宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 ルツ記 2章  1~13節

 「父と母を敬いなさい」

 おはようございます。
 ある陸上選手を指導しに来たコーチの話しです。陸上選手は、速さを追及して努力します。特に、代表選手になろうと思えばなおさらです。ある時、海外から特別にコーチが来たのですが、その時、コーチは選手達にこう言ったそうです。『一流の選手の走る時のフォームはこのようになっている』。その後、選手たちは一生懸命そのフォームになるように、練習を重ねたそうなんですが、思ったように速くならないんです。月日が流れ、再びその海外のコーチが来た時に、『教えて頂いたフォームになるように練習しているけれども、どうして早くならないのですか?』と選手が尋ねると、その海外から来たコーチは彼らにこう答えたそうです。

「誰がそのフォームで走れば早くなると言いましたか?一流選手のフォームは共通してそのようなフォームになっている」と言ったのです。
(話が分かりやすいように、実際の会話を少し変えています)
 
 これって非常に大切なことを言っていると思います。
 
 信仰という視点で考えても同じことが言えます。つまり、「他の人より神さまの祝福を受けている人は共通して礼拝を大事にしている」ということと「礼拝に毎週でれば、神さまの祝福をいっぱい受ける」と言うのとは似ているようで違うという事と同じです。

 以前に主の祈りの学びの時もお話ししたのですが、大事なこと覚えていますか?主の祈りで大事なことは主の祈りは願いであるということでした。つまり、祈ることも大事なのですが、もっと大事なことは、主の祈りの内容が「“わたし”の心からの願いになる」ことなんです。そして、主の祈りが「わたしの心からの願い」になった時に、イエスさまの思いに近づくことができるんです。この時、信仰の喜びがこれまで以上に生じますし、生き方も大きく変わります。

 同じように、十戒も、してはならないこと、しなければならないこととして、受け入れ守ることは大事なのですが、さらに大事なのは「その戒めをなぜ神さまは命じられたのか」ということ、また、その奥にある「愛」を知ることなんです。すると「守らなければならない」という人から「守りたい」と思える人に変えられるのです。
 
 主の祈りも十戒もそうですが、信仰生活は、そのようなゴールに向かって進んでいます。恐らく、クリスチャンとして尊敬する人、素敵に思える信仰生活をおくっている人、一人や二人は、思い浮かぶ人いらっしゃるかと思います。そのような方になれないな・・・と思うかも知れませんが、そのような方々も、色々な道を通りながら、そのような人に変えられていったのです。

 一流選手と同じことをしてもすぐには同じパワーを発揮することができませんが、それでもだんだん近づき、上達していくのと同じように、信仰生活もまた、礼拝を大事にし、祈りを大切にし、戒めを重んじるようになると、だんだん、「あの人の信仰はすごいな」と思っていた人と同じように変えられて行くのです。

 さて、今日は、十戒の「父と母とを敬え」という戒めを見ていますが、この戒めは、問題のない両親と、そうでない両親に育てられた人とでは、重みが違うのではないかと私は思います。わたしは、母子家庭だったこともあり、あまり、父親に対するイメージが良くないんです。ですので、「父と母とを敬え」という教えは、昔、「無理ですね」と軽く受け止めていました。
 とは言っても、私の場合は、まだまだ、ましな方だと思います。世の中には悪い親がいます。虐待されている子ども達がいます。そのような親に育てられた人からすれば「両親を敬え」との戒めは、命じる聖書(また神さまご自身を)さえ否定したくなると思います。

 この前、深夜に遠くの方で迷惑な音を立てて走っているバイクの音が聞こえてきました。遠くの方なので大きな音ではありませんでしたが、蝿の飛ぶ音のような排気音がず~っとなり続けていました。鬱陶しいなぁと思う反面、どこか、親に愛されなくて泣いている人間の泣き声、叫び声のように感じて、逆に可哀想になりました。ほんと、私達の人生の鍵を握っているのって、両親だと思いませんか。動物も親がそれぞれいますが、人間の両親って違いますよね。子どもの人生の鍵を握っているのが両親です。
 そのように親に権威を与え、秩序立てられたのが神なのです。

 私は、父に恵まれた感じはしませんでしたが、母が立派な人だったので、今の私があるのだと思っています。もちろん、今では、母も、父にも感謝しています。

 ところで、「父と母とを敬え」というこの戒めの「敬え」という言葉ですが、「重い」というニュアンスを持った言葉でもあります。つまり、日本語では「敬え」となっていますが、もう少し、聖書的なニュアンスに近づけますと「親の存在を重く受け止めて行動せよ」というイメージなんです。「軽んじてはいけない」という感じです。もう少し、具体的に言いますと、「存在を重んじて、感謝して、面倒を見る」という感じです。

 イエスさまが、ファリサイ派の人や律法学者の人たちを批判して言った言葉ご存じでしょうか。イエスさまはこうおっしゃっいました。

*******************************************************************
 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者(悪く言う者)は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。   (マルコ7:10-12)
*******************************************************************

 このイエスさまの批判は、親を「敬っていない人」に対してよりは、「扶養の義務を軽んじている人」への批判であることがわかります。これは、親を養うのが嫌で、持ち物を「神さまへの捧げものですから差し上げれません」と言えばそれで済むという解釈を勝手に作りあげたことへの批判です。

 実は、十戒の「父と母とを敬え」というのは、「親の言う事を聞きなさい(従いなさい)」という命令よりは、「存在を軽んじてはならない」という意味合いの方が強いと言われています。実際に十戒の「殺すな」「姦淫するな」という内容を見ても、それは、子どもに対しての戒めと言うよりは、大人に対する戒めであることからもわかります。つまり、存在を軽んじないということは、両親を大切にし、生活できるように助けよということなんです。

 そのようにして考えると、今日、お読みいただいた、ルツ記のルツの姿こそ、十戒のこの戒めを心から実行した人の姿であると言えるのです。

 少し、ルツ記を解説したいと思います。ルツ記は短い書簡なので、是非、家で通して読んでみてください(ルツ記はとても興味深い書簡です)。

 ルツ記ですが、ナオミというユダヤ人女性が登場します。ナオミには、夫と二人の息子がいました。ある時、イスラエルが飢饉に見舞われ、仕方なく、ナオミの家族はモアブという異邦人の地に逃れて行きます。そこで、ナオミの息子二人は、妻をモアブ人からめとるのでした。一人がオルパ、そして、もう一人がルツなのです。結婚をするまでは良かったのですが、残念なことに、孫ができる前に、息子二人は死んでしまいます。実は夫も既に亡くなっていました。先の見えないナオミですが、イスラエルがまた作物ができるようになったと聞いて帰ることを決意します。
 さて、ナオミは、二人のお嫁さん、オルパとルツに対して、「わたしと一緒に帰る必要はないですよ、このモアブの地で、新しい人を見つけ、家庭を築きなさい」そう言って、二人をモアブの地に残そうとしますが、ルツだけが「どうしても着いて行く」と、言う事を聞かないのです。

 ルツは説得するナオミにこう言います。『あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行きお泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死にそこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。』
 この言葉に、しゅうとめに対する思いやりを見ることができます。
 結局、ナオミとルツだけがベツレヘムに戻って行くのですが、そこで待っているのは、貧しい生活でした。若いルツは自分と義理の母(ナオミ)のために、落ち穂拾いを始めるのです。そんな、ある時、ルツはボアズという有力な領主(だと思います)の畑の落ち穂を拾っていました。すると、ボアズは召使に「あれは誰か?」と尋ねます。すると、ナオミの嫁のルツだと召使は答えるんですね。するとボアズはルツに対して「よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。私の畑で存分に拾いなさい」「喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい」など、思いやりの気持ちをいっぱい示すんですね。でも、それは、ルツが若い女性だからではなかったんです。『どうして、よその者のわたしにそこまでご厚意をくださるのですか?』と尋ねるルツに対して、ボアズはこう答えています。

*******************************************************************
「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。
(ルツ記2章11節)
*******************************************************************
 ボアズが見た、ルツの美しさは、そのような義理の母に対する優しさ、思いやりだったんです。義理の母を敬う気持ち、具体的には一生懸命生活を支える姿がボアズの心をとらえたのです。

 十戒の父と母とを敬えという神さまの戒めは、他の戒めと異なり、こんな約束があります。


*******************************************************************
 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。(出エジプト記20章12節)
*******************************************************************

 恐らく、多くの人が、両親を大事にする人を見ると、関心すると思います。実際に、ボアズの目にも、ルツは素晴らしく映りました。だからこそ、ルツは、ボアズの厚意を得ることができ、そして、最後には、ボアズはルツをめとるまでに至るのです。十戒にある神さまの戒めの約束(『そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる』)が成就している姿をここに見ることができると思います。

 実は、このボアズとルツの数代後に、ダビデが生まれ、そして、ずっと先になりますが、イエス・キリストがお生まれになるのです。さらに言えば、ボアズの母は、ラハブと言って、彼女もまたルツと同じ異邦人、さらに、ラハブはエリコの町で、イスラエルの二人の偵察部隊をかくまった(異邦人なのに)信仰深い女性なんですね。ルツ記を見ますと、ボアズって信仰深い人なんですが、おそらく、両親が良い両親だったので、ボアズも霊的に豊かに育てられたのだと思います。また、異邦人を大切にしたのは母親が異邦人だったからだと思います。

 両親を敬う・存在を大切に思う生き方は、創造の秩序を美しく保つ生き方です。
 最初に陸上選手の話しをしましたが、神さまの祝福を受けている人は共通して親を大切にしておられると思います。すでに親を天におくった方であれば、お墓参りをしっかりしておられます。
 今日は、十戒の「父と母とを敬え」からお話ししました。覚えて頂きたいのは、動物と違い、両親に権威を与え、親子の秩序を定められたのは神さまです。神さまは、この秩序の中に、豊かな人間関係の実りをもたらすように定められました。この戒めを守る人には、神さまからのご褒美が実りとして与えられるのです。
 ご褒美が欲しくて、義務だけであったり、形だけ真似てもいけません。大切なのは、年を取っているからと言って軽んじるのではなく、心から、(義理の父母を含めて)両親の存在を重んじる心です。

 神さまの祝福を受けている人は、共通して親を大切にしておられるということの意味を再度考えてみていただければと思います。