宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



 マタイによる福音書  5章 13〜16節
 「最高の神」


●はじめに
 おはようございます。先週から、小教理問答をずっとしていくことにしまして、今週は先週の続き、「み名が聖とされますように」という祈りについて学びたいと思います。

●近しさを感じて祈る大切さ(信頼)
先週は、「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけの言葉について学びました。「神よ」と言わず、「父よ」という呼びかけ・・・ここで大事なのは、言葉の問題つまり、「神」の代わりに「父と呼ぶ」という言葉の問題ではなくて、「神さまとの関係において、親子のような近しさを意識して祈る」という「気持ちが大事である」ということをお伝えしました。

そしてさらに、「父よ」と祈る私たちが「意識しないといけないこと」は何かと言いますと、天の父は、人間の父以上に、私のことを大切に思ってくださっていて、私たちの人生を決して悪いようにご計画なさっていない。という信頼なんですね。それがないと、「父よ」と祈っていても、希望が持てなくなってしまいます。

●そのために・・・
とは言っても、信頼というのは、簡単に生じるものではないはずです。これは、クリスチャン生活を通して深まっていくものですが、そのためには、「信頼しようと言う思い」と「み言葉を信じて生きる生き方」が大切になってきます。
確かに、私たちの人生は、色々な事がありますが、神さまは、人生の全てを通して、私たちがもっともよい実りをもたらすように、一歩、一歩、歩みを整えていてくださるのです。

●主の祈りは私の願い
さて、主の祈りですが、主の祈りは、命令ではなくて、願いなんですね。「〜しますように」とか「〜してください」という言葉が最後に続くように、主の祈りは、私たちの願いなのです。どうですか?主の祈りは、皆さまにとって「わたしの心からの願い」となっていますか?それとも「暗記して唱えているだけの言葉」ですか?

実は、主の祈りは、私たちの霊的な成長のバロメーターになるのです。この主の祈りが本当に自分の願いとなっているのかという所が吟味して欲しいと思います。

もう一度、お伺いしますが、主の祈りの一つ一つの言葉は、皆さまにとって「わたしの心からの願い」となっていますか?それとも「唱える祈り」ですか?
主の祈りが「私の心からの願い」に近づけば近づくほど、イエスさまが近くなっていく・・・そのことを覚えておいて欲しいと思います。

●聖とされますようにとは何を祈っている?
さて、最初に言いましたが、今日は、主の祈りの最初の願い、「み名が聖とされますように」を見ていますが、これは何を願っているのでしょうか。

皆さまは、自分が感動したものがあれば、誰かに勧めたくなりませんか?たとえば、おいしいスイーツを食べられる店、または、素晴らしい景色。他にもいろいろあるかと思いますが、それを誰かに紹介した時に、その人も「そうだね」と喜んでくれれば嬉しくなると思います。

また、こんなことないでしょうか。運動会でもいいし、参観日でも良いのですが、皆さまが子どもで、学校に自分の親が来た。そのような状況をイメージしてください。
その時、クラスの誰かが、「あなたのお母さんおしゃれね」とか「若いね」とか「お父さん恰好いいね」と言われれば、嬉しくなると思います(残念ながら、うちの子ども達からは「恥ずかしいから来ないで」なんて私たちは言われていますけど)。

「み名が聖とされますように」これは、「素晴らしいあなた(神様のこと)」、「最高の神であるあなた」が、人々の間で、まさにそのとおりに人々に賛美されると私は嬉しい、賛美されて欲しい・・・そう願っている、それがこの祈りの意味です。

●み名とはどういうことか
ここで、ひとつ注意して欲しいことがありまして、ここで、「あなたが聖とされますように」とは祈っていません。「み名が聖とされますように」と祈っています。では、この「み名」とはどういうことなのか。

ある芸能人の方が昔こんな話をなさっていました。その人は、スポーツカーが好きな方で、有名ではないけど好きな車があって、それを買ったそうです(外国の車)。そして、ある時、町を走っていると、プスン、プスンと止まってしまったそうです。
すると、近くに丁度、その会社のディーラーがあったそうなのですが、急いで、車の所に近づいてきて、その車をけん引して、店舗に持って行ってタダで修理してくれたというのです。なぜ、修理をしたのかと言いますと、それは、サービスという面もあったかも知れませんが、その方曰く、自分ところの車が故障して動かなくなったのを人が見たら、「あの会社の車、大丈夫か?」と評判が悪くなっては困るというのが理由だそうです。その気持ちわかります。会社の看板に傷がつくということだと思います。
 聖書が「み名」という時は、神さまの御性質全ての総称ということになります。先ほどの車の会社は、自分の粗を隠したのですが、この天地をお造りになられた全知全能の神さまに粗はありません。神さまは、その存在がそもそも完全なお方です。ですので、聖さ、輝き、愛、まこと、永遠、力・・・そういった、神さまの全てのご性質に傷がつきませんようにという願いになります。

●二つの思い
さて、「み名が聖とされますように」という祈りで私たちは何を願い祈っているのかと言いますと、

まず一つ目・・・先ほど言いましたように、全ての人が、神さまの素晴らしさを知って、みんなが「神さまって素晴らしい」と思って、生きて欲しいという願い。
そして、もう一つ・・・私が「あなたの、その素晴らしいみ名を汚すようなこと」、「人のあなた対する評価を下げることがありませんように」という願いなわけです。
もちろん、ここに共通しているのは、あなたの御名を素晴らしいと心から思っていることです。

●地の塩、世の光として
ある時、イエスさまは弟子達にこうおっしゃいました。
********************************************************************
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
(マタイによる福音書5章13〜16節)
********************************************************************

イエスさまは、ここで「あなたがたは地の塩になれ、世の光になれ」と命じておられるのではなく、イエスさまは「聖書の神を信じるあなたがたは、地の塩である。世の光である」という自覚を与えようとしておられるのがわかります。
そして、最後に、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とおっしゃっています。

●命じられて?喜んで?
 確かに、私たちの立派な姿を見て、人が、神さまって素晴らしいと言ってくれると嬉しいことですが、多くの場合、私たちの日頃の生き方というのは、誇れるものではないと思います。やはり、ここでも、大切になってくるのは、「地の塩、世の光にならないと、み名を汚す」と自分を律して生きるのか、「み名が賛美されるなら、地の塩、世の光でありたい」と願って歩むのかというところだと思います。

 私たちは、確かに、肉の弱さがありますので、人は私を通してむしろ躓くと考えることでしょう。しかし、神さまは、もう一つの道、思いを与えてくださいました。
 それは、イエスさまがくださった救いを喜ぶということです。

エフェソの信徒への手紙1章3〜4節にこうあります。
********************************************************************
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
********************************************************************
確かに、私たちの姿を通して、世の人が神をたたえ、正しく生きるようになってくれれば、それに越したことはありません。しかし、実際には無理だと思います。

●イエス・キリストを宣教する
聖書は、むしろ、私たちの罪深さ、また、無力さを示し、イエス・キリストと一つになることを教えます。私たちは、福音を通して神さまの素晴らしさをむしろ認識し、それを喜ぶようになるのです。それが、神さまの御計画だったのです。
イエスさまは私たちを聖なる者にしようと、神なのに人となり、罪がないのに、私たちの代わりに罪人となってくださり、死ぬ必要のない神が死にまで、黄泉にいたるまで、謙ってくださいました。

私たちは、そのようにしてくださった神さまをほめたたえ
また他の人に対してもここまでしてくださった神さまを紹介するのです

私たちは「み名が聖とされますように」と願うのですが、どのようにしてそれを実現するのでしょうか。もちろん、地の塩、世の光としてです。しかし、それ以上に、“わたし”のために十字架に掛かってくださったイエスさまを私が喜ぶことによってなのです。

今日は、主の祈りの、「み名が聖とされますように」を学びました。「み名が聖とされますように」これは、「素晴らしいあなた(神様のこと)」、「最高の神であるあなた」が、人々の間で、まさにそのとおりに人々に賛美されると私は嬉しい、賛美されて欲しい・・・そう願っている、それがこの祈りのポイントであることを忘れないでください。
イエスさまは、その思いを持っておられました。ですので、十字架の死にまで従われたのです。
心から、み名が聖とされて欲しい、崇められて欲しいと、願うようになっていきましょう。


お祈りします。

ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し長らえる限りわたしの神にほめ歌をうたおう。君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
とこしえにまことを守られる主は虐げられている人のために裁きをし飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち主は見えない人の目を開き主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。