宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 マタイ による福音書 6章 25~34節

 「生きた神への信頼」

●生きた神
 冗談のようなホントの話しです。おばあちゃんが大往生でご自宅で息を引き取られたんですね。そこに集まっていたお子様たち、遺産相続のことを話しだして、印鑑はどこよ・・・と探していたら、かすれた声で「箪笥の一番上の引き出し・・・」と声が聞こえて来たそうです。おばあちゃんは生きていたんです。

「生きた神への信頼」そのことを今日、お話ししたいのですが、「生きた神」というのは、命がある神ということではありません。「生きた神」というのは「生きて力ある業をなしてくださる」という意味で「生きた神」です。

 神さまは、農夫のように、私たち一人一人のために、豊かな良い実りを実らせるようにと、私たちの心を耕し、また、種を蒔き、心を注ぎ、育ててくださる神です。
 昨日も私たちを育ててくれて、そして、今も、私たちが信仰が豊かになるようにと業を為し続けてくださる農夫のような神さまです。
 私たちは、そのように、生きて働かれる神さまを知り、深く信頼しなければなりません。

●まだ何か欠けているでしょうか
 さて、ある時、イエスさまのところに一人の男性がやってきて、イエスさまに「永遠の命を得るためにどうしたら良いのでしょうか?」って尋ねました。イエスさまは、その人に対してシンプルに「神さまの戒めを守りなさい。そうすれば、永遠の命を得られる」そうお答えになりました。それを聞いた男性は「では、どのような掟でしょうか?」と尋ねると、イエスさまは、こうおっしゃいました。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』。これは、私たちが礼拝の中で唱えている十戒の後半の部分と、レビ記のみ言葉(19章18節)です(実際にはレビ記のみ言葉こそ、十戒の後半部分を要約したものだとおっしゃっています)。そのイエスさまの言葉を聴いて、彼が言った言葉は、次のような言葉でした。

「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」

●完全ではなかった
 「まだ何か欠けているでしょうか・・・」この言葉を聴いて、イエスさまは、彼を慈しみ、彼にこうおっしゃるんです。「持ち物を全部売り払い、貧しい人に全てを施しなさい」「そして、わたしに従って来なさい」
 
 持ち物を全て売り払い、貧しい人に全てを施しなさい。これは、「最高の隣人愛」です。全てを捨ててわたしに従って来なさい。これは、「神への最高の信仰と信頼の表れ」なんですよね。

 イエスさまの前に現れた男性ですが、イエスさまのこの言葉を聴いて、悲しみながら去って行ったと書かれています。ショックとがっかりした気持ちで一杯だったのかなと私は思います。富に信頼を置いていたからなんですね。裕福だったから気づかなかったんでしょうね。余裕があるときは「わたしには信仰がある」と思いやすいものです。

●ルターの十戒の解説から
 ルターは、十戒の第一戒の解説でこう言っています。「ひとりの神を持つとは、ひとりの神を心から信頼し、信仰することにほかならない」また、こう言っています。「今あなたがあなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうのあなたの神なのである。それゆえにこの戒めの主意は、この戒めが正しい信仰と、唯一まことの神に向けられ、その神にのみかけられる心の信頼とを要求しているということである。それはこう言うにひとしい。「心して私のみをあなたの神とし、他のいかなる神をも求めてはならない」。すなわち、「もしよいものがあなたに不足しているならば、これを私に期待し、私のもとに求めよ。あなたが不幸と困窮とに苦しむときは、私に来て、私にすがれ。私、私こそ、あなたに豊かに与え、いっさいの困窮よりあなたを助けだすものである。他のいかなるものにもあなたの心をかけ、またとどまらせてはならない」と。

●今日の十戒
 先週は「あなたはわたしの他に何者をも神としてはならない」という戒めを見ました。唯一の神を信仰するというのは、唯一の神を「信じているだけではだめ」なんです。そこに、絶対的な信頼と期待するがないといけないのです。
 どんな時でも、どんなことがあっても、信頼し続ける信仰があって、初めて、神さまが本当にくださろうとしている平安、祝福が私たちのものとなるのです。

●どん底
 今日の聖書箇所、マタイによる福音書6章31~33節で、イエスさまはこうおっしゃっています。

*******************************************************************
 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6章31~33節)
*******************************************************************

 私たちって、時々、大きな試練に見舞われることがあります(長い試練)。それまでは、「わたしには信仰がある」と思っていても、だんだん、気持ちが荒れてきて、神さまに対する信頼が小さくなっていくことがあります。「信じていると言っても、疑っている」「愛の神であると心で思っていても、心の奥底ではそうは思えていない」「祈りなさいと言う神さまに対して、聞いてくれないじゃないか」そんな風にだんだん気持ちがすさんでくるものです。
 そういう時、こんな自分に気づかないでしょうか。

わたしの自信があった信仰って、実は、
幸せで心に余裕があっただけだったのかも

 イエスさまの前に現れた、男性と同じです。彼もまた、生活が豊かだったから、動じることも、不安に思うこともなく、神さまを賛美できていただけだったのではないでしょうか。
 私が思うのは、本当の信仰者となるのは、大きな試練の中で、つまり、人生の嵐の中で、ただ神を信じ、神を頼り、神に祈り、神さまから離れてなかった時(正確には後)ではないかと思うのです。

 イエスさまの言葉で注目すべきことは、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」という言葉ですね。
 その中でもまず「天の父は、祈る私たちが何を欲しているのかは、良く知っておられるのですよ・・・」というこの言葉、安心することできるのではないでしょうか。神は聞く前から、私たちが何を欲しているのかをご存じである。これは、聖書の言葉です。ただ知っているのではなく、私たちが切に望んでいることを本当にご存じであるということです。
 そのうえで、いえ、そのような中でも、神の国とその義を求めなさいとおっしゃるのです。つまり、神さまに全幅の信頼を置きなさい、祈りなさいとおっしゃるのです。そうしたら、天の門は開かれ、朽ちない冠があなたに与えらえるというのです。

●必死に祈るってどういうこと?
 余談なのですが、苦しい時、祈りますよね。でも、「祈って意味あるのか?何も変わらないではないか?」そんな思い湧きません?。わたしもそんな時あったのですが、その時、神さまが教えてくださいました。「あなたはどれだけ真剣に祈っていますか?わたしにどれだけ真剣に祈っているのかが、どれだけ私に信頼しているのかのバロメーターです」
 「毎日祈っています」これは必死に(真剣に)祈っている姿でしょうか?日本には「お百度参り」という風習があります。もちろんこれは、多く参ればその分、かなえてくださるという信仰であって、キリスト教とは少し違います。でも必死さは伺えます。
 イエスさまは、何時間も祈っておられました。また、汗が血が滴るように流れるくらい、必死に祈られたと聖書に書かれていますよね。
 わたしが神さまに示されたのは「そのくらい本気で祈ってから、神がどのような方なのかを判断しなさい」そういうことでした。さらに、「祈りはただ解決するためではなく、あなたの心がわたし(神)と交わり、あなたの心が霊的に澄んだ泉のようになるためです」そういうことも示されました。

●神というお方はどんなお方なのか
 神というお方は、耳があります。また、私たちをその目で見てくださっています。何より神さまの心は愛で満ちています。そこが偶像の神、刻んだ像とは違うところです。私たちは「生きた神」と交わりを持っているのです。

 私たちの神は、与える神です。太陽も水も空気も恵みとして無償で与えることによって、神さまは愛(ご自身の大きさ)を示されます。また、私たち罪人を救うために、御子をこの世にお与えになったのも、愛の神だからです。私たちが罪の赦しを必要としているからであり、私たちに永遠の命を与えるためです。
 もちろん、私たちは病にかかるかも知れません。しかし、神さまは恵みを与えてくださいます。私たちが困難にさいなまれるかも知れません。その時でも、神さまは恵みの神であられます。恵みは必ず与えられます。
 種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない鳥でさえ、神さまの恵みの中で生きています。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神の恵みは遠のくことはありません。
 まして、私たちをどうして神さまが気にも留めず、放っておかれることがあるでしょうか。それが、イエスさまのおっしゃりたいことです。

●偶像とは何でしょうか
 最初にお話ししました、裕福な男性の話しですが、彼は、「戒めを守りなさい」とおっしゃったイエスさまにこう言っていました。

「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」

 私は十戒を読む時、特に今日は「自分のために刻んだ像を造ってはならない」という言葉を聴いて「特に反することはしていません・・・」という結論になって欲しくはないんですね。
 確かに、私たちは、偶像と呼ばれる神の像をこしらえることはありません。

でも、私たちは、自分に相応しい神さま像を作ることはあります。

 神さまだったら、こうしてくれるに違いない。これとこれをこれを与えてくれるに違いない。神さまなんだから、こうしてくれないとおかしい。そんな神さまなら、私は信仰しない。そんな風に、自分に都合の良い、神さま像を「聖書にそう書いてあるから」という風に気づかずに作り上げてしまうことあるんですね。

 神さまって、時に、私たちが想像する神さまと違う側面をお示しになることがあります。理不尽に思わることもこの世には(もしくは私たちの周りでは)沢山起こります。
 どうしてなのかはわかりません。
 しかし、どんな時でも、どんなことがあっても、信頼し続けるのを願っておられます。自転車はこぐのを止めたらそれで終わりです。信頼し続け、切に祈り続ける必要があります。しかし、そのような信仰があって、初めて、神さまが本当にくださろうとしている平安、祝福が後に私たちのものとなるのです。

●最後に
 「自分のために刻んだ像を造ってはならない」これは、生きた神である主を礼拝し続けなさいという戒めであり、生きた神が、今日もあなたに何かをしようとしおられるということ知ることであり、また、自分の神感に相応しい神さまの像を造るのではなく、最後までも、理解できない時も、神さまを信頼し続けなさい。ということです。

 聖書にこういう言葉があります。
*******************************************************************
 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(ローマ8章31節)
*******************************************************************

 神さまは与える神です。神さまが私たちに与えてくださった最高のものは、ご自身の御子、イエス・キリストです。誰が、欲しいと望まないうちに、愛する御子を犠牲にできるでしょうか。しかし、神さまは、私たちが望む前から、何が必要なのか知っておられ(つまり永遠の命を持つべきであると考え)、御子を与えてくださいました(実際には御子の命と引き換えに私たちに永遠の命を与えようとされました)。
 パウロは、御子でさえ惜しまず死に渡された方がどうして、私たちを捨てておかれるでしょうか?そんなことはありません。そのように教えているのです。

 「自分のために刻んだ像を造ってはならない」これは、他に頼れるものを造ることも探すこともなく、また、自分の望む神さま像を造ることなく、最後まで、あきらめず、離れず、聖書を通してご自身を示されている「生きた神さま」を信頼し、礼拝しなさいという戒めです。

 「空の鳥にまして、野の花にもまして、私たちの命の事、体の事を大事に思ってくださる神さまです。『まして、あなたがたにはなおさらのことではないか(マタイ6:30)』そうおっしゃるイエスさまの愛の言葉に信頼してください。また、「その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」というパウロの言葉を是非心に留めて欲しいと思います。

今、何か大きな問題を抱えておられる方にイエスさまは「大丈夫です。神から離れてはだめですよ」そうおっしゃっています。