宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 マタイによる福音書  5章  1〜12節
 「素晴らしい世界」

●はじめに(温泉に入った時に出てくる言葉)
おはようございます。皆さまは、温泉は好きですか?私は小さい頃はあまり好きではなかったのですが、社会人になってから、温泉が好きになりました。お湯につかると、思わず「あぁ〜っ」とか「ふぅ〜っ」って声出ますよね。体がお湯に馴染んだ頃くらいに、体の緊張がほぐれ、自然と、「あぁ〜」って出てきます。気持ちがリラックスした証しです。
人によっては、「あぁ〜」と一緒に、こんな言葉でてこないでしょうか。「ああ〜、極楽、極楽・・・」。

●み国とは何かを知る必要がある
さて、今日、私たちは、主の祈りの二つ目の願いを学ぼうとしています。二つ目の願いとは何かを言いますと、「み国が来ますように」という祈りです。皆さまは、どのような思い(願い)を持って、この祈りを祈っていますか?
ところで、この祈り。この「み国が来ますよに」という祈りが自分の心からの願いになるために、必要となってくるのは、「み国」とは何か?ということを知るです。

「み国」。もし、周りの人が皆さまが、「み国とは何ですか?」と尋ねれば、どうお答えになりますか?恐らく、「天の国」「天国」という風に説明されるかと思います。では、それはどのような場所ですか?と尋ねられればどうお答えになるでしょうか。そして、もう一つ、それはどこにありますか?そのように尋ねられればどのようにお答えになりますか?

●素晴らしい世界とは
 今日の説教の題を「素晴らしい世界」といたしました。「素晴らしい世界」皆さまにとって、「素晴らしい世界・・・」それは、どのような世界でしょうか。
自然が豊かな場所、争いがなく平和な世界、そして、病気もない。死もなく・・・。そのような世界をイメージするかと思います。そして、そこに神さまがいらっしゃる。それが、「み国」であり、「天のみ国」だと言えると思います。

先ほどの温泉の話しで「極楽・極楽・・・」という言葉の話しをしましたが、一般的には、天国というのは、素敵な空間、素晴らしい空間、魂が癒されやすらぐ空間、永遠の空間、そういう空間に対するイメージが強いんですね。

しかし、聖書が教える、「天のみ国」とは、魂が安らぐ場所、永遠に生きる場所、美しい場所、そういった“空間”のことを言わず、そこを“誰が支配”しているのかということに重きを置きます。
聖書は、天のみ国はとはどのような場所であるか言うと、それは、私の愛する方がいらっしゃる場所、そして、私を愛してくださる方のいらっしゃる場所、その方が統治(支配)しておられる場所であると言うのです。

●詩編の言葉(人も生き物もあなたを慕う)
今日、お読みした詩編にこう書かれています。
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万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。いかに幸いなことでしょうあなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。(詩編84編2〜5節)
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この詩編を読むと、『万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう』と始まっています。
鳥は住みかを作り・・・は平和と安らぎの象徴だと思いますが、人も生き物も、あなたがいらっしゃる空間を喜ぶ。これが、神の国です。

人に限らず、鳥も神を賛美する、そのような、喜び、安らぎがある世界、それが、神の国なんです。そこに、「あなたがいらっしゃるから・・・」この大前提が鍵なんです。

●「天の国は近づいた」
「神の国」とは場所ではありません、神さまがいらっしゃる空間です。ですので、とたえそれが荒れた場所であっても、そこに神がいらっしゃるならば、そこは神の国なんです。
ですので、イエスさまご自身も、洗礼をお受けになった後、宣教をし始められたのですが、人々にこうおっしゃっています。「天の国は近づいた」。

イエスさまは、この時から、神としてのお姿をお示しになり始められました。イエスさまがおられるところには、病の人は癒されました、目の見えない人、耳の聞こえない人は目が見えるようになり、耳が聞こえるようになりました。また、大勢の空腹の人たちが、奇跡によって満たされたたのでした。

また、イエスさまは、今日お読みした福音記事ですが、こうおっしゃっています。
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「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである・・・・」
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イエスさまは、天の国がどのような世界なのかを教え、そして、この世界も、やがて神が本当に支配される素晴らしい国となるということを、人々に教えられました。

●み国は行く場所ではなくやって来るもの
今日は、主の祈りの「み国が来ますように」って祈っていますよね。「み国」イコール「天国」というイメージってあると思います。でも、イエスさまは、私たちに「み国」が“来るように”祈りなさいとおっしゃるのです。これはどういう意味でしょうか。

●み国は新しい天と地が再創造されることで完成する
 先週、新谷恭子姉の葬儀が執り行われました。姉妹の霊は、今、神の御許で憩われています(イエスさまも「我が霊を御手に委ねます」とおっしゃっています)。しかし、それは時を待っているのです。聖書は、この世界が、もう一度、神さまによって、再創造されると言っているのです。
キリスト教会では再臨という言葉を使います。それは、イエスさまが、目に見える形で再びこの地上に来られ、@人々をそれぞれの行いによって裁かれます。そして、A天に相応しい人、相応しくない人とに分けたあと、神さまは、新しい天と地を再びお造りになるのです(感覚的に信じれないかも知れませんが)。

 確かに、私たちが天に召される時、それは、神の国へ行くことになります。しかし、聖書は、最後には、全ての人が復活し新しい天と地で神と共に住むのです(どのような姿なのかは想像できませんが)。
私たちが生きている間にそれが起こるのか、死んで魂が一時期神のもとに行った後に起こるのかは分かりません。しかし、聖書は神がこの地上を裁くため、新しい天と地を創造するために再び来られることと、エデンの園とは違う、新しい天と地が造られると聖書は教えています。

●礼拝の時(み言葉・洗礼・聖餐)こそみ国
 さて、今日は、「み国が来ますように」と祈っていますが、イエスさまは、天国でずっと待っておられるのではありません。「み国が来ますように」と祈る私たちは、

この世界においても、イエスさまのおられる空間が目に見えて現れてきますようにとも祈っているのです。

 イエスさまがこの世界にお生まれになり、十字架で死なれ、そして、復活し、天に昇られましたが、今は、霊的に、この世界に「み国」を実現されています。その一番の空間が「礼拝」です。
教会の中に(礼拝の時に)天のみ国は実現しているのです。なぜならば、ここで、イエスさまが語られた言葉が読まれ、また、イエスさまがお命じなった、天の食卓が、イエスさまの臨在と共に、ここにあるからです。
私たちが、信仰によって、この空間を見ることができるならば、日々の忙しさ、また、肉の弱さによる不信仰によって、見ることも感じることもできくなった、み国を霊の目で見ることができるのです。聖霊なる神さまは、み国がここにあることを知らせるために目を開く神さまなのです。

この後、聖餐式を行いますが、どうぞ、イエスさまの言葉、「わたしの体、わたしの血」という言葉を大事にしてください。イエスさまは、礼拝の中に「み国」を作ってくださっているんです。

エフェソの信徒への手紙の中で、パウロは教会の礼拝の時に起こっていることを次のように教えています。

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教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(エフェソ1:23)
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 今日も聖餐式がありますが、まさに、イエスさまとの交わりを通して、「私たちは地上でみ国に生きていることを知るのです」イエスさまは、教会にその場所を設けられました。そこでパンを裂くように教えられました。そして、そこに私はあると約束されました。聖餐式は、集った私たちがイエスさまの十字架をただ思い起こす空間ではなく、イエスさまがみ言葉の約束通り、臨在される、地上に実現しているみ国なんです。

●礼拝に限りません(神の子として生きる場所も)
 今日、「み国が来ますように」という祈り(願い)を見てきました。「み国」とは、幸せだなぁって感じる場所のことではなく、イエスさまがいらっしゃる空間、そこが「み国」なんだ。ということをお話ししました。
愛に満ちた方、義に満ちた方、憐みに満ちたか、力ある方、永遠のなるお方がいらっしゃる世界だからこそ、そこは、素晴らしい世界となるんです。

 その空間として礼拝がありますが、もう一つ、覚えていただきたい「み国」があります。それは、私たちが、神の子として、平和を実現し、義を実行し、隣人を愛し、助ける時、そこに実現する、み国です。

イエスさまは、「あなたがたは、地の塩、世の光である」とおっしゃいましたよね。そして、そのように生きる時、人は、あなたをみて、神を知り、崇めるようになるとおっしゃいました。
私たちが、霊に励まされ、キリストと同じように、義に愛に生きる時、そこに神の国が実現しているのです。私たちが、イエスさまのように隣人を大切にするとき、そこに「み国が実現している」のです。嬉しくないでしょうか。

●最後に
 「み国が来ますように・・・」これは、あなたのいる世界で住みたいという願いです。それは、やがて来るみ国であり、今、信仰者の前に存在しているみ国です。
最後に、質問いたします。あなたにとって「素晴らしい世界」とはどのような世界ですか?それはどこにありますか?今日、そのことを、今一度、考えてもらえればと思います。お祈りいたします

『万軍の主よ、あなたのいますところはどれほど愛されていることでしょう』