宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 ヨハネ  5章 31~47節 
 ガラテヤ 3章 22~27節

 「安息日の主役イエス」

 おはようございます。
 まず、みなさまに一つクイズを出したいと思います。

 ある家族に一人の年を取ったおじいちゃんがいました。そこに、死神がやってきます。死神はおじいちゃんを死の世界(つまり黄泉の世界)に連れて行こうとするんですね。そこに1人の孫が表れて、こう願います。「あと、2年待ってください」。すると死神は「よろしい、あと、2年待ってやろう」。そう言って去って行きます。そして、2年後、再び、死神はやってきます。すると、もう1人の孫が、「もう少し、あと、1年待ってください」と願います。すると、死神は、「よろしい、あと、1年待ってやろう」そういって去って行きます。さて、1年後、再び死神はやってくるのですが、今度は、3人目の孫が、火の着いたローソクを持って来て、こう言うんです。「もう少し、この蝋燭が燃え尽きるまででいいので待ってください」。すると、死神は「よろしい、その蝋燭が燃え尽きるまで待ってやろう」そういって帰って行きます。しかし、死神は、2度とおじいちゃんのところにはやってこなくなりました。
 さて、どうして死神は、おじいちゃんの所に来なくなったのでしょうか?分かりますか?あ、これは聖書の話しとは関係ありませんので、イエスさまとか罪とか関係ありません。単純なクイズですのでお間違えのないように。

 3人目の孫が言った「このローソクが燃え尽きるまで待ってください」という願い。この願いを聞いた悪魔はどうしておじいちゃんのところに2度とやって来なくなったのでしょうか。

 答えは、孫が火の着いたローソクを見せて「このローソクが燃え尽きるまで待って欲しい」と願い、悪魔がその願いを聞き入れ、去った後で、その孫がそのローソクの火を吹き消したからなんです。燃えないローソクは燃え尽きることはありません。これが正解です。わかりました??はずかしい話、わたしはわかりませんでした。

 時間というのは過ぎ去って行きます。今という時は、戻ってきません。でも、時計を見ているとあまりそのことが実感できないものです。

 今、10時●●分ですが、今日の夜にも同じ10時●●分がやってきます。明日も、10時●●分は、2度やってきます。時計はぐるぐる回るだけなので、時計を見ていると、時間の感覚としては、「同じ日の繰り返し」というイメージが強くなると思います。ですので、「明日もある」という風に「時間は永遠である」というイメージがつくかと思います。

 先ほど、燃え尽きるローソクの話しをしましたが、時計の中でも砂時計はどうでしょうか。ちょっと、砂時計をイメージしてください。
 同じ、時の流れを教えてくれる“時計”なのですが、砂時計は、与えられた時間が「限りある」ということを、見える形で教えてくれる時計だとは思いませんか?ある本で「なまけ者よ砂時計を見よ、あなたに与えられている時間は無限にあるのではない」という諭しの言葉を読んで、ちょっと時間に対するイメージが変わりました。

 私たちが時計やカレンダーを見ているならば、「時は巡りくる」という感覚を与えられると思います。「価値ある与えられた時間が消えていく」そのようなイメージって湧きにくいと思います。しかし、砂時計は、「わたしの限りある時間が無くなって行く」そのような時間の価値を教えてくれるのではないでしょうか。

 最初におじいちゃんと死神のクイズを出しましたが、小さい頃(若い頃)、私たちの時間って、限りあることは分かっていても、どこか、永遠に存在しているようなイメージだったと思います。しかし、歳を取ると時間は、「わたしに与えられている時間」「残された時間」「限りある時間」という本来の価値ある時間に気づくようになってきます。そこが大事なんです。

 「巡りくる時間の感覚」から、「限りある時間の感覚」に移される時、私たちは、ようやく、永遠の存在である「神」に目が向けられ、私たちは、永遠の命を与えようとしてくださっている「神さま」と出会うのです。

 イエスさまは次のようにおっしゃいました。
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永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)
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 神さまは、永遠の存在です。しかし、聖書は、私たちは、土に返る時がくることを教えています。でも、それは、『私たちが、高慢に生きるのではなくて、神に立ち返るためです』。そのために、神さまがあえて「土に返る」という定めを人間に与えられたと私は思います。

死があるからこそ、神を求めることができるのです

 さて、今日の聖書箇所、ヨハネによる福音書5章39~40節ですが、イエスさまは、こうおっしゃっています。

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 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
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 これは、聖書(旧約聖書)を信仰しているユダヤ人たちにイエスさまがおっしゃった言葉です。特に、「知識において聖書を良く知っている律法学者の人たちに」、また「聖書の教えを厳格に守ろうとしているファリサイ派の人たち」にイエスさまは言っておられます。
 彼らは、旧約聖書に書かれた神の言葉を良く学びました。また、一生懸命に実行してきました。しかし、イエスさまのことを受け入れることができなかったのです。なぜならば、彼らは「聖書が『律法を守ることによって人は救われる』と教えている」と誤解していたからです。
 
 聖書は、全ての人が神さまの前に罪人であり、全ての人がキリストの贖い(つまり、罪の赦し)を必要としていると教えています。実は、律法は、そのことを人が悟るために与えられたと聖書(新約聖書)は教えているのです。
 今日、お読みした、ガラテヤの信徒への手紙3章22~27節でパウロはこう言っています。

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 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。信仰(=キリスト)が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰(=キリスト)が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
 しかし、信仰(=キリスト)が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係(=律法)の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
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 神は、なぜ、十戒に始まる律法を人間にあたえ、「守るように」教えられたのでしょうか。もちろん、それは、守るためでもありますが、実は、私たちが、罪人(つまり神さまの前に相応しい存在ではない)ことが分かるため、また、イエスさまの存在が私達には必要不可欠であることを悟らせるためだったんです。

 さて、『あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ』とイエスさまがおっしゃいました。旧約聖書の記述でイエスさまのことが良く分かるものが(律法とは別に)もう一つあります。

それは、“まつり”です。

 教会では、もうすぐ、クリスマスを迎えます。教会では他にもイースターがあります。ペンテコステもあります。それらは、旧約聖書の“まつり”と関連しています。
 昔、イスラエルの人たちは、エジプトで奴隷になっていました。そのイスラエルの人たちを、神さまは憐み、助け出されたのです。海が真っ二つに割れるというシーンを映画や絵本で見たことある人も多いかと思います。神さまは、イスラエルの人たちをエジプトから助け出し、約束の地(今のイスラエル)に迎え入れたのですが、その時、神さまは、彼らに、この救いの出来事を忘れないようにと3つの“まつり”を祝うように命じられました。

 その三つとは、①春にある、過ぎ越し祭り(犠牲の祀り事)と除酵祭(収穫の祭り)。②その50日後にある七週の祭り(収穫の祭り)。そして、秋に行われる、贖罪日(犠牲の祀り事)と仮庵の祭り(収穫の祭り)です。

 で、難しくなって申し訳ないのですが、これらのまつりは、ユダヤ人にとっては民族の歴史の上では、エジプトでファラオの奴隷として、苦役に課せられた状態からの救出を覚えるまつりなのですが、
 
 私達にとっては、これらのまつりは、イエスさまによる人類の救済の道筋を教えるまつりでもあったのでした。

 エジプトで奴隷になっていたユダヤ人は、モーセによって助け出されました。その時の象徴的な出来事は、動物の血を家の玄関に塗るということと、逃げていく際に、目の前の海が真っ二つに割れるという出来事でした。
 イエスさまは、悪魔の支配による罪と死の縄目から私たちを助け出してくださいました。もちろん、十字架で流された血は犠牲の血であり、また、イエスさまが十字架で死なれた時、海ではなく、神殿の垂れ幕が二つに裂けました。これは、神さまの国への扉が開いたことを意味しています。さらには、イエスさまが復活した日は、初穂のまつりの日でした。
 また、七週のまつりは、ユダヤ人にとっては神の民となった日として祝う日なのですが、私達は聖霊の力により、キリストによる教会が誕生した日としてお祝いしています(天から十戒、天から聖霊)。
 また、仮庵の祭りは、イエスさまが家ではなく仮の住まいである家畜小屋でお生まれになったことにもつながりますし、また、イエスさまご自身が、体と言う粗末な人の体を住まいとしてくださったことと重なっています。もちろん、贖罪日はイスラエルの民の一年間の全ての罪のために儀式が行われた日なのですが、イエスさまの十字架によって全ての罪の赦しが与えらえたという点でもこの日と重なるのです。

 つまり・・・。イスラエルの人たちが一生懸命、何千年も前から守って来たまつりというのは、実は、イエスさまが霊的に何をしてくださるお方なのかを教えるまつりだったんです。

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 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
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 他にも、聖書には、イエスさまのことが沢山書かれているんです。旧約聖書を学ぶというのは、実は、イエスさまを学ぶということなんですね。

 さて、砂時計の話しに戻りながら、イエスさまはどのような方なのか、そして、安息日のもう一つの意味を最後お話ししたいと思います。

 「安息日を覚えてこれを聖とせよ」という戒めですが、この前。マリアとマルタの話しを見ながら、イエスさまとの交わりのために、一切の肉の業を意識してとめることの大切さをお話しいたしました。
 で、今日は、もう一つの側面をお話ししたいと思います。確かに週の一日を特に聖別して、イエスさまとの交わりの日にあてるのですが、広い意味では、

実は、毎日が安息日なんです。

 神さまと私達の間を隔てる覆いがありました。しかし、イエスさまの十字架によって、全ての罪の赦しを与えてくださった時に、新しい時代が始まったのです。そのことが「葦の海(モーセ)」ではなく、「神殿の垂れ幕が割けた」ことが象徴しています。毎日が、神さまと聖なる深い交わりが許されているというか、回復された交わりの日なんです。
 とは言っても、新しい天と地が現れるまでは、私たちは生きるために働かなくてはなりません。ですので、週に一度を特別な日として(つまり安息日として)、イエスさまが復活した週の初めの日を礼拝の日としたのです。私たちは、こうして、週に一度、み言葉を聴き、聖餐式を受けることによって、イエスさまが私の主であり、わたしに命を与えてくださる方であること喜ぶのです。

 最初に砂時計の話しをしました。私たちの人生という名の砂時計は、以前は、寿命を意味する怖い砂時計でしかありませんでした。しかし、今は、そのような意味で見る必要はなくなりました。もちろん、死はいつまでも嫌なもので、恐ろしいものではあります。でも、イエスさまは同じ死を、最も苦しい思いと痛みの中で通って行かれました。そして、復活なさり、「あなたも同じように復活します」と宣言してくださっているのです。
 そのような意味で言うならば、人生という名の砂時計は、神さまと会えるまでの時を知らせる時計と言えるのかも知れません。

 さて、最後になりますが、「イエスさまは救い主」であるという言葉を使います。イエスさまは十字架でわたしの罪の赦しを与えてくださいました。
 しかし、「イエスさまは、私たちを救ってくださっ“た”」のではありません。え?、と思われるかも知れません。そうではなく、イエスさまは「今日も私たちの救い主」なのです。イエスさまの救いは過去の話しではありません。過去のイエスさまを覚えて、今、礼拝しているのではありません。今、救い主であるイエスさまと信仰と霊とを持って交わっているのです。救い主であるイエスさまは進行形であるということを是非忘れないで欲しいと思います。イエスさまは日曜日の主役、そして、毎日の主であること、毎日が神と隔てなく交われる喜びの安息日であるということ。そのことを忘れないでください。