おはようございます。先ほど、読んでいただいたコリントの信徒への手紙ですが、パウロはこう言っています。
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わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
(2コリント4:18)
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わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます・・・。わたしたちは、『見えない存在』に目を注ぐ必要があります。パウロはそう言っているんです。昔の人にとって目に見えない神さまの存在を信じることは難しくありませんでした。困った時には、神さまにすがってきました。でも、今の時代はそうではなくなってきています。
聖書は、見えない神さまがどのような方なのかを示した書物です。人間と関わり、交わりを持ってこられた神さまのことが書かれた書物です。そして、今でも、交わりをもって関わってくださっている神さまに目を注ぐように教えるのも聖書です。
神さまと同じように、見えませんが大切なものがあります。それは命です。「こうやって生きているじゃないか?」って思われるかも知れませんが、私たちの体は、命が肉体をまとっているような状態です。ですので、日本人はそれを魂とか霊という風に別の言葉を使っています。
私たちの命(魂・霊)は永遠に存在し続けます。たとえ、私たちの体が土に返るようなことがあったとしても、私たちの命(魂・霊)は永遠に存在し続けるのです。
だからこそ、その命(魂・霊)が一番必要としていることに目を留めなさい(気づきなさい)と聖書は教えているのです。
神さまは見えません。しかし、神さまが啓示された聖書を見ると神さまの事が分かるようになってきます。アダムとエバとどう交わられたのか、ノアとその家族をどうお救いになったのか、モーセを通してどうイスラエルの民をどのようにエジプトから救出されたのか、アブラハムに未来をどう約束されたのか、ヤコブとどう歩まれたのか、ダビデはどのようにして勝利したのか・・・。聖書は私たちに生き方を教えているのに加えて「神がどんな方か」「神は私たちのために何をしてくださる方なのか」ということを記した書物でもあります。
「どんな方か・何をしてくださる方なのか」が分かると、「どう生きるのかが分かってきます」し、「神さまが私を良いように変えていってくださる」ということも分かるようになってきます。
今、十戒を礼拝の中で見ていますが、今日は、「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めを見たいと思います。
ここで、まず大事なのは「主の名」とは何かということです。「主の名」「神のみ名」と聞きますと、単なる「お名前のことかな?」と思うかも知れませんが、そうではありません。ここで言う「主の名」というのは「神さまのご性質もしくは存在そのもの」という意味です。
つまり、「主の名をみだりに唱えてはならない」というのは、神さまのご性質もしくは存在そのものを『汚すような(誤解されるような)言い表し方をするな(用い方をするな)』ということです。
具体的に言えば、たとえばクリスチャンが神社にいってお参りや祈願してもらったり(自然に親しむ、文化財として見物するのは良いかと思いますが)すれば、他の人は「唯一の神ではない」とか「物足りない神」って思いますよね。他にも、「信じたけど良いことないわ」と証しをしたり、神さまのことを呪ったり、また、人に嘘の神さまの姿を教えたり(間違って教えるということもあるかも知れませんが)そのようにするのも「み名をみだりに唱える」ということになります。
注意して欲しいのは、神さまは、本当に素晴らしい方で、愛の方だし、力ある方だし、憐み深い方だし、知恵ある方、間違えのない方です。それと逆のことを口に出す、唱えるということを禁じているわけです。
もちろん、神さまは、願う事ばかりをくださる方ではありません。苦難・困難もくださる神さまで、私たちの願うこと全てが叶うことなく、むしろ、自分の十字架を背負って私についてきなさいと、試練や苦難を、恵みと一緒に加えて与えられるのが神さまです。でも、その試練や苦難が、私たちを1謙遜で愛情深い人間に変えて行き、また、見えない神さま、見えない命に気づく(目を注ぐ)きっかけになっていくんです。
むしろそのように困った時に、いつでもみ名を呼び求め、常に祈り、賛美し、感謝するならば、それは、十戒を守っている姿でもあるんです。恐らく、人はその神により頼む姿を見れば、神さまを良いように判断してくれるはずです。
私自身、神さまに不平を言う事は多々あっても、み名を呼び求め、常に祈ることしていないなぁって反省させられました。
さて、見えないもの。それが、神であり、命(魂・霊)である。そのことをお話ししましたが、見えない神さまが、より深くご自身のことをお示しになられたのが、イエスさまのお姿でした。
そのイエスさまのお姿が描かれたのが、今日の聖書箇所です。イエスさまがどんな病でも癒せることは、村々、町々に知れ渡りました。ですので、イエスさまの周りには多くの人が集まってきました。今でもそのような人がいれば、世界中から人々は集まって来るかと思います。当時は、インターネットや携帯電話もない時代ですから、世界中から集まってくることはないのですが、それでも、ごった返すほどの人が集まってきたのは想像できるかと思います。マタイによる福音書には描かれていませんが、この中風の人(体が麻痺しているので連れてきてもらっている)は、玄関からイエスさまに近づけないので、天井をめくって吊るされて降ろされたんです。
その彼を見て、イエスさまが最初におっしゃったのが、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言う言葉でした。
当時は、重い病気(治らない病)にかかるのは、その人が何か悪いことをしたからだと思われていました。今でも、病気になった時に、すぐ治ることが分かる病ですと、しんどいですけど気は楽ですよね。でも、難病とか癌とか治らない病気、死に至る病にかかると、「何でかな」って考えることあるんですね。「何か悪いことしたかな」「これを止めたら治るかな」とか考えるんですよね。
当時は、今ほど、医学が発達していない時代なので、自然治癒力でなかなか治らない病って多くありました。その分、医者にかかるだけでなく、神さまの前に憐みを求めて癒してもらおうと思う人多かったと思います。
ですので、この中風の人も(想像ですが)当時のお医者さんでは治せなかったでしょうし、不思議な力を持つイエスさまに憐みを求めてやってきた訳です。そのような状況の中で、イエスさまがおっしゃったお言葉が、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」という言葉でした。一見、関係ないのかなと思う言葉ですが、これは、中風の人にとっては「治りますよ」と聞こえるんです。先週の10人の重い皮膚病の人たちも「祭司に見せなさい」とイエスさまはおっしゃいました。これも、これも彼らにとっては「治りますよ」と聞こえるんです。この中風の人も「治るよ」という意味を込めて、イエスさまはおっしゃったのですが、律法学者の人たちは、気にくわなかったのです。彼らは、心の中で「この人は神を冒涜している」そう思ったのでした。
「主の名をみだりに唱えてはならない」この戒めは、レビ記の中では、さらに「神の名を冒涜してはならない」もしくは「神を冒涜してはならない」という厳しい禁止事項に拡大されていました。これを破ると死刑に処せられる罪なんです。律法学者たちは、「罪赦す」というのは神にのみ赦された言葉なのに、この人は、神のように「罪赦す」と宣言しているのはおかしい(罪だ)と捉えたわけです。もちろん、間違ってはいないと思います。
今、聖書をベースにしたややこしい宗教がいくつかありますが、多くの場合、教祖と言われる人がいるんです。また、嘘の癒しの奇跡を流布するんです。
私たちからすれば、神を冒涜していると思いますし、実際、そうだと思います(死罪です)。ですので、律法学者がイエスさまのことをそう思うのは間違ってはいません。
その彼らにイエスさまはこうおっしゃいました。
『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
ここからが、イエスさまが「ご自身が神の子メシアである」ということをお示しになる時です。
『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか
これは、どちらが易しいかと言えば、「あなたの罪は赦される」と言う方です。なぜなら、赦されたかどうかが、見た目には分からないからです。一方で、「起きて歩け」というのはどうでしょうか。もし、「起きて歩け」と言って、歩くことが出来なければ、嘘つきだということがばれてしまいます。なぜなら、見えるからです。実際にこう言った病は、医者も呪術師も治せなかったと思います。ですので律法学者の経験からしても「起きて歩かせるのはほんと無理なんです」。
で、イエスさまは、どうおっしゃったかと言いますと、
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」
そう言われたんです。
イエスさまは、見た目に効果が見える奇跡、癒しの奇跡を起こされました。しかも、薬を使うことも、儀式をすることも、呪術を装うこともせず、ただ、言葉だけで、癒されました。
イエスさまは、それを行うことによって、ご自身が神の子メシアであることを知らしめ、ご自身が、「正しい人ではなく、罪人を招くために来た」つまり「罪の赦しを与えるために来た」ということを公にお示しになったのでした。
見えないものを信じることができない私たちに、見える出来事から、見えない神に目を向けさせ、信仰を持たせようとされたのです。
実際に、イエスさまの奇跡を見た人は、驚き、恐れ、賛美した、と書かれています。
まだ、イエスさまが神の子であるという信仰はなかったかと思いますが、人々は、イエスさまは、そのお言葉どおり『罪を赦す権威を持った方、神さまから遣わされた方だ』という信仰を持ったのです。
私たちは、時に、同じような奇跡がイエスさまの名によって祈れば起こればいいのになって思う事あるかと思います。もちろん、御心であれば、時が満ちれば神は病をお癒しになります。これは、事実なんです。しかし、どんな時でもという風にはいかないと思います。
それは、今日の話しで、イエスさまが、「罪は赦す権威をもっている」ことを示すために癒されたということからも分かるかと思います。
最初にお読みした、コリントの信徒への手紙にこうあります。
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わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
(2コリント4:16~18)
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また、福音記者ヨハネはこう言っています。
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このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
(ヨハネ20:30-31)
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神さまは見えません。しかし、信仰によって捉えることができます。信仰によって、私たちはイエスさまが今も生きておられ、私たちと深き交わりを持ってくださっていることを知ることができます。また、信仰によって、イエスさまは、神の子メシアであり、私たちに罪の赦しを与えるために、十字架に掛かられたこと、そのことによって、私たちは、神さまとの関係が回復したことを知るのです。そのことによって、私たちの命(魂・霊)は永遠に神と共に住まうことができることを知るのです。
「主の名をみだりに唱えてはならない」というのは、私たちのために、ここまでしてくださる神さまの御業を、汚すよりもむしろ「御名が聖とされますように」「多くの人があなたを賛美する時がきますように」と願うことなんです。
是非、神さまのみ名を、礼拝の中で賛美する、信仰と喜びを持ってください。そのような人を神さまは豊かに祝福してくださいます。

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