宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 ルカによる福音書 16章 1~13節

 「盗んだ記憶」

  おはようございます。小さい頃に何かを盗ってしまった記憶がありますか。以前に高齢者の方と、このことをお話ししていた時に「ひもじくて畑の野菜を食べてしまったことがある」とか「遊んだ帰りにお腹が空いて柿の木の実を盗って食べてしまったことがある」そのような話しをお聞きしました。これは、《盗ったことには変わりありませんが、貧しい時代ならありえる話》で子どもらしいほっこりした話しだと思います。

 今は、貧しい時代ではありませんが、それでも子どもは何かを盗ってしまうことがあります。「どうしても欲しい」という気持ちは、人間には必ずあって、ある程度コントロールできても、友達が持っているものを見て羨ましくなったり、仲間外れにされたりすると、欲しい物を盗ってしまったり、もしくはそれを買うために家のお金を盗ってしまうということがあります。 

 小さい頃のそういった衝動から来る「盗る」という行為も、大人になれば、理性で抑えれるようにはなりますが、人間の「欲しい」という気持ちは決してなくなるものではありません。

 さて、今日は、十戒の「盗んではならない」という戒めを見ています。誰でもこの言葉を読めば《何が戒められているのか》《何をしてはならないのか》はわかるかと思います。しかし《どうして人は盗ってしまうのか》・・・そこに注目すると、神さまのメッセージが見えるようになってきます。また、この十戒によって神さまが何を守ろうとしているのかが分かれば、おのずと、神の子としての歩みも見えてくるのです。今日は、そのことを踏まえて、お話ししたいと思います。

 

 まず「盗」という漢字ですが(週報を見て頂くとわかりますが)、「皿」の上に「次」という字を書きますね。もともと(盜)は、「皿」の上に「次」という字ではなくて、「次」という字の左側の「冫(にすい)」が「氵(さんずいへん)」になっている字を使うそうです。「盗」という漢字がどういう意味を現しているのかと言いますと、《皿の上にあるものを見て、口を開けて(欠)よだれを垂らしている姿》を現した漢字なんだそうです。そう考えると、「羨む」という字も下に「冫(にすい)」ではなく「氵(さんずい)」になった「次」が使われていますね。これも、口をあけてよだれを垂らしているという姿から「羨む」という漢字が出来ていることがわかります。

 このことからもわかりますが、《盗る》というのは、私たちの内側から出てくる《渇き・欲望》なんですね。子どもだけでなく、大人であっても、この《自分の渇き・欲望》は持っています。「盗る」というのは、物を盗ってしまうことに限りません。人の命を奪う事も盗むことですし、姦淫することも盗むことになります。また、自分の財産を守ろうとして、他の人にお金を使わせることも盗むことになります。さらには、「さぼる」というのも、雇い主の不利益を生ずるわけですからこれも盗むことになるんです。

 

 ルターは大教理問答の中で、「盗む」というのは、全く日常茶飯の罪であるが、ほとんどが意識されていないと言います。よって、盗人でありながら、盗んだことがないと言っている人を牢に入れるならば(本当は絞首台)、この世はたちまち人影を失ってしまう。そのように解説しています。

 

 私が今日「盗んだ記憶」と説教題をさせて頂いたのは、もし、小さい頃でもいいので、とにかく盗んだ記憶がある人はイエスさまの愛は、その人のものになるんですね。逆に、もし、「わたしは人様のものを盗ったことはない、盗るようなことはしない」と自分で自分を正しいとする人がいれば、その人は、イエスさまの十字架の意味が正しく分からない人のままになってしまうのです。

 

 このことは、お医者さんの前に座り、自分の症状を報告し、適切な治療を受ける人に例えることができます。自分の症状に気づき、お医者さんの前に座れば適切な治療を受けることができるように、私たちも《自分の罪(渇き・欲望)》に気づき、神さまの前に座ることができれば、神さまの義と愛による治療を受けることができるのです。

 これが悔い改めて福音を受け入れるということ、つまり、神さまが私たちに願っておられることなのです。十戒は、実は、神さまの治療が必要であることを教える役目をもっているのです。

 

 ところで、皆さまは、小さい頃にお小遣いをもらっておられましたか?我が家は子ども達にお小遣いをあげています。お小遣いを貰って、自分の欲しい物を買うようになるとお金の管理のスキルを学ぶようになっていきますよね。

 親としては「上手くやりくり」して欲しいのが実際の所ですが、私は「この子がお金をどう使うか」ということにも関心があります。《お金がその人の手から離れる時、その人の信仰が表れる》と聞いたことがありますが、例えば、子どもが限られたお小遣いの中から、兄弟(姉妹)のためにお金を使おうとする姿を見ると嬉しいです。

 それは神さまも同じように思っておられて、実は、今日、覚えて頂きたい十戒の「盗んではならない」という戒めは、《周りの人(特に貧しい人)の財産や生活を守り、また、補助してあげることにも派生してくるのです。

 

 神さまは、人の財産や生活を守り、また、補助する人を喜ばれます。このことは今日お読みしたルカによる福音書の箇所からもわかります。

 まず、イエスさまが話された、この喩えを簡単に説明したいと思います。あるところに、主人の財産を管理する役目を頂いた人がいました。彼は、主人の財産を管理するのですが、彼は、主人の財産を使い、自分の私腹も肥やしていました。正確に言いますと、主人の財産をくすねていたようなものです。ある時、そのことが主人に知れ渡り、主人は彼を呼び出し、彼を解雇すると告げます。それを聞いて、彼はどうしたらいいのかを悩みます。彼はこう言っています(心の中でつぶやいた言葉)。

 

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『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』(ルカ16:3~4)

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 彼はそこで、主人に借金をしている人たちを一人一人呼んで、彼らの借金の額を下げていくんです。彼は、恩を売れば、誰か私を助けてくれるに違いないと思ったんです。もちろん、主人の財産を用いるので彼の懐は痛みません。

 では、その行動を見て、主人はどうしたのか・・・。なんと、彼の抜け目のないやり方を誉めたというのです。ある意味、自分の事しか考えていない管理人をなぜ誉めたのかと思うのが私たちですが、実際は疑問に思わせるために、喩えを考えられたのがイエスさまなんです。

 

 イエスさまはこの喩えの後、こう言っておられます。

 

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 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。(ルカ16:9~10)

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 私は先ほど、お小遣いの話をしましたが、お小遣いの使い方を見ていると個性が出てきます。お小遣いをすぐ使ってしまって月末にすっからかんになる学習しない子もいれば(私です)、欲しい物があっても我慢してお金を貯める子もいます。

 小さい頃にお小遣いをすぐ使ってしまう子って、案外、大人になってもそういう使い方をする人多いんですよね(私です)。また、小さい頃から、無駄遣いをしないでお金を貯める子って、大人になってもそういう傾向があるんです。

 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。というのはまさに人間の性(さが)について言っています。

 しかし、ここではもっと大事なことをおっしゃっていて、それは、主人の喜ぶことが何かに気づいた人は、その人は大いに受け入れられるということなんです。

 イエスさまのたとえ話に出てくる、管理人は、これまで主人の財産を自分の私腹を肥やすことしか考えていませんでした。つまり、「盗む人」だったのです。しかし、彼は、主人の財産を使って、隣人の生活を保護しようとしたのです。その大切さに気付いたのです。この「小さな気づき(変化)」を主人は誉めたのです。イエスさまは弟子たちに、そして、私たちに何を言っておられるのかと言いますと、あなたも天国に迎え入れられるために、隣人の財産を守り、保護し、助けなさいという事をおっしゃっておられるのです。

 私たちは神さまを「父」と呼び、「日ごとの糧を今日もお与えください」と祈っています。これは、クリスチャンが持っている世界観です。この世の全ての物は神さまのものです。私たちは必要なものが神さまから与えられ、また、この地上の全てを管理するように任されています(創世記1章)。私たちは、神さまから《自分だけ楽をし、楽しむのではなく、この世界をみんなで愛し合い助け合う世界になるよう》に任されているんです。

 私たちが得ている富というのは、確かに、私たちが働いて稼いで得たお金です。しかし、それは、神さまから託されている、いわばお小遣いのようなものです。必要なものを得るように与えられた富ですが、同時に、どのように使うかを見ておられるのです。

 

 イエスさまは、

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 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。(ルカ16:11~12)

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 とおっしゃっておられます。《不正な富》とは、喩え特有の誇張表現で、意味としては、「あなたが神の御心を知り、富を正しく用い、また、他人の富にも気を配れる人となれば、神はまことのものをあなたに委ね、あなたは神の国の素晴らしさを知るでしょう」そのような意味です。

 最後に一か所、聖書をお読みしたいと思います。開くことができる人はぜひお開きください。使徒言行録20章33~35節です(新255頁)。

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 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
(使徒言行録20:33~35)

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 神の子の生き方は、「盗まない」ことによって成就するのではなく「受けるよりは与える方が幸いである」という神さまの言葉に生きることによって成就するのです。

「あなたが神の御心を知り、富を正しく用い、また、他人の富にも気を配れる人となれば、あなたは本当に盗まない人であり、神はまことのものをあなたに委ね、あなたは神の国の素晴らしさを知るでしょう」今日はこのことを覚えてくだされば幸いです。