宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 マタイによる福音書 18章 21〜35節
 「神さまに近づきたい」

おはようございます。今日も、主の祈りについて学びたいと思います。今日は、「わたしたちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」という部分について学びます。
 主の祈りを順番にお話ししてきているのですが、大切な事として「主の祈りは私の願いである(私たちの願いである)」という事をお伝えしてきました。

 十戒が神さまから命じられた守るべき生き方であるとするならば、主の祈りは神の御子であるイエスさまが、何を願い求めて生きるべきなのかを教えてくださった美しい祈りなのです。

 そして、忘れないで頂きたいのは、主の祈りが心からの私の願いとなった時に、私たちは、イエスさまと心において一つになれるということなんです。
 主の祈りが、暗記して呪文か何かのように“すらすら”と言えることはゴールではありません。一つ一つ噛みしめて、自分の願いとして祈れるように頑張ってみてください。

 さて、今日は、「わたしたちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」という祈りを学びたいのですが、

 この祈りで私たちは何を祈っているのか(何を願っているのか)と言いますと、それは、まず、「罪深い私を憐れんでください」という願いであり、そして、次に、「私もあなたと同じように、負い目のある人を赦せる人となりたいです」そのような願いなのです。

 そこで、まず、祈りの後半、「私たちも人を赦します」という祈りの部分を見ていきたいと思います。

 昨日、8月6日は、広島に原爆が投下された日で、77回目の記念式典が、開かれていました。私はずっと「日本は悪い事をしたから、原爆を落とされても仕方がないんだ・・・」そんな風に(教育されて)思っていましたが、実際は、武器を持たない(非戦闘員)老人や女性や子どもを無差別にいきなり大量に虐殺したという、人道的にはやってはいけないことなんですよね(背後には人種差別があり、開発したばかりの原爆の人体実験であったとも言われています)。アメリカの大統領は就任する時に聖書の上に手を置いて宣誓していますが、いったい聖書の何を土台にしている国なのでしょうか。

 聖書に次のような言葉があります。
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憎しみは争いを引き起こし、愛は全ての罪を覆う(箴言10章12節)
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 ここに罪の世界と神の世界の二つの世界が表されていると思います。@憎しみによる報復が正当化され、争いのある世界。Aもう一つは、人が愛に気づき、愛に生きることで実現する平和な世界です。どちらが、神の求めておられる世界かが分かるかと思います。
 このことは、家においても、会社においても、グループにおいても、教会においても同じです。憎しみが正当化される空間と人が愛の素晴らしさに気づき、愛を実践する空間とでどちらが神さまが望まれている世界になるのかと言えば、誰だってわかるかと思います。

 神さまは「憎しみは相手を打ち倒そうとし、愛は相手を抱擁しようとする」そのようにおっしゃっています。つまり、あなたの心から憎しみの心を取り去り、愛の心で満たしなさいとおっしゃるのです。

 さて、主の祈りの「赦す」という事に対して、考えているのですが、この前、このような話しを聞きました。それは、ある教会での出来事ですが、ちょっとしたトラブルがあったそうです。その時、相手側の人から「聖書の言葉に赦しなさいとあるので、私はあなたを赦します」と言われたそうです。私が聞く限り、その人は特に悪いことをしたわけではないのですが、相手が勘違いして怒りを感じたようです。それで、「聖書に書いてあるから赦します」という風に言ってきたそうなんですね。でも、私はその話を聞いて「『聖書に書いてあるからあなたを赦す』って・・・ちょっと違うんじゃないかなぁ」って思いました。皆さまはどう思われますか?「聖書の言葉に赦しなさいとあるので私はあなたを赦します」という赦しは本当の赦しなんでしょうか?これって、言われた方は、「良かったぁ」って思えませんよね。それは、愛から生じる赦しではないんですよね。

 本当の赦しとは、相手を愛することであり、相手は負い目から解放され喜び、また、本人の心も解放されて清らかになるのです。これは素晴らしいゴールです。

 「赦します」と言っても、心の中で憎しみが処理されていないのであれば、何度も同じことが起こると、堪忍袋の緒が切れてしまうことになります。そのことが、神さまが望まれる本当の赦しでないことは、今日の聖書箇所を見ればわかります。マタイによる福音書18章21〜22節にこう書いてあります。

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 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
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 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」という思いは、聖書が教える「赦し」ではありません。堪忍袋に入れているだけです。「赦せていない」ので溜まって行き、いよいよとなると、堪忍袋の緒が切れます。「本当の赦し」というのは、相手を憐れむ心(それは愛する心なのですが)その思いから生じるものなのです。

 イエスさまは、ペトロに赦すということがどういうことなのか、そして、赦さない人の姿が如何に酷いものなのかを一つの譬えをもってご説明されました。それが今日の聖書箇所です。

 一人の家来が王の前に呼ばれ、貸したお金の決済を求められました。その家来が借りたお金は莫大なお金で、その家来はお金を返すことができませんでした。家族も財産もみなお金にしてでも返すように命じられた、その家来は、「何とか返しますから待ってください」と懇願するんです。すると、その家来を見て、王は、憐れに思い、返済を待つのではなく、借金を帳消にしてあげました(負い目をなくしたという意味)。イエスさまの譬え話は、そのように始まります。
 イエスさまの譬え話は続きます。何と、その莫大なお金を赦された家来が、自分に借金のある人を見つけると、彼を捕まえ、首を絞め、お金を返せと取り立てるんです。しかも、「必ず返すから待ってくれ」と懇願したのにも関わらず、彼を赦さず、彼を牢に入れてしまうのです(酷い奴です)。
 しかし、ここから話は展開していきます。その状況を仲間たちが見ていたんですね。そして、“非常に”心を痛めそのことを主君に伝えます。心を痛めた・・・ここが大切です。さて、そのことを知った主君は、その家来を呼び出し、『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そう言って、彼を牢役人に引き渡してしまいましたというのがイエスさまの譬え話です。

 家来が無慈悲に取り立てる姿を見た仲間達は心を痛めたと書かれています。そして、王も、家来に対して、「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言っています。王は、「私がお前を赦したように、お前も仲間を赦すべきではなかった」とは言わず、「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言ったところがポイントです。つまり、この喩えにあるポイントは、赦すということは憐れむということだと言っているところです。そして、憐れみの心は、相手を愛していないと生じません。憐みというのは、愛から来る感情なんです。聖書を読むと、神さまは、人を憐れまれて来たことが分かりますし、また、イエスさまも憐みに満ちたお方でした。

 以前に、車を運転していると、路肩に高級車と軽自動車が停まっていて、車の側で、男性が女性に対して、がみがみ言っているのが見えてきました。特に、事故って車が凹んでいる様子もありませんでした。ちょっと気にくわない運転をその女性がしてしまったのかも知れません。渋滞していたので、その様子を暫く見ることができたのですが、その男性は、ずっと、怒っていたんですね。女性は、申し訳なさそうに(相手の気がはれるまで)黙っておられました。見ていて、不憫に見えてしかたありませんでした。また、その男性を見て「可哀想な人だなぁ」って思いました。「赦そうともしない人」って本当に惨めに見えますね。そう思うと、「憐みのない人になってはいけないな」と思いますし、「憐みのないものには、憐みのない裁きがくだる」(ヤコブ2:12)という神さまの裁きの言葉を心に留めないといけないなと思います。

 主の祈りの「私たちも人を赦します」これを祈る時、「わたしもあなたと同じように、負い目を責める人ではなく、赦す人になって行きます」という思いで祈ってください。

 さて、最後に主の祈りの「私たちの罪をお赦しください」という部分を見て終わりたいと思います。
 このことを祈る意味、また、このように祈る人の姿がきれいに描かれているイエスさまの譬えを見たいと思います。

一か所、聖書をお開きください。ルカによる福音書18章9節から14節です(144頁)

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 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
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 ここに登場するのは、本当は神の前に罪人なのに、自分は正しいと思って、神殿で礼拝している人。そして、もう一人は、世間からも罪人とレッテルを貼られていて、本人もその自覚を持っていて、さらには、神の前に悔いている徴税人です。

 二人とも神殿で神さまを礼拝しています。一方は、自分が罪人であるということを認識できず、神さまをほめたたえています。彼の心が高慢な心であることは、徴税人を見下している姿からも分かります。もう一方の徴税人は、同じ神殿にいますが、遠くにたって、しかも、目をあげようともせず、罪人である自分を自覚しながら、悔いてこう言っています。「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」
 
 イエスさまは、こうおっしゃっています。

 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。

 これは、神さまの恵みを受け取って帰ったのは、高慢な人ではなく、神さまの前に悔いる人でしたという意味です。
 これは、礼拝における私たちの姿と似ています。

 私たちは、罪の自覚が本当にあるならば、この徴税人のように、神さまの側に近づくことができません。創世記で、罪を犯したアダムとエバが、自分たち同士では罪の認識が甘く、いちじくの葉で腰を覆うことで済んでいましたが、神さまの声を聴いただけで、怖くなり、隠れてしまったという姿にも現されています。
 
 罪で汚れた存在である私たちは神さまに近づくことができません。しかし、イエスさまは義の衣を私たちに着せてくださいました。私たちは、イエスさまの十字架によって与えられた義を頂くことによって、神さまの前に近づくことができるようになったのです。

 神さまは、イエスさまを通して、私たちの罪を赦してくださいました。しかし、赦された私たちであっても、日々、神さまの前に罪を犯し続けています。罰に値する多くのことを犯し続けています。洗礼を受けた私たちは、日々、神さまの前に罪を犯し続ける自分の姿に苦しむのです。

 ですので、私たちは、礼拝に来て、イエスさまが私たちのために十字架に掛かってくださったことをもう一度きき、また、その愛に触れることで、義とされ、恵みを受け取って帰って行くのです。そして、聖餐式は、まことに日々犯す罪の赦しを頂く時なのです。

 そして、毎日が罪の赦しをいただくその時でもあります。それが主の祈り「わたしたちの罪をお赦しください」という祈りによって実現します。神さまは、憐み深いお方です。私たちが、自分の罪を認識し、主よ憐れんでくださいと願うならば、主は豊かに赦しを与えくださるお方なのです。だからこそ、私たちは、日々、主の祈りを通して「私たちの罪をお赦しください」と祈るのです。
 そのうえで、主よ、わたしもあなたと同じように、あなたも望まれるとおり、わたしも人を赦す人となります(なりたいです)という思いを込めて、「私たちも人を赦します」と祈っているのです。
 主の祈りを祈る時、徴税人のように謙遜に、また、赦さない家来になりたくないという願いをもって祈っていただければと思います。