宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 マタイによる福音書 5章 21~26節

 「生きて欲しい」

 
 おはようございます。昨年の11月以来、途切れていました十戒のお話しを今日からまた再開したいと思います(とは言っても、来週は総会なので次は再来週になりますが)。
 今日は「殺してはならない」という戒めからお話ししたいと思います。
 以前、「主の祈り」からお話しさせて頂いた時に何度か次のことをお伝えしました。それは「主の祈りが、本当の意味で自分の心からの願いとなったときイエスさまと一つとなることができる」と言うことでした。覚えてくださったでしょうか。そして、十戒についても信仰が深まるために知っていただきたい大切なポイントがありまして、それは、「十戒は単に、してはならないこと、しなければならないことを教えている神様の言葉ではなくて、そこには神さまの思いがあり、その思いを自分の思いに出来るときに本当のキリスト者の姿となる」ということです。

 ところで、十戒そのものについてまずお話ししたいのですが、旧約聖書はヘブル語で書かれているということをご存じかと思います。ですので、十戒もまたヘブル語で書かれています。たとえば今日の「あなたは殺してはならない」という言葉をヘブル語で見ますと強い否定の形で書かれているのがわかります(他の戒めもそうです)。ですので、翻訳自身は間違ってはいないのですが、ヘブル語のニュアンスを含めて訳し直しますと実は「あなたは決して殺さない(殺してはいけない)」という風になるのです。「あなたは殺してはならない」と「あなたは決して殺さない(殺してはいけない)」とは違いますよね。「あなたは殺してはならない」と言われるとどこか畏(かしこ)まっているというか、他人行儀というか、距離を感じますよね。一方で「あなたは決して殺さない(殺してはいけない)」と言われればどうでしょうか。少し人格的な交わりというか、命じる方との距離が近く感じないでしょうか。つまり「神の子であるあなたは殺してはならない。殺すようなことをしてはならない」という信頼をこめて命じておられるのがこの戒めなのです。
 そして、私たちもまた神様との関係において愛されているという喜びが深まると、「神さまが命じておられるような生き方をしたい」という思うようになっていくのです。
 さて、「殺してはならない」という戒めですが、疑問に思うことありませんか?たとえば、皆様が一番身近な人、ダビデという人はゴリアテの首を取ったと書かれています。でも神様は裁くことはありませんでした。ダビデに限らず、聖書の登場人物は人を殺すことがありますが裁かれていません。しかし、先ほどカインがアベルを殺した話を読みましたが、神様はカインを裁かれています。どうしてでしょうか。それは兄弟だからです。

 旧約聖書の時代(つまり、世界に平和の秩序がまだない時代)においては、「殺してはならない」というのは「単に人を殺すな」ということではなく「共同体に属する仲間を殺してはならない」ということを意味していました。攻めてくる敵に対しては戦っても良いということになります。また「共同体に属する仲間であっても、秩序を著しく乱す者は処刑する」ことが許されていました。
 ですので、「殺してはならない」という戒めがありながらも、みんなで石を投げて処刑するという律法さえあったのです。
 これは、個人レベルとして(つまり倫理的に)十戒を見なければならない時と国家レベル(共同体レベル)で十戒を見なければならない時があるということです。
 そうやって考えると「なんじの敵を愛せよ」という誰もが知っているイエス様の言葉も見えてくると思います。
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「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6章27~28節)
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 昔、わたしは「敵を愛するとその時点で敵ではなくなるのにどうやったら敵を愛せるのかな」と思ったことがありました。よく考えるとこれは「敵対する者に対しても愛の業で対応しなさい」それが神の子どもたちの姿ですという意味なんです。

 ですので「善きサマリア人のたとえ」では律法の専門家が「あなたの隣人を愛しなさい」という律法の要求に対してイエス様に「では私の隣人とは誰ですか?」と尋ねる理由も見えてきます。つまり、旧約聖書の時代(イエス様の時代)においては仲間と異邦人に関しては区別があったということです。
 もちろん、旧約聖書を読みますと神様は異邦人に対しては寛容な姿を示しておられます。しかし一度(ひとたび)、イスラエルを攻めに来る国に対しては、神の名にかけてイスラエルを守ろうと敵を滅ぼされる、それが、神様でした。

  さて、今日は、「殺してはならない」という戒めを見ているのですが、どうでしょうか、おそらく皆様は「殺したことはない」と思われるでしょうし、「人を殺すということは考えられない」と思われるでしょう。ですので、この戒めは私には関係ない。そういう風に思われるかも知れません。
 そう思うと、今日のイエス様の言葉は、私たちに少し厳しい感じがするかも知れません。

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 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
                     (マタイ5章21~22節)
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 ここで、「ばか」「愚か者」という言葉がありますが、日本語でそう訳しているのであって、実際にギリシャ語の意味は少し違うところにあります。例えばこの「ばか」という言葉は、良く子どもが相手をののしるときに使う「ば~か」という言葉とは違うようです。実際は、言葉よりは、相手に対する嫌悪感を表現するような態度だそうです(チッって言ったり、顔をしかめたり、くそっていったりするようなものかも知れません)。そして、「愚か者」というのは、言葉を伴う、さらに、良くない態度や言葉だそうです。
 そう考えると、私たちも直接的に相手を攻撃することはなくても、心の中で嫌な思いが生じることがありますし、男性でしたら、時にムカッときて、舌打ちしたりすることあるかと思います。また、無視するような態度をとったりするのも私たちだと思います。
 イエス様は、どうして、「殺す」ということと「憎しみの心」は同じだとおっしゃるのでしょうか。
 それは、カインとアベルの話から見えてくるかと思います。それは旧約聖書の創世記、アダムとエバの二人の子ども、カインとアベルに起こった不幸な出来事です。
 カインは長男、アベルは次男でした。彼らは、ある時、神様に捧げものを持ってきます。カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来て、アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来ました。神様は二人の捧げもののうち、アベルとその献げ物に目を留められたのでした。そのことでカインは激しく怒ります。そして、その怒りはアベルに向けられ、最後にはカインはアベルを野原で殺してしまうのです。

 カインはなぜアベルを殺したのでしょうか?それは彼の心の中に生じた「怒り」です。「嫉妬」かも知れません。「妬み」かも知れません。加えてそれを制御できなかったからです。神様はカインに「あなたがその心の思いを支配しなければ、その心の思いはあなたをさらに大きな罪へと引っ張っていきます」と諭されています。つまり、心の中の思いが正しい怒りであればいいのですが、そうではない場合、それは行為になって必ず現れてくるということをおっしゃっているのです。それだけ心の思いというのは強いということでもあります。
 イエス様は、「ばか」「愚か者」という言葉が出るときに、すでに、「私たちの心は神さまから離れてしまっている」、また、「神さまの目には憐れな姿になっている」ということをおっしゃっているのです。実際に、自分のその思いが正しいと思っている人は、いつまでたっても神さまの目に憐れに映っていますし、赦せない人の心も神様の目には憐れに映っています。
 正しくない思いから生じている怒りは、我慢をすれば自分の心が痛んできますし、外に放出すればカインのように何か(誰か)に危害を与えてしまいます。
それだけ、怒りというのは、罪の力強いのです。

 しかし、今日、初めにお話しした、十戒の「あなたは殺してはならない」という言葉を「あなたは決して殺さない」「あなたは殺すはずがない」という神様の信頼されている言葉を思いだせたとき、すなわち、わたしは神の子としてこのような思いは嫌なんです。という思いが生じるならば、次のみ言葉が成就します。

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 わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
                  (ヨハネの手紙1 1章6~9節)
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 神様の前に、怒り、妬み、嫉妬、赦せない心、そういった、罪人としての姿を自分で認めることができた人は幸いだと聖書は教えています。
 私たち罪人に求められているのは、罪を犯さないことではありますが、それよりも、罪から逃れれない自分を認め、神様の前にふさわしくない自分の姿に悔い改めることなんです。

 今日の話で、何度もイエス様は、裁判所の話をおっしゃっています。人よりも恐ろしい告発者はサタンです。サタンは、律法(神様の正しさ)を用い、私たちの罪を神様に告発し、私たちを有罪にし、死の世界へと引き連れていこうとします。
 しかし、イエスさまが、わたしたちの罪の全てを十字架でご自身の罪としてくださったとき、そして、ご自身がその罰と神の怒り呪いをすべて受けてくださることによって、私たちは悪魔がいくら告発したとしても、死は私たちを支配することができなくなっているのです。

 そのようにしていただいた私たちに求められていることは何か・・・

 それは、心の中に生じる悪い思いを正当化せず、赦す心がないことも認め、そして、神様の前に罪深い姿である自分を神様の前に認めることです。すると、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められるのです。そして、心が解放されてゆきます。

 律法を語る神さまではありますが、同時に神様は、滅びを望む方ではありません。「生きて欲しい」と願っておられます。その二つの相いれないことがイエス様の十字架によって解決しました。

 「あなたは殺してはならない」「殺さないはずだ」そうおっしゃる神様は、罪を犯す私たちに対して、「そうですか仕方ないですね。では死刑です」そんな風にはおっしゃいません。そうではなくて、私たちが「殺す傾向をもった人間になってしまった」ことを悲しみ、憐れまれたのです。そして、ご自身の御子の身代わりにすることで、私たちを救おうとされたのです。三位一体の神様ですからそれは、ご自身の身を切ることで、私たちを生かそうとしてくださったのです。

 「生きて欲しい」この思いは、自分の愛する人に対してであれば、だれでも「アーメン」という思いになるかと思います。神様はこの世界に生を受けた人すべての人に「生きて欲しい」と願っておられます。だから「殺してはならない」のです。まずは、イスラエルという小さな共同体の中での同胞を殺してはならないという規範をお語りになりました。そして、イエス様によって全世界の人が神の民となったとき「どのような人であっても殺してはならない」「平和を実現しなさい」とおっしゃるのです。
 「あなたは殺さない」とおっしゃる神様は「あなたも全ての人に対して生きて欲しいと思って欲しい」そう願っておられるのです。

 「殺すな」という戒めは「殺さない」ことだけで実現するのではありません。本当の神様の思いが自分の思いとなった人は「人を生かす業に励む人」「平和を実現する人」となっていくのです。