宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 ルカによる福音書  14章  25〜35節
 「神さまを賛美する喜び」

 ■神の声
 みなさま、「道具」と聞いて、何を思い起こされるでしょうか。家を建てる大工さんにとって重要な道具と言えば、のこぎり、かんな、のみと言った大工道具です。大工さんは大工道具を使って素晴らしい建物を建てます。楽器を演奏する人はどうでしょうか。ピアノ、オルガン、バイオリン、フルート、ハープ色々な楽器がありますが、演奏する方の賜物を発揮するためには楽器が必要です。もちろん、楽器を演奏する人は、ただ、演奏しているのではなく、人を感動させたり、心に癒しを与えたり、他にも色々な効果を聴く人に与えることができます。書道家でしたら筆でしょうか、テニスやバドミントンの選手でしたらラケットでしょうか、その道を歩む人の中には道具が重要なアイテムである方がいらっしゃいます。
 
 ところで、羊飼いにとって、大事な道具って何かわかりますか?イエスさまは、ご自身のことを羊飼いにたとえ、私たちを羊にたとえておられます。羊飼いは羊を養い、守り、導くのが役目です。羊にとって羊飼いは、道を示し導いてくれる存在です。また、敵から守ってくれる存在ですし、水のほとりに、また、青草のある所に連れて行き、養ってくれる存在です。では、羊飼いにとって、羊を導き、養うために必要な道具とは何でしょうか?

それは「声」なんです。

 イエスさまはヨハネによる福音書の中でこう言っておられます。(ヨハネ10章2〜5節 新186頁)

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門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。
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 イエスさまは、「羊は羊飼いの声を知っている」とおっしゃっています。そして「羊はその声を聴いて羊飼いに従って着いて行く」とおっしゃっています。これが、羊飼いと羊の関係です。そして、神さまと私たちとの関係です。
 イエスさまは、私たちを、導き、養い、守るために、お語りになります。私たちはその声を聴いて、その声を信頼して従うのです。
 私たちの信仰は、羊飼いの声を聴いてはじまります。イエスさまと霊的に繋がるところから始まります。そのような意味で言えば、羊飼いの声、つまり、イエスさまの声を聴くとき、私たちは、現実の世界でただ生きている存在ではなく、霊的な存在であることに気づかされるのです。イエスさまの声は、私たちを現実の世界から霊的な世界へと導く声でもあります。

 聖書は、私たちにとって、神さまの声で満ちている本です。また、礼拝の時もみ言葉が満ちている時なんです。神の声で満ちている空間が礼拝なんです。また、その声を聴いて、信仰を告白し、賛美し、祈ることができるのも礼拝の中なのです。もちろん、聖餐式の中で語られる言葉こそ、イエスさまの声です。聖餐式は、イエスさまをどこか遠くで思い起こす時ではなく、まず、羊飼いの声であるイエスさまの声が聞こえてくる時です。さらには、「これはわたしの体」「これは罪の赦しを与えるわたしの血」とイエスさまがおっしゃるのですから、わたしたちは、信仰によってイエスさまがここにいらっしゃることを確信するのです。

 み言葉と聖餐は、神さまが私たちに命を与えるために恵みの手段であると言われていますが、私たちは、イエスさまの声(羊飼いの声)を聴くために、礼拝に集わなくてはなりません。

 そこで、是非、まず、このことを吟味してください。「あなたのために、十字架にかかってくださったイエスさまは、あなたにとって、唯一の救い主ですか?」「あなたを命のもとに導くお方ですか?」「イエスさまがあなたのために、いらっしゃるということが、あなたにとって本当の救いの喜びとなっていますか? 」
 この十字架を見て、イエスさまを思い起こしてもらっていいかと思いますが、「イエスさまは、私の羊飼い、私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」そのような方だ。そのことにアーメンと言えるように、イエスさまを信頼するようにしてください。


■ダビデの祈り
 さて、これまで説教の中で主の祈りを取り上げてきましたが、今日は、最後の頌栄の部分「国も力も栄光も永遠にあなたのものです。アーメン」というところになります。主の祈りはイエスさまが教えてくださった祈りですが、この最後の頌栄に当たる部分は、主の祈りには、本来ない言葉です。ですので、もともと主の祈りは、「誘惑におちいらせず、悪からお救いください」という祈りで終わっています。この「国も力も栄光も永遠にあなたのものです。アーメン」というのは、家の礼拝から、教会堂での礼拝へと代わって行き、少ない人数から、多くの人数へと移行していったときに、付け加えられたと言われています。言い変えると、イエスさまを豊かに礼拝するためには、どう主の祈りを祈ればいいのか・・・そのことを考え、取り汲んでいく中で、一番良い、主の祈りの祈り方として、最後に頌栄が加えるという形になりました。
 恐らく、その時にベースとなったと考えられているのが、今日、お読みした歴代誌の29章の中にあるダビデの祈りです。歴代誌上29章10、12節(旧669頁)です。

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ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。
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 これは、ダビデの祈りなのですが、この祈りが祈られたのは、まさに、神殿が築かれようとしている時です。ダビデという人物は、皆さまよくご存じかと思います。イスラエルの2代目の王様なのですが、それよりも、信仰深い人として、どの時代でも尊敬されている人でもあります。
 神殿というのは儀式をする重要な場所なのですが、ダビデの時代は、神殿はありませんでした。取り壊し、移動し、また組み立てるという幕屋でした。神さまは、モーセを通して幕屋を作るように命じられましたが、王となったダビデにとって、心からの願いは、仮の神殿ではなく、立派な神殿、神さまの栄光に相応しい神殿を建てることだったのです。

 神殿というのは、罪の赦しを得るための犠牲を捧げたり、また、出エジプトの出来事を記念するために犠牲の動物を捧げたりする場所でした。また、捧げた動物は血が流されるのですが、儀式の種類によってはその動物の肉を家族で感謝して頂くこともしていました。それだけではなく、神さまの栄光が宿るのも神殿でした。さらには、祈りの家と呼ばれるのも神殿でした。
 ダビデは、本当に神殿(幕屋)が好きだったんですね。歴代誌上29章の2節では、神殿と訳されていますが、実際には「主の家」という言葉が使われています。詩編23編を見ますとダビデの「主の家」を慕う気持ちがよくわかります。

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命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。(詩編23編6節)
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 ダビデにとって、神殿(幕屋)とは、ホットする場所、安心できる場所、神さまを感じる場所、そういった場所でした。そして、霊的にも、「主の家」つまり神のみもとこそ私が生涯住んでいたい場所ですと告白しているのです。
 加えて、ダビデは王として君臨しているのですが、ダビデにとって、神殿は「城」でもありました。つまり、敵に打ち勝つ砦でもありました。ですので、歴代誌上29章の1節には、神殿のことを「この宮は」と表現していますが、ヘブル語では「城」という単語が使われているのです。
 ダビデにとって、神殿とは、「主の家」「祈りの家」であり、この俗世間においては、「城」でもあったのです。
 神を愛し、力と栄光に満ちる神が臨在し交わる場所が、形になるので、ダビデは喜び、主を賛美してたたえる祈りをしたのです。

 昨年にある姉妹が、会堂を綺麗にと献金してくださいました。私たちは、50年以上建った教会の内側の壁を綺麗にすることができました。そして、今年、別の姉妹がイエスさまを礼拝する会堂を、もっと霊的になれる空間にしたいということで、ステンドグラスを献品してくださいました。お二方とも、神さまの恵みを受けて来られたその喜びから、礼拝堂を神さまとそこに集う人のために相応しい場所にしたい。ただ、その思いから捧げてくださいました。歴代誌上29章9節に

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民は彼らが自ら進んでささげたことを喜んだ。彼らが全き心をもって自ら進んで主にささげたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。
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 とありますが、本当に同じような喜びが、私たちにもあります。

 さて、ダビデは、どうして、神殿を建てる時に、このような神を賛美する祈りをしたのでしょうか。わたしは、ダビデはいつも、神さまを見ていたからだと思います。羊飼いのように接してくださる神さまを知っていたからだと思います。神さまを喜んでいた。神さまの栄光を知っていた。神さまの力を知っていた。神さまがどの神にも勝る唯一の神であることを知っていた。だから、神殿を建てたいという思いが生じ、また、神さまをほめたたえる言葉を唱えたのだと思います。

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 わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。(歴代誌上29章10〜11節)
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■主の祈り
 私たちは、ずっと主の祈りを見てきました。「天におられるわたしたちの父よ」。これは、「神さまに対する親しみと信頼を込めた呼びかけ」でした。「み名が聖とされますように」。これは、「主の御名はすばらしい。そのあなたの素晴らしさを全ての人に知って欲しい。そのことが実現しますように」という願いでした。「み国が来ますように」。これは、「あなたがおられる場所(支配しておられる場所)こそ素晴らしい世界です」という思いからの願いでした。「み心が天に行われるとおり地にも行われますように」というのは、あなたの御心は力があり、とこしえに変わらぬ真理である」そのような思いの告白でした。そして、「日ごとの糧を今日もお与えください」。というのは、「必要なものを日々与えて下さる神さま、今日の私に必要な糧をください」という日々の信頼の祈りでした。「私達の罪をおゆるしください。私達も人をゆるします」。というのは「罪深い私を憐れんでください。同じように赦せる人になりたいです」という思いからの祈りでした。そして、最後、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」。というのは、誘惑に弱い無力な私を、苦難から(悪から)救い出してください」という、この世界で生きる私たちの切なる願いだったわけです。
 これらの祈りが、私の心からの願いになれば、必然的に出てくる言葉が、ダビデと同じような、主の栄光、力、支配を喜ぶ声なんです。

 この頌栄とも言える最後の言葉が、「私の心からの神への賛美」に変わる時、「アーメン」と言えるとき、私たちは神さまと霊的に深くつながることができるようになります。また、苦難の中でも人生に喜びが生じるようになります。

 礼拝で用いて良いかどうか、いつも悩むのですが、「君が代」という国家があります。これは、もともと、古今和歌集にある、一つの和歌でした。その和歌とは「自分にとって大切な人が長く栄えられますように」という思いで歌った唄です。それを国家にしたのです。国家としての「君が代」は別としまして、もともと歌われた歌は、和歌だけに、千代、八千代とかさざれ石、苔など、味わい深い単語を使いながら、本当に相手(もしかしたら主君かも知れませんが)その方への思いがこもっているんですね。素敵な歌だなぁって私は思います。自分にとって大切な人に贈る歌として見た時には素敵だと思いませんか?そんな風に思える人と出会いたいとも思いますし、そのような人と出会えると人生がうきうきするのではないでしょうか。
 「国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン」というのは神さまを賛美(頌栄)として祈る言葉としては、美しく、最高の賛辞だと私は思います。私たちはそういう方を知っています。さらに言えば、その方こそ、神の御座から降りて来られた神の御子、イエス・キリストご本人なのです。

 今日、もう一か所、ヨハネの黙示録も読んでいただきましたが、イエスさまの弟子のヨハネは、イエスさまの死と復活を宣教し続け、最後にはパトモスと言われる島に幽閉されてしまいます。そのヨハネが晩年に見た幻がヨハネの黙示録です。ヨハネは、ある時、霊に満たされ、主の臨在を体験します。その時にイエスさまの姿をこう現しています。(ヨハネの黙示録1章13〜17節(新452頁)
 
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 燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。
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 ヨハネはイエスさまの栄光の姿を見たんです。そして、足元に倒れ、死んだようになったと言っています。イエスさまの栄光は想像を超えたものであるということでしょう。

 私たちは、礼拝でイエスさまのもとに集まります。そこで、羊飼いの声を聴きます。一度は、十字架に掛かられ死んで葬られた方ですが、神の御子イエスさまは、復活し、天の御座につかれたのです。そして、こうして、私たちをその声で招き、今日も、私たちの信仰を深めるためにお語りになります。

 「国と力と栄光は永遠にあなたのものです。アーメン」。このアーメンというのは、「然り」「その通りです」という信仰の確信を告白しています。私たちが、イエスさまのご支配、力を信じ、信頼し、イエスさまの栄光を疑わず、その栄光を喜べるとき、私たちの主の祈りはまた力を持ち始めるのです。「国と力と栄光は永遠にあなたのものです。アーメン」。は三位一体の神さまをほめたたえる美しい言葉なのです。