宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 マルコによる福音書 14章 32〜38節
 「無力な私たち」

 おはようございます。
 これまで、ずっと主の祈りを見て来たのですが、今日は、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」という祈りを学びます。この願いは、主の祈りの最後の願いです(これを一つの願いと見ると全部で6つ、二つの願いと見ると全部で7つの願いになります)。
 イエスさまは、主の祈りを教えてくださいました。イエスさまは、最後に(つまり、しめくくりとして)、「どんな時でも、あなたを救い出してくださる神さまに期待して祈りなさい」そのように教えてくださっているのです
 ともかく、この祈りで大切なことは、「神の目に、罪を犯す無力な私をいつもお守りください」という思いで祈ることです。
 そういう意味で、主の祈りは毎日、日課として、心を込めて祈るようにする必要があります。

 さて、昔、あるTV番組での話しですが(随分前の話しですが)、一人のお母さんのツイートが紹介されていました。それは、「自分の子どもと、お友達、そして、母親たちで一緒に公園に行ってお弁当を食べていた時の話し」でした。お弁当を広げてみんなで食べていると、一人の子どもがそのお弁当をまたいだそうなんです。ちょっと、嫌な気持ちになったそのお母さんだったのですが、またいだ子どものお母さんがこういったそうなんですね。「わたしは子どもを“のびのび”と育てているんです」。まあ、言い訳のようなものだと思います。しかし、その言葉を聞いたお母さんは、「それは、“のびのび”ではなくて、“野放し”です」と番組に怒って訴えていました。

 “のびのび”と“野放し”違いますよね。
 イエスさまは、弟子たちに、ぶどうの木のたとえを話されました。イエスさまはこうおっしゃっています(ヨハネ15章1〜2節)。
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「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」
                      (ヨハネ15章1〜2節)
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 みなさま、このみ言葉を信仰者としてきちんと受け止めていらっしゃいますか?
 ぶどうの木というのは、放っておくと、野生化してしまうそうです。ですので、良いぶどうを実らせようと思えば、農夫は経験に基づき剪定作業をする必要があるんです。
 イエスさまは、私たち信仰者に、ただ信じているのではなく、良い実りをもたらすように願い生活するように教えてくださっています。そのように願い生きる人を神さまは喜ばれ、いよいよ豊かに実を結ぶように剪定なさるという言うんです。ただし、大切なのは、イエスさまをいつも意識することです。
 “のびのび”と“野放し”が違うように、“好きなように生きる”のと、“自由に生きる”のとは違います。私たちは、神さまによって、罪赦されており、どのような罪を犯しても、罪の赦しをイエスさまの十字架によっていただいています。
 しかし、ガラテヤの信徒への手紙5章13節にこう書いてあります。
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「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」
                 (ガラテヤの信徒への手紙5章13節)
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 イエス・キリストを信じ、そして、洗礼を受けた時、私たちは、この世の人たちとは、違う生き方に招かれます(この世の人たちとは違う存在になると言っても良いと思います)。朝、礼拝に行こうと思えば、その家の中で、礼拝に行く人と、家に残る人に分かれます。そして、教会の奉仕を優先するようになると、家と教会とどちらが大切なのかという風に文句を言われることだって出てきます。
 それだけではありません。周りの人と衝突しがちなのがクリスチャンです。また、心の中で、葛藤というものが生じてくるのも、洗礼を受けた証しであるわけです。これまで、「罪」を知らず、「罪」と無縁に生きていた私たちが、ひとたび、聖書を通して「罪」とは何かを知らされると、自分の中にある「罪」があぶりだしのように顕わになるんです。
 これまで、「罪」とは無縁に、好きなように生きて来た私たちが、自分の生き方に苦しむようになるのです(苦しんでいませんけど…はダメです)。

 神さまは聖書を通して、尊い基準を示してくださいました。それが、律法です。十戒はその一つです。確かに、律法というのは、私たちが生きる上で大切な基準です。でも不思議なことに、律法を好めば好むほど、生き方を変えようと思えば思うほどは、律法を守る力を持っていないことを教えられるんです。
 
「私は罪人である」この認識から「自分は何と惨めな存在なんだ」この認識に至る必要があります。というのも、一つの事実に到達するためです。
 それは、「罪に勝てない自分にあきらめる」という思いです。その時、「罪の恐ろしさに気づくことになります」
 すると、洗礼を通して「罪に死ぬ」とはどういうことなのかがわかるようになります。

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 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
                (ローマの信徒への手紙6章3〜4節)
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 「新しい命に生きるために洗礼を受ける…」。パウロはそう言っています。
 私たちは、洗礼を受ける時、この世の人たちとは、違う存在に変えられます。クリスチャンらしく生きるようになろうと思って、洗礼を受けるのではなくて、洗礼を受けた時に、古い私は死んだんです。“1996年8月11日に私は洗礼を受けたのですが、その日、1971年5月11日に生まれた私は死んだんです。そして、新しい、江利口功として、神が私を新しい命を持つものとして蘇らせてくださったのです(皆さまもそうです)”

 私は、洗礼の定義をお話ししているのではなくて、本当に神さまの前に、もはや、私の罪は存在しないのです(洗礼を受けた方はみなそうです)。さっぱりした存在です(囚人服を脱ぎ捨てた感じ)。
 全ての罪に対してイエスさまが十字架で赦しを与えてくださいました。私がいくら悪い事をしたとしても(したくありませんが)、罪は私を罪人として扱う事ができません。イエスさまが私のために十字架で罪人として神の前に死なれたからです。
 罪は、私を罪人だからということで、罰としての死をもたらすことができなくなっているのです。
 私は、罪に対して死ぬことを決めたので(洗礼を受けたので)、今は、自由です。この事実は、神の前に、裁きを恐れる必要は無用となり、また、御子を通して罪の赦しを与えてくださった神さまに賛美したくなる思いにさせます。

 もちろん、先ほどの言いましたが、好きなように生きるのと、自由に生きるのとは違います。新しく生まれた者は、好きに生きることは拒むようになります。

そういう意味で洗礼を受けた人は、罪との戦いが生じるようになります。

 悪魔は、洗礼を受けた者を、本当に攻撃してきます。内なる自分の弱さに悪魔は本当につけこみ、愛の無い生き方をさせるんです。
 それだけではなくて、実は、神ご自身も、洗礼を受けた私に試練をお与えになります。しかし、悪魔と違い、神の試練は、私が霊的に成長させるために試練をお与えになるのです。

 主の祈りの中で「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」と祈っていますが、これは、「誘惑・試練に対して無力な私をいつもお守りください」という思いで祈っています。

 誘惑・試練は大きくわけで、二つのあります。一つは、神さまが与えられる試練。それは、霊的成長のため。そして、もう一つは、悪魔から来ます。それは、肉の弱さに付け込んで、神さまに対する、信仰、喜び、間違った神認識に至らせるように仕向けます。まさに、アダムとエバが陥った誘惑です。

 イエスさまは、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」と祈りなさいと教えておられますが、神さまは誘惑はなさいません。神さまの試練に対して悪魔は誘惑してくるのが実際のところです。
 実際にギリシャ語の文法を見ますと、「叩く人に叩かないでください」という意味で「誘惑におちいらせず」という風に表現していません。文法的には、話し手は「それが、神さまから来るのかどうかを断言しようと思っていない伝え方(接続法)」で表現しています。

 神さまは、人を誘惑なさる方ではありません。しかし、信仰を深めるために、試練をお与えになる方ではあります。たとえば、アブラハムにイサクを捧げるようにお命じになる話もそうです。アブラハムがイサクを捧げる時であっても、そこに代わりに羊が備えられていました。神の試練には、いつも逃れる道が備えられています。そして、神さまが与える試練の後には、霊的に成長した姿があります。

 今日、お読みしたヤコブの手紙1章3,4節で「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」と書いてある通りです。

 しかし、実際に、一番多いのは、この世で生きるがゆえに、生じてくる試練だと思います。それらは、こちらが望む望まない関係なしに、第三者によって、もしくは、自分が蒔いた種によって生じてくる苦しみです。そういう時、悪魔は言葉巧みに、悪いくなっていく方向へと誘ってゆきます。
 
 そのような時に、大事になってくるのは、神に助けを祈ることですね。

 今日の聖書箇所、マルコによる福音書なのですが、これは、イエスさまが捕らえられ十字架で処刑される前にゲツセマネで祈っておられた時の出来事を記した個所です。
 ここで、イエスさまは、試練に遭われます。もちろん、イエスさまの試練は、私たちの試練とはレベルが違います。これは、神さまからの試練ですが、悪魔はイエスさまの心に語り掛けていたと思われます。

 さて、イエスさまは、一緒に連れて行った弟子たちに、目を覚まして一緒に祈っていなさい。そうおっしゃいました。しかし、弟子たちは、これから何が起こるのか分かっていなかったのか、眠ってしまいます。
 イエスさまは、一人、お祈りされていました。そして、父なる神さまにこうお祈りされます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」これは、試練に打つ勝つ最高の祈りだと思います。
 さて、イエスさまが、戻られると、弟子たちは眠っておられたのですが、イエスさまは、こうおっしゃいました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」
 「心は燃えても、肉体は弱い」私たちが、信仰があると思わず、このイエスさまの言葉を心に刻む必要があると思います。
 
 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」。誘惑に陥らないために、私たちに勧められているのは、目を覚まして祈り続けることです。今日、お読みしたヤコブの手紙(1章5〜6節)でも、こう書いてありました。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」。
 私たちにとって、誘惑・試練の時に大切なことは何かと言えば、無力な自分を認め、ただ、神に目を向け、目を覚まして、助けてもらえるように、また、知恵を与えてもらえるように祈り続けるということなんですね。

 イエスさまは、問題がなくなるようにと祈れとおっしゃっていません。「誘惑に陥らないように、悪から救い出してください」と祈りなさいと教えてくださっています。そのように、日々、祈り、また、苦しい時も祈れるようになりたいですね。

 さて最後になりますが、主の祈りの締めくくりとして一つお話しいたします。私たちはずっと主の祈りを見てきましたが、たとえば、主の祈りで「御名が崇められますように」という願いも「み国が来ますように」という願いも、実際は、この世で実現することを願いながらも、やはり、最後には(究極的には)、キリストの再臨を待ち望む祈り(願い)となります。
 今日の祈りも同じで、誘惑から私たちが完全に救い出されるのは、私たちの人生の終わりの時であり、また、悪魔が滅ぼされる時、つまり、キリストの再臨の時ということになります。
 ですので、主の祈りの、最終的な願いは、キリストが世と悪魔を裁くために立ち上がられること、また、新しい天と地が再び与えられることを祈っているんですね。

 今日の主の祈り、これは、どんな時でも、私を救い出してくださる神さまに、「誘惑に弱い無力な私をいつもお守りください」という思いで祈ることです。