宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



マタイによる福音書  7章  7〜12節
 「天の父よ」

 おはようございます。今日からしばらくの間、小教理問答から説教をしていきたいと思います。振り返ると、昔は、第3日曜日の午後に勉強会をしていた記憶があります。でも、ある時から、皆さまとゆっくり聖書の学びをする事ができなくなったんですね。また、今、皆さま、本当に忙しくて、勉強会をしても参加することも難しくなっています。
 そこで、礼拝の中で、小教理を説教という形でさせていただいて、皆さまに基本的な聖書の教理を知って欲しいと思いました。さらに言えば、コロナが始まってから礼拝の動画をアップしていますので、毎週、説教の音声の部分だけを取り出して(映像はなし)、私の声だけをYouTubeでアップしてみようかと思います。ですので、礼拝をお休みした方、また、小教理をもう一度学び直してみたいという時には、是非、聴いて欲しいと思います。


そこでまずは、「主の祈り」からお話ししていきたいと思います。今日は、「主の祈り」の中でも、一番初めの呼びかけの言葉「天におられる私たちの父よ」・・・この呼びかけの言葉からお話ししたいと思います。

 主の祈りは、イエスさまが私たちに教えてくださった、祈りです。十戒が「神が天から人々に与えられた命令(戒めとも言われますが、正確には言葉です)」であるならば、主の祈りは、人となられた神が、「地上から天に向かって人間の祈り、祈りのエッセンス」という事ができると思います。祈りのエッセンスというと、良く分からないかも知れませんが、主の祈りのお話しが終るころには、そのことの意味が分かっていただけるのではないかなぁそんな風に持っています。

是非、主の祈りを通して整えられる霊的な成長を大切にしていただきたいと思います。

 イエスさまがいつもなさっていたこと、それは、天を見上げて(仰いでと言ってもいいかと)祈るということでした。時には「賛美の祈りをささげた」ともありますので、祈りは願いだけではなく、褒めたたえる言葉でもあると言えると思います。

イエスさまは祈る時「天の父よ」そのように呼びかけられるわけです。しかし、イエスさまが切にお祈りなさるときには、「アバ、父よ」と呼びかけられるのです。それは、成人した子と親との関係よりも、小さい子どもが親を信頼して呼びかけるような感じで、父なる神さまに訴えるように祈られることもありました。

 ルターは、この主の祈りの一番初め、「父よ」という呼びかけに対して、こう教えています。「神は、これによって、神がわれわれのまことの父であり、われわれが神のまことの子であることを信じ、ちょうど愛する子どもたちが、その愛する父に求めるように、全き信頼と安心とをもって神に求めることをおすすめになります」

 「神よ」と言わず、「父よ」という呼びかけ・・・ここで大事なのは、「神」の代わりに「父と呼ぶ」というような言葉の問題ではなくて、「神との近しい関係を意識して祈る」という気持ちの問題なんですね。

 イエスさまは、今日の福音書の個所でこうおっしゃっています。

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「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
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「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」このイエスさまの言葉を聞いて、私は、昔は、こう思っていました。「イエスさまはそう言っても、与えられないことも、見つからないことも、開かれないこともあるよね」そんな風に思っていました。皆さまもそんな風に思う事ありません??
結局の所、「祈ってみるか・・・もしかしたら叶うかも知れない」そのようなレベルにまで落ちてしまうことありますよね。

でも、最近感じるのは、やはり、イエスさまは本当のそう思って(そのことを実感しておられて)私たちに教えておられたんだということなんです。

私、牧師になるまえ、公務員をしていたでしょ。色々な人の申請や届け出を受け付けたり、行政指導をしていたりしました。外に出ていない時は、接客することが多いのですが、ある人は一度きり、ある人は、何度も申請(届け出)にやって来られます。私はその時に相手の願いを聞いて、時には受付、時には、ダメですと断るんです。また、次々、電話があり、また、人がくるので、一人の人の事ばかり考えていません。“目の前に来られた時だけ”、その人の御用聞きになるわけです。
一方で、私は親であるわけです。三人の子どもが、色々なことを言ってきます。尋ねて来たり、お願いして来たりします。しかし、私は、その時だけ、その子の御用聞きをしているのではなく、ずっと、気にかけていますし、いつも、その子の成長を考えて、対応を考えています。

神というお方は、王様や行政官のような方ではありません。決して、私たちが祈る言葉だけを聞いたり(受け付けたり)、祈っていない時は、何も私たちのことを考えておられないお方ではありません。神さまは、子を思う親のように(私たちの人生が祝福された人生になるように)いつも見守りってくださっているんです。
そして、「私たちが死んだ生き方ではなく、生きた生き方」になるように、右に行かせるために、時に、逆に左のものを渡すお方なんですね。神さまは、私たちが祝福された人生、祝福された家を築くように、時に、かなえ、時に、だまり、時に、全く逆の願わぬものをお与えになっているのです。私たちみんなに共通している、天の父は、私たちに、必要なものを与えてくださっているのです。ですので、イエスさまも、まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない(必ずくださるという意味)。そうおっしゃるのです。

 今日は主の祈りの中でも一番初めの「天におられる私たちの父よ」という呼びかけを見ていますが、大事なのは、信頼(親子関係に見られるような信頼)、親であるならば決して悪いものを与えることはしないという信頼なんです。その信頼の思いをもって、父なる神さまに祈り近づいていく。これが大切なんですね。

 そして、その信頼という意味で、もう一つ必要なことを最後にお話ししたいと思うのですが、それは、「委ねる」思いです。「委ねれるまでに至る神への信頼」です。

「委ねる」と「あきらめる」この言葉の違い、皆さまどう思いますか?
川を上流に向かって、船を漕いでいる人がいる。しかし、始めは頑張って上流に向かって漕いでいたけども、途中で、漕ぐのを止めて、川の流れに身を任せた・・・。これは「あきらめる」ですよね。
一方で、お医者さんの言う通りに従って治療してもらう。これは、「委ねる」という事ですよね。
同じ、“大変な状況”、同じ、“自分でどうにかすることをやめる”、同じような状態なのですが、そこには、大きな違いありますよね。

それは、希望を持っているか、失っているかです

 私は、困難なことがあり「どうなるのかな、どうしたらいんんだ・・・」と不安(心配)になる時に、「何とかなる」そう言葉にすることがあります(心に向かって言うことも)。すると少し、気持ちが楽になるんですね。ここに神さまに対する信仰が加わると、さらに心の不安が薄れていくんですね。

ビートルズの曲に「レットイットビー」という曲があります。ご存じですか?この曲のタイトル、「レットイットビー」とは「あるがままに受け入れる(委ねる)」という意味です。

When I find myself in times of trouble(私が苦難の中にいることに気づくと)
Mother Mary comes to me(聖母マリアが私の所にやってくる)
Speaking words of wisdom, (そして、知恵の言葉を授けてくれる)
let it be(「委ねなさい」と)
And in my hour of darkness(私が暗闇の中にいる時)
She is standing right in front of me(彼女は私のすぐそばに立っている)
Speaking words of wisdom, (そして、知恵の言葉を授けてくれる)
let it be(「委ねなさい」と)
Let it be, let it be
Let it be, let it be
Whisper words of wisdom,(囁きのような知恵の言葉)
let it be(「委ねなさい」)

聖書には、沢山の知恵の言葉が書かれています。その中で、人間にとって大切なこと、最高の知恵とは「神に委ねる」ということなんですね。

しかし、その時に、信頼できる思いがとても大事になってきます。それは、「神がどのようなお方なのか」ということ。「神さまは私の人生をどのように思ってくださっているのか」そのことをしっかりと知らなくてはなりません。そこで、イエスさまはおっしゃるんです。「神はどのような方か?」「最高の父親のような人だよ」「神は私の人生をどうおもっているのか?」「それは、父が子の幸せを願わないはずはない。最高の父である神は、あなたの人生を豊かに祝福される」そうおっしゃるんです。

そのイエスさまは、ご自身が、捕らえられ、苦しめられ、十字架にかけられ、神に呪われるという、一番の苦しみを前にして祈られたのが、「この杯を取り除いて欲しい」という切なる願いと共に「でもわたしの思いではなくあなたの思いがなりますよう」という祈りでした。それは、父なる神のなさることは、私にとっても、また、全ての人にとっても間違いのない、最高のご計画であるということをご存じだったからです。

そのご計画とは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
つまり、私たちみんなが、神の子となるため(あの白く輝く聖なる神と同じように、私たちを罪のない聖いものにするため)だったわけです。

 今日は、主の祈りの中で「天におられる私たちの父よ」という個所を学びました。私の父と、みなさまの父は同じなんです。わたしは、みなさまを本当に愛しておられる神さま(父と呼んでも全く遜色ないお方)を知っているのです。神さまは、人間の父親以上に、最高の父親のような深い愛をもって、みなさまを見守っておられるお方です。

 祈る時に、最高の父に信頼しているように、「天の父よ」そう信頼して祈るようにしてください。だんだん、信頼できるようになります。そして、「あなたの思いであれば、わたしにとって、それが、最高の祈りの答えです」そう思えるように必ずなっていきます。