宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 マタイによる福音書 5章 27~30節

 「男と女に創造された」

  おはようございます。
 今日は、ずっと連続でお話ししてきました十戒の第7番目の戒め、「姦淫をしてはならない」からお話ししたいと思います。
 
 創世記を見ますと、神さまは大自然をお造になった後、人を創造されたと書かれてあります。そしてシンプルに男と女に創造されたと書かれています。そして人が増え広がって行くのが神さまの御心でした。聖書は、神さまは動物に雄雌があるから人間も同じように雄雌にお造りになったとは言っていません。聖書を読みますと、初め男を造りその後で「人が独りでいるのはよくない」からと言って、助ける者を造られたとあります。それが女性でした。「助ける者を造られた」とあることから「だから女性は男性に仕えなければならない」という考えは違います。なぜなら、女性が造られる前に神さまはアダムのためにと、まず動物をお造りになり、彼の前に連れてこられているからです。
つまりどういうことかと言いますと、ちょっと公園のベンチに座っている一人の人を想像して見てください。紅葉が素敵な公園、ベンチに座っている一人の人。それだけでも画になりますが、そこに可愛い一羽の鳥がいるのを想像してみてください。これも画としてはいいですよね。でも、恐らく、その人はその鳥に餌をあげはじめるのではないでしょうか。それが公園のベンチに座っている人と鳥がいる画です。一方で鳥ではなく、そこに異性の人がいる空間を想像してみてください。どうでしょうか。恐らく仲睦まじく座るのではないでしょうか。これが助けるものにもとめられているものです。この画を神さまは望んでおられました。

神さまはアダムの所に動物を連れてきました。でもアダムにとって相応しい存在にはなりませんでした。しかし神さまが彼を眠らせ、彼のあばらの一部をとりだし、そこから異性をお造りになってアダムのもとに連れてきたら、アダムの顔が喜びで満ちたんですね(聖書にはそう書いてありませんが)。そして彼は何といったのかというと。彼は女を見て「イシャーと呼ぼう」と言いました。イシャーとは「女」を表す単語ですが、妻と訳すことの方が多い単語なんです。つまり、女と呼ぼうではなく、妻と呼ぼうと言った感じです。(ちなみに「男と女に創造された」とある言葉に使われている「女」という単語はイシャーではなく、別の単語です)。
神さまはただ助ける人(仕える人)を与えようと異性をお造りになったのではなく「共に居たいと願う存在」「大切にし合う存在として助け合う存在」として異性をお造りになったということがわかります。ここから夫婦が始まりました。


さて、今日は十戒の「姦淫してはならない」という戒めを見ていますが、この戒めの持つ意味は、シンプルに「隣人の家庭を崩壊させてはならない」という意味です。そしてこの意味がわかる一つの出来事が聖書に書かれています。

イスラエルの二番目の王にダビデという王様がいました。信仰深い人で彼はゴリアテを倒した人でも有名です。彼はある時、宮殿の屋上から一人の女性が沐浴をしているのを見つけます。そしてその美しさに魅了され彼女が誰か調べさせます。するとウリヤという人の妻であることがわかります。夫人であることが分かったのですが、それでもダビデは彼女を王宮に招き、そこで床を共にするんです。もちろん聖書では姦淫の罪に当たります。
しばらくしてダビデは自分の子を宿したという報告を受けるんです。実は、バテシバが沐浴していたのは、生理が終わってから行わなければならない清めの洗いだったんです。それからしばらくした後に妊娠しやすいことは良く知られてはいました。ダビデも気づいていたのかも知れません。
さて、妊娠した事を知らされたダビデは罪が公にならないために、その子をウリヤの子になるように策を練るんです(詳しくは聖書をご覧ください)。それでも上手く行かなくなった時、彼は、なんとウリヤを戦争の最前線に立たせて、わざと敵に殺させるんです。酷いですよね。ウリアが死に、そして喪が明けた時ダビデはバテシバを妻として、何もなかったように迎え入れるのですが、子どもが生まれた時、神様の裁きが下ります。
神さまはナタンを遣わし、ナタンはダビデに一つの話をします。

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「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」
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豊かな男の無慈悲さを強調して話したんですね。するとダビデは怒り「そんなことをするやつは死刑だ」と言うんです。その時、ナタンは「それはあなたのことだ」と迫るんです。王の権威は高く誰も口答えすることはできません。ですので、王自ら自分を裁くように、また、自分のしたことが分かるようにナタンはもっていったんですね。

ヤコブの手紙(1章14~15節)にこう書いてあります。

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むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
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 姦淫の罪の悪いところは、仲睦まじい夫婦の関係を自分の欲求から引き裂くことなんです。仲が悪ければ言いというわけでもありません。姦淫とは神さまが定められたその関係を壊すことなんです。

ちなみに自分のものにしようという衝動は男性に強いと思います。イエスさまが、

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みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
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と言っておられるとおり、むさぼろうとする位の強い欲求を持つのが男性で、獲物を狙うかのように人の妻を見ることをさえ禁じておられます。

 当時は女性は社会的に立場が弱かったので、奪い取る男性はよくいたようです。また、離縁することで次の女性を迎えることが許されたので、当時、離縁することが普通に行われていました。このことは仲を引き裂くようにはうつらなくても、男性の身勝手さ、また、離婚された女性の立場、また、結婚は神さまが介入されているという観点から、当然のことながらそれは罪でした。ですのでイエスさまは、

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「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
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つまり、離縁した妻も、また、妻を迎えた新しい夫も、また、そうさせたあなたも、神の意に反したこと(つまり罪)を犯しているんですと戒めておられるんです。

 昨日、息子が「お父さん白い恋人の反対は何かわかる?」とクイズを出してきました。「白い恋人」というのは、クッキーで北海道では有名なお土産です。ご存知でしょうか。その「白い恋人の反対」は何でしょうか、皆さまおわかりになるでしょうか?正解は、「赤の他人」です。白い恋人の反対は赤の他人。うまい組み合わせですね。

神さまは人を男と女とにお造りになりました。公園のベンチに座っている人の話をしましたが、神さまは人と人とが仲睦まじくいるのが喜びで、そして、人が増え広がっていくようにと、そう願って、人を男と女とに創造してくださったんですね。しかし、罪が入り込んできてからは、本当の意味で愛し合うことができなくなってしまったんですね。白い恋人と赤の他人のように、何かのきっかけで、すぐに離れてしまうのが、今の男性と女性の関係なのです。

パウロはコリントの信徒への手紙でこういっています。

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 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(13章4~7節)
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これは結婚式でも用いられる聖書のみ言葉ですが、自分にあてはめてみると、「私は愛のない人間だなぁ」と思わされます。
本当の愛、神さまが求めておられる本当の愛とは、相手の欠けた所をダメなところとして裁くのではなく、受け入れる、許す、補うことなんですね。そういう意味では、罪が入ってきてからの時代、特に今の時代は夫婦が寄り添いあうというのは難しいのだと思います。

「姦淫してはならない」これは隣人の家庭を壊してはならないという戒めであり、神さまが引き合わせた夫婦を引き離してはならないという戒めなのですが、一方で隣人の夫婦が良い夫婦であるように助けるのもこの戒めの中に秘められている私たちのとるべき行動ということにもなります。

最後に夫婦の関係、恋人同士の関係以上の関係である私たちと神さまとの関係についてお話をして終わりたいと思います。

私たちは相手が気に食わなくなると、想いが薄れ、違うものを欲するようになり、別れても当然と思います。もしそれが当然であるならば、神さまが私たちを見捨てても間違いではないはずです。しかし神さまは、こんな自分中心的で、愛のない私たちであっても、思いが薄れることもなく、また、捨て去ることもなく、私の目にあなたは値高く映っているとおっしゃってくださるのです。神さまこそ、イエスさまこそ、最高の助け手なのでした。

私たちは一度は罪の奴隷となり、手綱を悪魔に握られてしまいました。しかし、神さまは私たちとの関係を回復するため(悪魔からその手綱を取り戻すため)人となり、十字架で私たちの罪をすべて背負い、その罰をすべて(つまり聖書では神の怒り・呪いという言葉を使いますがそのような苦しみ、悲惨さをすべて)ご自身のものとしてくださることで罪と死と悪魔を滅ぼしてくださいました。そのことで私たちに対する愛を示し、関係を回復してくださいました。
私たちには、神さまにとっての良い存在ではありません。しかし、神さまは永遠に私たちを愛し、共にいてくださるお方なのです。公園のベンチで私たちと一緒に座り続けてくださるイエスさまを想像してみてください。

「姦淫してはならない」これは隣人の家族を自分の欲望のために犠牲にしてはならない(神さまが引き合わせた夫婦を引き離してはならない)という戒めであるということと共に、神さまが描かれる理想の世界とは何かを知りそれを実現していくことなんだ。ということを覚えていただければと思います。