宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



ヨハネによる福音書 5章 1〜9節
 「とらわれた心」

●恵みの年が来た
 おはようございます。
 イエスさまが宣教を始められた時のことですが、ある安息日に会堂で、聖書を朗読されたんですね。その時にイエスさまが朗読された個所がイザヤ書の言葉でした。
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 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
(ルカ4章18〜19節)
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 このイザヤ書の預言の言葉は、とても、希望に満ちた預言なんですよね。自由を与え、回復し、解き放つ、全て、身動き取れなくなった人を解放する人が来る。あなたたちを自由にする人を神が遣わしてくださる。そのような約束の時が来る。そのような預言の言葉を書いたイザヤ書の個所なのですが、この聖書箇所を朗読された後、イエスさまは席に座られ、皆がイエスさまが何をおっしゃるか注目した時に、イエスさまは、こう宣言されたんですね。

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」

 この言葉を聞いて、多くの人は、驚きました。なぜなら、書かれている「主の霊が注がれた者」とはわたし(イエス)のことであり、人々をあらゆることから解放する時が“今”来ましたよと宣言されたからです。

 それからイエスさまは、盲人の目を開き、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにし、足の萎えた人を歩かせるなど、自由を失った人を次々と解き放って行かれたんですね。しかし、それは、医者として歩まれたのではなく、神の到来、救いの神(解放の神)の到来を告げ知らせるしるしであったわけです。
 イエスさまの目的は、人々に「待っていた、天の国は近づいた(ここに実現している)」その霊的な目を開くことでした。

 そのイエスさまが、一人の病気の人を癒された。それが今日の話しなんです。

●ベトザタでの出来事
 今日の聖書は、ベトザタという池でのお話しです。池と言っても、自然の中にある池ではなく、エルサレム神殿の北側にある、恐らく遠くから引き込まれた水が溜まっている池だと思われます。この池は、大きな四角形の形(回廊で囲まれた約100m四方)で大きなプールのような池なんです。
 で、この池の名前が“ベトザタ”という名前でして、その意味は、“憐みの家”という意味だそうです。

 わたし、小学生の頃、近くにある銭湯に行くことが良くありまして、その銭湯の看板にラドン温泉と書いてあったんです。ラドン?小さい頃でしたので、最初、めっちゃ危険そうな温泉に感じました。実際は普通の銭湯でした。ラドンを入れると効能として、内側から体を温める効果があるそうです。

●名前の由来
 この“ベトザタ”という池。当時、言い伝えがありまして、この池で体を清める、もしくは、体を浸かるとどんな病でも治るというのです。ただし、ただ入ればいいのではなくて、時があるんです。時々、水面が動くんですね(恐らく、水路などで遠くから水を引いているのですが、時々、湧き水のように水面が盛り上がるのでしょう)。その時に一番に入った人が治るというのです。

 ですので、このベトザタの池には多くの病の人が集まってきていました。今日の聖書箇所にはこう書いてあります「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」

 でも、奇跡が起こる池と言っても、それは、言い伝えでしかなかったと思います。

●実際は治ることない
 実際には、特別な時に水に入った人が、順番に治って帰っていくということはなかったと思います。もちろん、奇跡的に元気になる人がいるかも知れません。それか、巡礼に行って、水で洗う、もしくは、沐浴した人が、家に戻ったら健康になった(効能?)。そんなこともあったかも知れません。しかし実際の所、殆どの人は治らなかったでしょう。
 もしかしたら、水面が動いた時に頑張って入ったとしても、治らなかった場合は、タイミングが悪かったとか、あの人の方が少し早く入ったのかもとか、言い訳を自分にしなければならなかったのかも知れません。池の伝説を否定したら、自分の病は絶対に治らないということになるので、最後まで、池の癒しの力を正当化したかも知れません。私も自分を振り返ると病に対して最後まで希望を持ちたいという経験がありましたので、その方々の気持ちが少しわかります。
 そうなると、この池は見方を変えると、お医者さんに診てもらうお金がない人、お医者さんに見放された人、生まれつきの病の人でいっぱいになっている「憐みを待つ人たちの終着駅」のような場所になっていたのだと思います。

 そこにイエスさまがやって来られるんです。そして、イエスさまが目に留められたのは、38年間、病に苦しんでいる男性でした。
 その彼にイエス様は、目を留め、彼に近づき、尋ねた言葉が「良くなりたいか?」というお言葉でした。

●彼は既に希望を失っていた
 良くなりたいか??誰が見たって、治りたいに決まっています。治りたいからこそ、そこにずっといるのですから。なのに、イエスさまは、なぜ、そのように聞かれたのか・・・。
 それは、尋ねておられるのではなく、治してあげようという誘導の言葉です。イエスさまの「治りたいか」は、「私は治せる」という意味、だから、私に気持ちを向け、私に手を伸ばせ、そうすればあなたは動ける、そういうことをおっしゃっているのです(冒頭のイザヤ書の預言)。

 しかし、イエスさまの言葉は、彼の気持ちを切り替えることはありませんでした。彼はこう言っています。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」彼は希望を持っているようで、希望をすでに失っているんです。さっきも言いましたが、ベトサダの池は、病院じゃない。希望を失った人たちの終着点のような場所になっていたわけです。イエスさまにすれば、見るに堪えないと思います(不自由になっている)。

●自分が危ないと思える信号
 「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」希望を持っているようで失っているこの言葉。これは、人間であれば誰もが持っている弱さです。他の人のせいにすることです。
 私は、自分の口から出る言葉で、この言葉がでれば、注意しないとと決めている言葉があります。それは「誰も」という言葉、「みんな」という言葉です。「誰も理解してくれない」「誰も手伝ってくれない」「みんな興味がない」「みんな忙しい」そのような悟りの言葉(誰も、みんな)が出て来た時には、「あ、危ない」と思うようにしています。
 この悟りの行きつくところは、他の人の言葉を聞こうとしなくなり、自分は不幸な人間というレッテルで自分を納得させようとする、立ち上がれない人になってしまうことです。

「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」

 “誰も”わたしを助けようとしてくれない。私は、自分の力で人より早くいけない。“みんな”、我先にと行く、健康な人もわたしを助けようとしてくれない。まさに、この人が陥っているのも同じ状況です。
 これは、心が囚われた状態で、下手をすると自分の力で立ち治ることができません。
●起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。
 イエスさまがこの人に行った言葉、それは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」という言葉です。全てを他の人のせいにしたり、世間のせいにすると、自分の力で立ち上がれなくなります(立ち直れなくなる)。しかし、神さまに耳を傾ける時、私たちは、立ち上がることが必ずできます。

●玉音放送
 今、ウクライナとロシアでずっと戦争しているでしょ。マリウポリという町が、今、制圧された、されていないという二重のニュースが流れています。でも、実際には、わからないのです。なぜなら、戦争は、嘘の情報を国民にも世界にもあえてながすことが多いからです。
 昔、日本も戦争をしました。新聞とかラジオは嘘の情報を国民に流し続けていました。日本は勝っている、鬼畜米英、敵国が間違っている。そんな情報を流し続けていました。国民は、本当に、そう思い込んでいたんです。すると、どうなるか。それは、負けたと聞いても信じようとしない。日本が悪い部分もあったとしても、いやいや、周りの国が全部悪い、そんな風に思い続けてるわけです。
 日本国民は、敗戦を信じ切れなかった、しかし、一人の人の言葉で、日本人の目が覚めました。それは、天皇陛下の玉音放送でした。国民を正気に戻したのは、天皇陛下の声だったんです。上からの声は、人を正気に戻すことができるんです。

●神の声
 神の声。これこそ、私たちの目を覆ていたものを開く声。私たちの耳を塞いでいたものを取り除ける声。動かなくなった私を再び動かしてくれる声。希望を失った私に、希望を与えることができる声。捕らわれた心を解放してくれる声。それは、神の声なんです。イエスさまの声なんです。神はそのためにみ言葉を語られるのです。

●最後に
 人は誰しも弱さを持っています。人は、心が囚われると動かなくなってしまいます。今日のこの38年間、病に苦しんでいた人。彼は自由に動くことができませんでした。しかし、この人が陥っていたのは、体だけでなく、心の自由も失っていたのです。イエスさまは、その彼の心も解放していかれたのです。

 そのポイントは、「自分であるきなさい。わたしの言葉は、あなたを立ち上がらせる力を持っています」というイエスさまの言葉です。
 イエスさまの言葉は、音声ではありません。わたしたちの解放する“力”のある声です。

 私たちは、色々なことで、行き詰まりを感じます。また、理不尽だらけの社会で、「誰も」「みんな」と言って悟りを開いて動けなくなってしまうことが多くあります。私たちはイエスさまの声を必要としています。イエスさまの声を聴く必要があります。
 イエスさまの声はわたしを解放するんだ。是非そのことを忘れないでください。

 お祈りします・・・

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 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。(ヘブル人への手紙4章7節)
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