宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 マタイによる福音書 26章 57~68節

 「言葉で花を咲かせましょう」

 おはようございます。この前、教会のキッチンで仕事をしておりますと、教会の花壇の前で一人の年配の女性がこちらを向いて立っておられるのが見えました。どうしたのかなぁと思って良く見ると、その方、教会の看板を眺めておられたんですね。暫くしたらまた歩いて道を行かれましたが、多分、その方は、今日の説教題の「言葉で花を咲かせましょう」という字を見ておられたのだと思います。

 「言葉で花を咲かせましょう」これは、何をヒントにしたのか分かりますか?ある有名な昔ばなしです。「言葉で花を咲かせましょう」これは、みなさま良くご存じの《花咲かじいさん》の有名なセリフ「枯れ木に花を咲かせましょう」から取りました。

 今日は、十戒の「偽証してはならない」という戒めを学びたいのですが、結論として、「嘘をつかない人になろう」ということに終わらず、「言葉で花を咲かせる人になろう」という思いになっていただきたいと思います。

 さて、「偽証してはならない」ですが、まず理解して頂きたいのは、これは単に「嘘をつくな」ということではないことです。「え、《嘘をつくな》ということじゃないの?」と思われるかも知れません。そう言った一面がないわけではないですが、厳密に言えば違います。
 例えば、小さい子どもに「歯を磨いた?」と聞いても「磨いた」って嘘つくことありますし、「宿題やった?」と聞けばやっていないのに「やった」って嘘つくことあります。その時、「十戒に偽証してはならないとあるよ」と戒めるのは間違っています。その時は「神さまは全てを知っておられますよ」というのが正解です。

 「偽証してはならない」この「偽証」という言葉は《裁判用語》なんです。つまり「偽りの証言をしてはならない」というのが本当の意味です。「偽証してはならない」というのは、《私たちの口から出る言葉》に注目しているのではなく、偽りの証言をされた《人の不利益》に注目しているのです。
 この戒めは、聖書を読むと現実の民事の場にも影響していたのがわかります。どのように適用されていたのかと言いますと、例えば、裁判官の前に、告発する人と、告発される人がいたとします。もし、告発する人の《証言》が嘘だとわかったときには、告発された側がくだされる筈だった判決の内容をその人が逆に受けなければなりませんでした(申命記19章15~21節参照)。
 簡単に言えば、《懲役10年》にあたるような内容のことを告発した場合、それが嘘である(もしくは間違っていた)とわかった時には、訴えた人、証言した人が《懲役10年》になったんです。むち打ちの刑に処せられるような訴えの場合は、《嘘》《間違い》が分かれば訴えた人、証言した人がむち打ちの刑に処せられました。そのようなレベルにとどまりません。その人の訴えの内容が《相手の死刑》に当たるような場合、それが《嘘》《間違い》であった場合は、訴えた人、証言した人が死刑になったんです。怖くないですか?故意ではなく、間違って証言したとしてもそれが適用されたので、訴える時、証言する時は、非常に慎重になったことがわかります。

 このことから分かるかと思いますが「偽証してはならない」という神さまの戒めは、共同体の中での人の権利を不当に犯されないように教える戒めだったんです。
 ですので、先ほども言いましたが、《私たちの口から出る言葉》に注目しているのではなく、偽りの証言をされた《人の不利益》を考えての戒めなんです。

 もちろん「偽証してはならない」というのは裁判用語ですが、これを個人レベルでも考える必要があります。個人レベルで考えた時には《相手のことを悪く証言しない》ということを意識することが求められます。

 この前に、桜井教会の祈祷会に一人の年配の女性が来られました。その方はクリスチャンではありませんが、時々、鋭いことをおっしゃるんです。この前その人は私にこうお証しされました。「先生、人と話していると楽しいんです。でも、親しくしていると、しまいに火傷(やけど)するんです。だから私は人づきあいをしないんです」そんな風におっしゃいました。詳しく聞くとその人は、「先生、何人かで集まって話していると、必ずと言って良いほど他の人の悪口になっていくんです。でもね、人の悪口を言っていると本当に気持ちいいんです。でもね、その人たちは、どこかで私の悪口も言っているのがわかるんです」(正確な言葉は忘れましたが)そのようなことをおっしゃっていました。「人の悪口を言っていると本当に気持ちいい」という言葉にドキッとしました。

 ヤコブは彼の手紙(新424頁)の中でこう言っています。
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 馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。(ヤコブの手紙3章3~6節)
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 馬に比べてくつわは小さいものですが、大きな馬をあっちにいかせ、こっちにいかせと動かすことができます。船の舵を見ても、舵は船に比べて小さいものですが、大きな船を意のままに操ることができます。人間の舌も同じです。体に比べ小さな器官ですが、人の人生を大きく操る厄介な器官なんです。

 聖書の一番最初にアダムとエバの話が書かれています。二人が《取って食べてはならない》と命じられた木から取って食べた時、彼らの中に罪が入り込んだと聖書に書かれています 。
 その結果、彼らは目が開け、何をしたのかと言いますと、腰を覆ったと書かれています。私は思うんですが、覆う部分が違ったのではないかと。彼らは腰を覆うのではなく、口を覆った方がよかったのではないかと思います。実際に、エバもアダムも神さまの前に一生懸命、自分は悪くないと弁明しています。

 先ほどのヤコブの手紙の3章8節にはこう書かれています。

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 しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。
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 私たちは、《自分に有利な言葉》を用いたり、《陰で相手に不利益なこと》を言ってしまう傾向があります。もちろん、言ってしまって自分が嫌になること多いのですが、そう導くのが十戒の目標でもあるのです。

 少し、話がそれますが、十戒を理解するために、喩えをお話ししたいと思います。小さい子どもが少し立って歩けるようになり始めた時、親が少し離れたところに立ち、「こっちまで歩いておいで」って子どもに頑張らせる時ありますよね。そして、歩いてこれた時に「歩けたね!」って誉めてあげるってことありますよね。「こっちまで歩いておいで」これは、歩ける能力をさらに引き出すための言葉ですよね。
 一方で、整骨院を想像してみてください。患者さんが「先生、肩痛いんです」って言って受診したとします。すると、先生が「腕を横にしたまま、そのままず~っと挙げてみてください」と言うんですね。そのようなシチュエーションありますよね。多くの場合、患者さんは何と言うでしょうか。「先生、痛くてあがりません」というのではないでしょうか。どうでしょうか、先生はその時、「ほら、頑張って、頑張って」と励ますでしょうか。恐らく先生は「それは、肩のここに炎症があるから挙がらないんです」と痛い原因を教えるのだと思います。「腕を横にしたまま手を挙げてみてください」というのは、腕を挙げる能力を引き出すための言葉ではなくて、どこがおかしいのかを分からせるための言葉ですよね。
 ルターは、神さまの戒めは、後者、つまり、できないことを教えるためであると言うのです。もちろん、できる範囲でその能力を高めるという要素も持っています。しかし、究極的に律法は私たちの状態を映し出す鏡であり、私たちがイエスさまが十字架にかかってくださったこと(すなわち、私たちの罪をすべてご自分の罪とするために十字架にかかってくださったこと)また、十字架と復活を通して、私たちも同じようにそのような完全な姿にしてもらえるということを知らせる道具となっているのです。

 話を戻しまして、人には自分に有利に証言したくなる罪が宿っています。状況が整えばここまで酷くなるのかということがわかるのが、今日、お読みいただいた、マタイによる福音書26章57~68節です。ここでは、まさに、イエスさまが不利益な証言(つまり偽証)により、死刑にさせられていく様子を記しています。
 イエスさまは最高法院というところで裁かれるのですが、59節、60節を見ますとこう書いてあります「さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった」イエスさまはご自分が愛した民から、偽証を重ねられて死刑にさせられるのです。しかも、裁く側も偽証を求め、証言する人は一生懸命偽証しています。そして何より、偽証した人はどのような裁きが下るかお話ししましたよね。《死刑にあたると偽証した人》は《その人が死刑になる》のです。しかし、イエスさまは何とおっしゃったのか、十字架に打ち付けられるときに「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と弁護したんです。イエスさまは、《偽証》した人に対して《弁護》したんです。

 十戒が求めていること。それは、《偽証しない》ことに限らず、むしろ、《弁護する》ことなんです。つまり、それを聞いた人が良い印象を持つように言葉を選んで話すことなんです。

 今日は、十戒の「偽証してはならない」という戒めから「言葉で花を咲かせる人になろう」という思いになっていただきたいと最初にお話ししました。
 少し前になりますが、ある国会議員の方が動画の中でウクライナでの戦争のことを憂いて「戦争って破壊するばっかりだ」と嘆いておられました。その方は、戦場に赴くことが多かった人で戦場の悲惨さを身をもって体験してきた方です。その方が、戦争って人を殺すこと、街を破壊することしかしない。爆弾を落とせばそこが花でいっぱいになるということはない。戦争で良いことは全くないおっしゃっていました。
 
 私は今の社会も同じだなぁと思いました。《嘘・偽り》、《言葉による暴力》があふれていて、社会がどんどん暗くなっているような気がします。説教題に合わせて例えるならば、人の心が枯れて行っているような感じです。人はもっと嬉しい言葉、恵みとなる言葉を聞くと元気になっていきます。

 エフェソの信徒への手紙4章29節にこう書いてあります。

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 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。
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 皆さまは、普段、どれくらい意識して言葉を使っておられるでしょうか?恐らく、意識して(特に相手の人を造り上げるのに役立つ言葉を意識して)使っていると自信もって言える方は少ないのではないでしょうか。
 しかし、私たちが何気なく使っている言葉は、意外に想像以上に大きな影響力を持っているのです。人に喜びを与える力、人を造り上げる力が《使う単語一つ》、《言い回し一つ》に宿っているんです。そして良い言葉によって力をもらった人は、周りに良い影響を及ぼすことがあります。そのことに気づけば私たちは非力ではありますが、周りに花を咲かせることができるのです。私たちの言葉による影響は、《良い意味》でも《悪い意味》でも広がっていくということを知って欲しいと思います。まずは、近くの家族から是非花を咲かせてください(わたしもこの前から少しずつ意識するようにしています)。
 「花咲かじいさん」のクライマックスは、焼いてしまわれた臼の灰を撒いて村中の枯れ木を桜で満開にしていくところです。社会が悪い言葉で満ちていて、枯れ木が多くなっている今の世の中に、是非、神の子として、言葉で花を咲かせていってください。「言葉で花を咲かせましょう」そんなつもりで、良い言葉(特にキリストによる影響を受けた優しい言葉)を撒いてください。