宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 ルカによる福音書 16章 1~13節

 「神と富」

●十戒の書き出し
 おはようございます。これまで、説教で「主の祈り」を取り上げて来たのですが、先週で主の祈りが終りました。ですので、今週から「十戒」を取り上げて行きたいと思います。
 「十戒」は今日お読みした出エジプト記の20章に書かれているのですが、今日、十戒の第一戒を見る前に、20章2節を見たいと思います。こう書いてあります。

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わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
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 十戒のこの出だしの言葉は、すごく大切な言葉です。今の私たちに適用するならばこういう言葉になります。

「わたしは主、あなたの神、
あなたを罪の奴隷の状態から救い出した神である」

 私たちは、今日、こうして礼拝に集っていますが、「わたしは主、あなたの神、あなたを罪の奴隷の状態から救い出した神である」そのように宣言なさる「生きた」神さまを前にして、私たちは礼拝しているのだということを意識しなくてはなりません。
 私たちがこの十字架を前にして、神の御子イエス・キリストが、私を罪から救い出すために天から降りてきてくださったということを信じ、神に信頼する時、それが真の神礼拝となるということを覚えておいて欲しいと思います。

●あなたにとって十戒とは
 ところで、十戒はあなたにとってどのようなものですか?と尋ねられれば、皆さまはどうお答えになるでしょうか?
 
①この世の法律とは違い、私に神の民として生きるための、もっとも基本的な規範を示したものです。というのが良いかと思います。もちろん、それに加えてこう告白しなければなりません。②「しかし、私には、その戒めを守りぬく力はありません」つまり、「十戒は、私が神さまの前に正しいとはみなされない罪人であるということを教えるもの」でもあります。このように答える必要もあります。

●もう一つの見方
 しかし、加えて、もう一つ、皆さまにお伝えしたい十戒の意味があります。それは、

「十戒は、神さまを愛し、また、隣人を愛するために私はどのようなことをしたら良いのかを教えてくれるものです」

ということなのです。イエスさまはこうおっしゃいました。

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「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
(ヨハネ14:15)
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 もし、アダムとエバに、「あなたが神さまを愛する方法はありますか?」と尋ねれば、彼らはこう答えるのではないでしょうか。「善悪の知識の木から取って食べないことです」
 私たちも同じで、十戒を守るのは、してはいけないからではなくて、神さまを愛しているからなんです。

●第一戒はあまり意識しない
 さて、今日、第一戒、「わたしの他に何者をも神としてはならない」という戒めを見たいのですが、この戒めが意味するのは、読んで字のごとく、神さま以外のものを礼拝してはいけないということです。

 恐らく、今日、集っておられる方(正確には洗礼をお受けになった方)は皆さま、他の神さまを信じているということはないと思います。ですので、この第一戒はあまり意識していない方が多いかと思います。
 ただそれが安心感で終わって欲しくないのです。先ほど言いましたように、「神さまを愛する方法」としてこの第一戒を読んで欲しいのです。そうなると、「わたしの他に何者をも神としてはならない」という戒めは、「もっと神さまのことを知ろう」、「もっと神さまに近づこう」、「他の人も神さまだけを信じて欲しい」そのように能動的になって行くのではないでしょうか。
 「してはならない」という戒めは、行動が停まってしまいます。しかし、愛するためにと読むと、むしろ、行動し始めるんです。

 さて、そのような中で、十戒の第一戒を学ぶために、選びましたのが、本日の福音書、ルカによる福音書16章1~14節(新140頁)です。

 では、イエスさまがこのことを弟子たちに教えるためにお話しされた譬え話を見ていきたいと思います。

●不正な管理人のストーリー
 あるところに、一人の管理人がいました。この人は、ある金持ちの主人の財産を管理していた人でした。しかし、その管理人は忠実ではなかったんですね。彼は主人のお金を自分の思ったように使っていたんです。しかしある時、このことが主人にバレてしまいます。主人は彼に「わたしの財産に関する会計の報告をしなさい」そう命じます。もちろん、そんなのを報告したら自分がしてきたことはバレバレです。この管理人は苦しみます。「私は肉体労働はできないし、物乞いにもなりたくない…」そこで彼は機転を利かせ、あることを思いつきます。なんと彼は、主人に借りがある人を呼び集めるんです。そして、来た人、一人一人に対して、「お前は主人にどれだけ借りがあるんだ??そうか、これがお前の証文だ。この数字を低く書き直しなさい」そう言って訂正させていくんです。もちろん、たくらみはあります。彼は恩を売ろうとしたんです。「恩を売れば、将来、何かあった時に彼らはわたしの面倒を見てくれるに違いない」そう考えたんです。

●怒らない??
 さて、このことを知った主人ですが、「お前、何をしてるんだ!」と怒るのではなく、この主人はこの不忠実な管理人の抜け目のないやり方を褒めた。とイエスさまは締めくくられました。私たちからすると、主人の財産を好き放題浪費し、バレたと思ったら、こんどは主人のお金を使って恩を売ろうとする。この男の何が褒められるのか!?そう思わないでしょうか。しかし、ここにイエスさまの深いメッセージがあるんです。

●褒められる点とは
 では、この不忠実な管理人の何が褒められる点なのでしょうか…

 それは、この管理人は、いざ、自分の生活が危ないとなった時に、「この状況で大事なのはお金ではなく友好的な関係である」ということに気づいたことなんです。

 この不忠実な管理人は、やり方・動機は別として、彼は未来の生活の保障を人に親切にすることによって手に入れたんです。

 これは、どういうことかと言いますと、富はあなたに永遠を約束することはありません。富を選ぶのではなく、神さまが持っている永遠の世界に入るために必要な物は何かを知りなさいというメッセージです。

 不忠実な管理人のたとえ話ですが、二つの点に注目すると良く分かると思います。それは、いざ、彼が裁かれる時が来た時の話しであること。そして、もう一つが、彼は、主人の財産を浪費し、主人の財産を使って、友を作ったという点です。

●私たちもそう
 私たちは、それぞれ自分の財産を持っていますが(わたしにはありませんが😢)、それはどこから来たのかと言うと、全て神さまから来ているのです。いやいや、自分で頑張って稼いだものですとおっしゃるかも知れませんが、仕事が与えられたのも、才能や、身体的能力を与えてくださったのも、もしかしたら運も、全て神さまが与えてくださったものなのです。
 そのように、神から与えられたもので生きている私たちは管理人と同じです。しかし、私たちにも裁きの時が来るのです。私たちが最後裁きの座で問われるのは「どれだけ人を愛して来たか(助けて来たか)」ということなんです。富は、私たちを天のみ国に入れてくれません。愛に生きる人が天のみ国に入ることができるのです。

 イエスさまは天のみ国に入る人の事をこう譬えでお話しされました。

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『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25章34~40節)
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 もう一度、今日の聖書箇所を見て欲しいのですが、イエスさまはこうおっしゃっています。

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 不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、お金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
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●身近なところから
 わたし、今、常議員しているでしょ。常議員のメンバーの一人は財務社会厚生部長と言いまして、近畿教会全体のお金(億単位です)を管理する人なんです。もちろん、その人のお金ではありませんよね。近畿教会全体の信徒の方がお捧げした献金が本部に集まっているんです。もう少し細かく言うと、ノルウェーからの献金。昔に信徒の方が捧げてくださった献金も含まれているわけです。しかし、その方が「うん」と言わなければ、財務の財布の紐は緩まないわけです。すると、私たちは、財務社会厚生部長の人にペコペコするわけではありませんが、仲が悪くなったらだめだなって思っちゃうんです。
 これ、財務省の役人さんも同じですよね。生活が困難な人にお金を補助するに際しても、上からですよね。「補助したろう」みたいな。でももとはといえば税金であって、その人たちのお金ではありませんよね。お金を預かり管理するというのは、気づかない間に、自分のお金のように振る舞ってしまうものなんです。(財務社会厚生部長は忠実な管理人です)。

 私たちの富は全て神さまのものです。なのに、「これはわたしのもの。自分の思うように使います」と誤解してしまうのが人間なんです。

 「自分の思うように使って来た」のが、この不忠実な管理人でしたよね。しかし、彼は、富が私の手から離れる時、わたしの命は尽きるとようやく気づきます。すると彼はとっさに、主人の富を使って友を作り始めるのです。友こそ、永遠の生活を保障すると気づいたからです。
 イエスさまは、「この世の子ら(つまり、ずる賢い人)は、富より友を愛する事が大事ということに気づいているじゃないですか。なおさら、光の子ら(神の子ら)であるあなたがたもそのことに気づきなさいとおっしゃっているんです。 富より友を愛することこそ永遠の世界の通貨であることに気づきなさい。ということです。

 今日、私は、「神と富」という題にしました。私が今日、受け取って欲しいことは、まず、「神と富」どちらが永遠の存在ですか(あなたに永遠を約束することができますか)?ということです。もちろん、「神さま」ですよね。

 イエスさまは、16章13節でこうおっしゃっています。

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 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
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●ダイヤモンド
 ダイヤモンドのキャッチフレーズに「ダイヤモンドは永遠の輝き」というのがありましたよね。それを聞いたら、「持っていたい」って思うキャッチフレーズじゃないですか。ダイヤモンドって永遠ですか?輝きは永遠であったとしても、それを愛したところで、私は永遠ではありません。
 私たちは、こう言わなくてはなりません。「神さまは永遠の輝き」。もちろん、神さまを持っている(つまり信じている)人もまた永遠に存在することができます。
 ダイヤモンドと聖書を並べても良いかも知れませんね。本当に永遠に存在し、私にまで永遠を約束してくれるのは、聖書(つまり神の言葉)ですよね。

 神と富とに仕えることはできないとイエスさまはおっしゃっています。富を愛すれば、あなたは必ず(もしくは知らず知らずのうちに)隣人のものに対して不忠実になります。つまり神に喜ばれない生き方になります。しかし、富より神を愛するならば、必然とあなたは隣人を愛し、天に富を積むようになるのです。目には見えませんが、あなたは、永遠の輝きをいっぱい持つ人となるのです。

 今日は、十戒の一つの見方として、神を愛し、人を愛するとはどういうことかを教えているものであるということを覚えてください。
 そして、その神さまだけが、あなたに永遠を与えてくださる方であることを忘れないでください。その神さまの国の通貨は、貨幣ではなく愛なのです。