宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 マルコによる福音書  4章  1〜 9節
 「神の御心が全て」

 おはようございます。
 現在、私、歯医者で治療しています。虫歯ではなく、歯の根元を治療しています。この前、治療するための椅子に座っていますと、目の前に大きなディスプレイがありまして、そこに私の歯(鼻から下)のレントゲン写真が映し出されていました。ドクターが治療のために来てくださるのを待っている間、何もすることない私はずっと画面を眺めていました。鏡に映る自分の顔だったらまだいいのですが、顔の下側のレントゲン写真をずっと見ているとだんだん気が滅入ってきました。自分の歯の形や並び方が透けて見えるので、理系の私としては興味が湧くのですが、じっと自分の顎のレントゲン写真を見ていると、自分もいずれこんな姿になるのか・・・としみじみ思わされました。
 自分もいずれ天に召される時がくる・・・しばらくそのことを考えていたのですが、ふと、神さまは教会を通して沢山の良い方との出会いを下さったなぁって感謝の思いが湧いてきました。
 最後はそんな感謝な思いで一杯の状態で過ごせたらいいなぁって考えていましたらドクターが来てくださいました。

 今日、お読みいただいた聖書箇所ですが、ヨハネの手紙第1の2章15〜17節にはこう書いてありました。(442頁)
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 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。(ヨハネの手紙第1 2:15〜17)
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 ここで言う「世」とは、「肉の世界(俗世間)」のことであり、「世にあるもの」とは「そのような世界が求めてやまない、肉の欲、目の欲、人が羨む生活に対するあこがれ」のことです。言い方を変えると「それらを得た人は幸せだなぁと誰もが思うものです」。

 私たちは勘違いして、誰もが求めるものを得ることが幸せの条件のように思ってしまいますが、実際はそうではありません。聖書ははっきりと「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます」と言います。それはかりそめのものだと言うのです。本当は無価値のものであると言うのです。そうではなく、むしろ、永遠なるものにいつも目を向けていなさいと教えています。

その永遠なるものとは、神ご自身のことであり、また、神の御心です

 聖書には、「世も世にある欲も過ぎ去ります」とあります。私もまた、いずれ過ぎ去る存在です。しかし、神さまは「神の御心を行う人は永遠に生き続けます」と素晴らしい約束を与えてくださっているのです。私が神のみ言葉に生きる人となったとき、この世において私はもう一つの神の国に生きる人となるのです。その時、私は永遠に生きる存在となります。もちろん、それは、神さまを信じる人、全ての人がそうなのです。
 
 ところで、「神の御心を行う人は永遠に生き続けます」とありますが、神の御心を行う人とはどういう人のことでしょうか。

それは、神の御心がなることを喜び、神の御心を実践する人のことです。

私たちは主の祈りを順番に礼拝の説教の中で学んでいます。主の祈りは願いである(十戒は命令)ということを何度か申し上げてきました。そして、主の祈りの一つ一つの願いが、「私の心からの願いとなった時に、神さまが本当に近くなります」ということもお伝えしたかと思います。

今日は、「御心が天に行われるとおり地にも行われますように」という祈りを学びたいと思うのですが、「御心が天に行われるとおり地にも行われますように」という願いが本当の意味で私の心からの願いとなることを求めてください。

神の御心こそが、私の願いを超えて素晴らしいものなのだと思えるようになった時に、見える世界が変わりますし、その人の人生は豊かな実を結ぶ人生へと変えられて行くのです。

今日、私たちは福音書として、イエスさまの譬え話、種を蒔く人の譬えを読みましたが、ここでも、み言葉を素直に受け入れる人、御心を素直に喜べる人こそが、豊かな実を結ぶと教えています。
まず、イエスさまの譬え話を読んでみたいと思います。(66頁)

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種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった(マタイ4章3〜8節)
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当時は、種を袋に入れて、畑にば〜っと種を振り撒くそうです。そして、その後、種と土とを一緒に耕すそうです(シンプルor適当)。そのように種を蒔くので、種の中には道端に飛んで行ったり、石が沢山ある場所に落ちたりするのは普通のことでした。ですので、当時の農夫の人たちは、そこでは麦がちゃんと実らないということは経験から知っていました。ですので、イエスさまの譬え話は、農夫の人に(恐らく大抵の人に)想像しやすい話だったと思われます。
つまり、聞いた人は、自分たちが、神のみ言葉を、素直に、喜んで受け入れる時に、豊かな実を結ぶということを体験から想像できたのです。

 さて、もう一度、4つのパターンを思い出して欲しいと思います。一つ目は、道端に落ちた種。二つ目は、土の少ない石地に落ちた種。三つ目は茨が生えているような悪い所に落ちた種。四つ目は、良い土地に落ちた種でした。
 では、始めの3つは、なぜ、上手く育たなかったのでしょうか?道端に落ちた種・・・鳥が食べてしまった。石地に落ちた種・・・根が無いので熱に負けてしまった。悪い土地に落ちた種・・・茨が覆ってしまった。それらが原因でした。

 ここで大事なのは、イエスさまは、原因として、雨が降らなかったとも、曇りの日が続いたとも言っておられません。成長を左右したのは、天からの恵みではなく、@み言葉が蒔かれた土地の問題(つまり心の問題)、そして、A鳥や茨と言った落ちた種の環境(つまり、試練や誘惑や思い煩いと言った環境)だとおっしゃっています。

ところで、「種」はみ言葉のことであるとおっしゃっていますが、聖書のみ言葉とは皆さまにとってどういうものでしょうか?
 聖書は、神さまがどのような方かを記した書物ですし、イエスさまが何をしてくださったのかを記している書物でもあります。また、生きる上で大事な事が書かれた本ですし、また、祈りの言葉を記した本、でもあります。しかし、もっと大切な働きがあります。それは、今日生きる私たちに語られる言葉であることです。聖書は私たちを生かす神の言葉が詰まった本です。そして、それは、毎日(読むたびに)、私たちに語り掛ける、生きた神さまの言葉なんです。
 大地に種が蒔かれ、植物にとって大切な、太陽の光、また、雨が降り注ぐように、神さまのみ言葉は、いつも、私たちの心に蒔かれ、神の恵みはいつも私たちに降り注いでいます。

 神さまは、私たちのために、み言葉を語り、また、色々な恵みで私たちを満たしてくださっています。しかし、その実り(成長)を妨げるものがいつも私たちを覆ってしまうのです。
 それは、思い煩いであったり、一時期の患難であったり、また、目の欲、肉の欲であったりします。そのことによって、私たちは、神さまの御心を疑うようになってしまうのです。そして、み言葉に対する信頼を失い、神さまに対する信頼をも失うようになってしまうのです。

 悪魔は、私たちの心にうまく働きかけてきます。そして、神さまを疑うようにしてきます。置かれた環境に対して、神さまを信頼せずに自分の力で生きて行きなさい。そんな風に誘惑してきます。また、世の中の、富んだ人、成功した人、家族が沢山いる人、マイホームを持った人、毎日おいしい食事をしている人など、そういった、目の欲、肉の欲に訴えて、羨ましいなぁ、それに比べて自分はなぁと思わせるようにします。
 それは、私たちが豊かな実りをもたらさないようにする悪魔の手段なのです。では、どのようにしたら良い実りをもたらすのでしょうか。それは、恵みの神さまであることを疑わないこと。神さまのみ言葉に対する素直な心、また、神さまの御心がなることを喜ぶ信仰を持つことです。

 また、それだけに限りません。私たちの罪の思いが御心どおりに行動することを願わず、御心とは違う行動をとってしまう時があります。
「御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」という祈りは、私自身がそのように行動できますようにという願いです。

 先週、私たちは「善いサマリア人の話し」からイエスさまの教えを学びました。あのイエスさまの譬え話で、イエスさまが最後に律法学者に問いかけた言葉を覚えておられますか?イエス様は「三人の中でだれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と尋ねられましたよね。イエスさまは「三人の中で誰が優しい人でしたか?」とは尋ねられませんでした。イエスさまは「三人の中で誰が立場を乗り越えて助けた人。敵をも愛した人ですか?」とお尋ねになったのです。敵をも愛する。立場を乗り越えて愛する。それが、神の御心に生きる人、神の国に相応しい人だとイエスさまはおっしゃったのです。

 私は、こういう時、ある女の子の話しをします。
 ある小学校に一人の女の子がいました。その子は意地悪な子で教室のみんなが困っていました。もちろん友達は出来ませんでした。そのクラスに一人の女の子がいました。この子はその意地悪な子に「おはよう」と声をかけ続けることにしました。その意地悪な子の心は徐々にとけていきました。そして卒業の文集の中で「挨拶し続けてくれた女の子のことを忘れることができない自分のお友達だった」と書いていたそうです。
 多くの場合、意地悪な子がいたら、そのような子を無視するかと思います。では、神さまは、無視する子と、頑張った女の子、どちらが、神の御心に生きたとおっしゃるでしょうか。もちろん、意地悪な子の友達(隣人)になろうとした女の子です。

 み国が来ますようにと祈る祈りは、私の思いではなくて、あなたの思いがなりますように(そのように私が行動できますように)という願いです。それは、ただ、そう願うだけのものではありません。そう生きる時に、私も、また、周りにも豊かな実りが生じるということを信じる必要があります。

 また、この祈りは、色々な悪魔の誘惑に勝てるように、神の助けによる霊的な勝利を望んでいる祈りとも言えます。そのために必要なのは、神の御心は間違えのない、素晴らしい生き方であるということ。神さまは、豊かな実りをもたらしてくださるというこを認めることから始まります。皆さまは、どうでしょうか?
 私の思いではなく、神さまの思いこそが最高の実りをもたらす私の生き方であると信じれますか?
 是非、今日、神の御心こそ、最高の御心であるということを心に留めて欲しいと思います。