宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 

 ルカ  18章 9~14節 
 ローマ 13章 8~14節 

 「そこに愛はあるんか」

  おはようございます。この前、「リトルプリンス(星の王子様と私)」という映画を見ました(とは言っても映画館ではなくて家で見ました)。この映画は2016年の作品で、皆さまよくご存じの「星の王子さま」というサン=テクジュペリの小説を基にした映画です。

「星の王子様」という話はご存じですか?〔人と人との絆の尊さ・切なさ〕を描いた小説です。〔星の王子様が、絆・愛情に気づいていく過程〕を描いた小説であり、〔読者に人と人との絆の尊さ・切なさに気づかせていく〕小説でもあります。簡単に内容を言いますと、星の王子様というのは、小さな星に一人住んでいた王子様のことで、そこには、王子様以外に一輪のバラの花だけが咲いていました。王子様とバラは仲良しだったのですが、ある日、そのバラの気まぐれさが嫌になり、王子様は星を出てしまいます。王子様は、星をめぐり、幾つかの星を旅するのですが、ある星には〔プライドが高く体裁を保つことばかり考える王様〕が住んでいて、ある星には〔人から賞賛されることを生き甲斐としている自惚れ屋〕が住んでいて、またある星には〔自分が沢山の物を所有していることで満足している実業家〕が住んでいました。そういった、傍から見て滑稽で魅力のない大人が一人づつ住んでいる星をめぐっていきます。そして最後にやってきた星が地球でした。
 王子様はそこで一人のパイロットと出会うのですが、そのパイロットがこの話(つまり「星の王子様」のこと)を書く人になって行きます。

 星の王子様は、地球上で、ある時、沢山咲いているバラを見つけます。すると、「ああ、自分の星でずっと一緒にいたバラというのは、たった一つしかないバラではなくて、沢山あるバラのうちの一つだったんだ」って思うようになります。しかしそんな風に思うようになった王子様は一匹のキツネと出会います。キツネと過ごしていく中で、キツネと仲良くなります。
 そして、キツネの言葉を聞いて過ごして行くうちに、以前一緒にいたバラが今までと違う存在に思えるようになるんです。そして、自分にとって掛け替えのない一輪のバラであったことが分かるんです。そのことは、バラと一緒にいた時には気づかなかったことだったんですね。
 キツネは王子様にこう教えてあげます。
「ものごとはね、心で見なくては良く見えない。一番大切なことは、目に見えない」「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみがバラのために費やした時間だったんだ」「きみはきみのバラに責任がある」

 バラの元に帰りたくなる王子様ですが、帰る事ができなくなっていました。そして、何とかしてバラの元に帰りたいと思った王子様は、魂になってバラが咲いていた星に帰ろうと決意し、毒蛇に噛まれて死ぬんです。

「ものごとはね、心で見なくては良く見えない。一番大切なことは、目に見えないんだ」

 この星の王子様は、旅を通して友の存在の尊さ(一緒にいる喜び)に気づく王子様の姿を描くのですが、パイロット(主人公)の姿から愛する人を失う悲しみも描いているんですね。

 聖書は、〔愛について〕教えています。でも、愛、愛と言いますが、私たちは誤解しています。どこか主体が私の側にあるんです。私から生じる愛の思いを私たちは愛と誤解しやすいんですね。
 私たちは「私が愛すべき対象は誰か」に注目し「私が何をしたいか(何をしたか)」を考えがちです。しかし、聖書は「あなたに愛されたいと思っている人はどこにいますか」「その人は何をあなたに求めていますか?」そのことに注目するように教えています(善きサマリア人のたとえ)。

 どうでしょうか。皆さま、〔愛されたい〕、〔大切にされたい〕って思いありますよね。でも多くの場合、満足できていないはずです。もっと愛して欲しいと願っているはずです。実は、同じように相手も思っています。

 「ものごとはね、心で見なくては良く見えない。一番大切なことは、目に見えないんだ」

 これは「星の王子様」でキツネが王子様に言った言葉ですが、聖書は、〔目に見えない大切なこと〕〔人間が忘れてしまっている本当の愛〕に気づかせようとする神の声なんです。

 私は、イエスさまこそ、このことをはっきりと分かっておられる方で、それが分からなくなっている私たちのために、人となられたのだと思います。そして、〔本当に大切なこと〕つまり〔相手の存在を尊く思う事の素晴らしさ〕〔大切にされることの喜び〕を、十字架で命をささげることで、私たちを愛することで教えてくださったのだと思います。

 〔罪人である私たちが、分からなくなっている、本当に大切なこと〕それは、〔相手の存在の尊とさ〕を実感し行動する心です。

 これまで、十戒を見てきました。〔殺してはならない〕これはどういう意味だったのかと言いますと、〔相手の命を奪わない〕という事に加えて〔むしろ相手を助けようとする〕という事につながり、この両者を実現してはじめて本当の意味で十戒に生きる人であるということをお話ししました。〔姦淫してはならない〕これも〔相手の家庭を壊さない〕という事に加えて〔相手の家庭を保護する〕ということで成就します。〔盗んではならない〕もむしろ〔受けるより与える方が幸いである(使徒20:25)〕という言葉に生きることが本当の意味で十戒に生きる人です。〔偽証してはならない〕も〔ただ私は嘘を付いていない〕ということではなく〔相手のためになる言葉を使う私になること(エフェソ4:29)〕が大切であることをお話ししました。

 では、十戒の最後は何かというと「隣人のものをむさぼってはならない」ですよね。出エジプト記20章17節にはこう書いてあります。

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隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。
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 〔隣人のものを一切欲してはならない〕とあります。〔盗るなと言わない〕んです。〔欲するなと言う〕んです。これって、欲する心こそ〔相手を大事にしていない〕そのような状態だからです。
 初めに読んで頂きましたローマの信徒への手紙13章8~10節にこう書いてあります。

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 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
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 十戒(そして律法)は要約すると何を教えているのか、それは、「隣人を愛すること」なんです。「悪い人にならないこと」ではありません。十戒を守るとは「隣人を愛する人になること」なんです。

 そのうえで、今日の福音書でイエスさまがおっしゃっている喩えを読みますね。ルカによる福音書18章9~14節)

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 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
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 イエスさまの中で喩えられているファリサイ派の人、彼は、自分の中では十戒も律法も完ぺきに守っていると思っている人でした。しかし、読んでもらえば分かるかと思いますが、律法が教えるもっとも大切なこと、つまり〔隣人を愛する人〕になっていません。大切なことが見えていないのです。
自分の体裁ばかり気にし、人から賞賛されることばかり求め(喜び)、形だけの事を繰り返しているだけの神様の目に魅力のない人でしかなかったんです。

 十戒って不思議ですよね。人を曲がったことをさせない、正しい人にすることができる神さまの言葉ですが、大切なことが見えてないと、〔自分で自分を義とする〕人となってしまい「あの人はだめな人ね」「わたしはあの人よりましだ」と〔人を裁く人(見下す人)〕になってしまうのです。

 〔大人になったら忘れてしまうもの〕、〔罪びとだから見えてない大切なこと〕というのがあって、〔私たちが失ってしまった大切なもの〕それを知っているのがイエスさまで、それをご自身の人生を通して、十字架を通して、教えられたのが、イエスさまだったんですね。

 わたし、今日の説教題「そこに愛はあるんか」という題にさせて頂きました。これは、ある金融機関のキャッチフレーズです(知ってますか??)。金融機関が「そこに愛はあるんか」って変ですよね。貸すときは「大変でしょ」って貸してくれる。そこに愛はあるかも知れません。でも、返せないとわかったら「借りたものは返さんとあかんやろ」っておそらく怖いおっちゃんがやってくるのではないでしょうか。そこに愛はありません。「借りたもんは返さんとあかんやろ」というのは律法です。

 聖書は、神さまのメッセージです。それは、失ったものを取り戻す愛のメッセージです。失ったものとは〔本当の愛(隣人愛)を忘れてしまった私たちの心〕です。そして〔神さまから離れてしまった私たちの心〕です。

 十戒は、私たち罪人が、隣人同士(つまり共同体として)相手を守りあうために大事なことです。もちろん前半は、神さまとの関係においてですが、それは、夫婦に置き換えると良くわかる戒めです。
 「聖書の神さま以外に他の神があってはならない」というのは、夫(妻)以外に好きな対象があってはいけない(それがつくられたものでもいけません)というのと同じです。「主の名をみだりに唱えてはならない」とは、夫(妻)のことで悪い表現を使ってはいけませんというのと同じです。「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とは、夫(妻)は時間を聖別して一緒にいなさい。という風に考えると良く分かるかと思います。
 これも、私たちが失ってしまった、愛してくださっている対象の方との大切な交わりの方法を教えていると言ってもいいでしょう。

 これまで、十戒を学んできました。十戒(つまり神さまの教え)は〔神を愛し人を愛する人になる〕生き方を教えたものでした。しかし、大切なことが何かを知らない私たちは、それを守ればいい人になると誤解してしまいます。
 愛とは、〔愛されたい(助けて欲しい)〕と思っている人の心を知り、その心に寄り添い、最後には自分を犠牲にしてでも相手を守ることです。
 ただし、そこに愛ということの本当の意味・喜びに気づいていないと人は愛が分かりませんし、愛を誤解して行動してしまうのです。

 愛しているつもりでも、愛せていないことがあります。時に自分の行動を顧みることができる時には、「そこに愛はあるんか」と自分にこのフレーズを語ってみてください。そして、福音書の中で、イエスさまの十字架を思い浮かべ、イエスさまならどう行動されるだろうかと考えてみてください。多分、〔相手の心を無視している自分〕、〔相手より自分を大事にしすぎている自分〕、〔相手を束縛しているだけで愛せていない自分〕色々な自分に気づいていくと思います。

 十戒は、「わたしは十戒を守れている正しい人だ」と自分を自分で誇りに思う人をつくりあげるのではありません。また、「あの人はだめだ」と裁く人を作るのでもありません。「神と隣人を愛する人」をつくりあげていく神さまの言葉なのです。
 自分で自分を義とし、他人を見下す人になっていないか注意してください。それは隣人を愛せていません。
 あなたは父、母を愛せていますか?配偶者を愛せていますか?子供を愛せていますか?友人を愛せていますか?隣り人を愛せていますか?
 あなたがしていること「そこに愛はありますか?」