いてあるのですが、このことは本当に畏れ多いことなのです 。
 
 この世界は、神さまの愛と慈しみによって成り立っており、この世界の秩序も神の愛によってなりたっています。神さまは私たちが愛に生きることをお望みになり、神との交わり、互いに愛し合う関係を持ち続けることを願っておられます。私たち人間が愛を知り、愛に生きるようになれば、この世界は本当に美しい世界になっていきます。もちろん、悲しい出来事は沢山起こりますが、それでも、悲しむ人、悼む心、そういったものは全て愛から生じていることを思うと、やはり、この世界は〔愛とは何かを〕示し続けていると言えると思います。
 この世界は神の愛と慈しみによって覆われているのですが、そのことが一番よくあらわされた出来事は、神が人となられ、十字架の死を通して、私たちの罪をすべてお赦しになられたという出来事です。今日、お読みしたヨハネによる福音書に次のように書かれていました。

********************************************************************
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16~17)
********************************************************************

 この世界は神の愛と慈しみによって覆われています。この世界をお造りになった神がいかに愛の神であられるのかが、イエス・キリストを通して世は知ることとなりました。
 今から、約2000年前、一人の人がお生まれになり、私たち人間と同じように人生を歩まれ、そして、最後、十字架で死なれました。しかし、聖書はその方こそ、神ご自身であったと証ししています。
 わたし(江利口)はもちろん神ではありません。初めにそのことをお話ししました。なぜなら、天地を造る力もないし、永遠の存在でもないし、命は限りがあります。イエスさまは私たちと同じ人間ではありますが、石をパンに変える力があり、水をぶどう酒に変える力があり、湖の上を歩くことができ、嵐を鎮めることも、悪霊を追い出すこともお出来になりました。さらに死んだ人を生き返らせることもできました。それだけではありません。一度は、死なれましたが、復活されました。
 贖いとなるために人となられましたが、イエス・キリストこそ、神でした。旧約聖書で神さまが「わたしはある」という風におっしゃったとお話ししました。
 イエスさまが、嵐の湖で漕ぎつかれた弟子たちの船に近づかれた時に「わたしだ」と声かけられたのを覚えておられるでしょうか。あの時の言葉は「わたしはある」という言葉なんです。また、ヨハネによる福音書では、ご自身が「わたしはある」という神であることが分からないならば、あなたに命はないということをおっしゃいました し、また、十字架につけられた後で、あなたがたは「わたしはある」という者であることを知るであろうともおっしゃっていました 。
 さらに言えば、イエスさまは天に昇られる時、お弟子さんたちに何とおっしゃったのかと言うと、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃいました。これは、神さまがおっしゃる言葉(神さまである証拠)でもあったのです。

 今日は、使徒信条の父なる神についてのお話しをいたしました。続いては、神の御子のことをお話しいたします。

 この世界をお造りなった神は愛と慈しみの神です。この世界は、愛と慈しみで覆われています。人は愛されることを望むだけでなく、愛することで喜びを感じる存在でもあります。ここにも愛と慈しみの神に似せて造られた姿を知ることができます。
 私たち人間は、神さまとの愛の交わりの中で永遠に生きるように創造された存在です。神の願い、人間にとっての願いとは、神さまとの愛の交わりの中で永遠に存在することです。神さまは失った人間を十字架の愛によって再び永遠の交わりに戻ってくるようにと語り続けておられます。