宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



ヨハネによる福音書 13章 31~35節
 「互いに愛し合いなさい」



 おはようございます。皆さん、体育座りって覚えておられますか?昔、学校で体育の授業やみんなで集まって先生の話しを聞くときによく体育座りさせられましたよね。三角座りとも言われるあの座り方、近い将来、廃止になるかも知れないそうです。
 座って膝を立て、手でその膝を抱える。これが内臓を圧迫し、腰の痛みを引き起こすということで懸念され続けていたようです。運動中に水を飲むというのもそうですよね。今では、熱中症対策のために水分補給をするように言われていますが、私が小中学生の頃は、運動中は喉が渇いても水を飲むな。そんな指導を受けていたような気がします。
 当時は、精神論的な意味で、飲むなと言われていたのかと思っていますが、案外、意味があるそうです。それは、運動中に沢山の水分を取ると、体のイオン濃度が極度に下がり、運動で疲労している体にとってかえってよくないということだそうです。ですので、今でも、水分を取るようにと言われますが、塩分などを同時に取るように言われていますよね。


 喉が渇く。これは人間であれば誰もが体験することです。それは、実際的な水を欲するという渇きもありますが、愛に渇くということも経験します。


 私たちは、今日、このようにイエスさまのもとに集まり、こうして礼拝をしています。イエスさまは、今も生きておられます。死んだキリストではなく、生けるキリストを私たちは礼拝しています。イエスさまは今も生きておられます。一度は、苦しみを通られましたが、復活して、わたしたちと共におられます。私たちと一つとなろうとしてくださっている。そのように言っても良いと私は思います。

 イエスさまは、一度は苦しみを通られました。それがどれほどの苦しみだったのか、それは、イエスさまのこの言葉によって分かります。それは、「渇く」という言葉です。
 聖書を読みますと(ヨハネ19章28~30節)、イエスさまは十字架の上で、最期に「渇く」という言葉をおっしゃり、そして、「成し遂げられた(完了した)」そう言って頭を垂れ、息を引き取られた。そのように聖書に書かれています。
 「成し遂げられた・・・」。何が成し遂げられたのでしょうか?それは、私たち全人類の罪をイエスさまが(自分の苦しみと死をもって)清算してくださったということです。


 「渇く」これは沢山の傷を受け、血と体液が流れて出ていく人、特に、死の間際の人に共通する渇きだそうです(原爆の話しからもわかる)。これは、ある意味、イエスさまがどれだけ長時間に渡って血を流され続け、また、体液が徐々に失われていったのかを物語っています。でもそれは私たちに命を与えてくださるためでした。
 そして、もう一つ、イエスさまが通られた「渇き」があります。それは、霊的な渇きです。神の独り子としての渇きです(神に見放されることによる渇き・神が死ぬという渇き)。

 古来人間は、神さまを遠くに感じると、霊的な渇きを覚えました。詩編の42編にそのことを表現した美しい歌があります(詩編42編2~4節)。

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 涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。(詩編42編2~4節)
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 また、詩編22編の2節にはこうあります。
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 わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。(詩編22編2~3節)
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 神から見捨てられたような時、また、人に見捨てられ時、また、本当に孤独な時、渇きを覚えます。

 イエスさまはご自身から溢れ流れる霊的な力を持つお方です。聖書を読みますと「私が与える水を飲む者は決して渇くことなく、永遠の命に至る水が湧き出る」そのようにおっしゃっています。でも、そのイエスさまが「渇く」というのはどういうことでしょうか?

 それは、父なる神さまに本当に見捨てられたということ。また、想像するに、湧き出る水の源であるお方から、水が枯渇してく…そのような神の死を表しているのです。

 肉体的にも霊的にもご経験された極度の「渇き」それは私たちを救うために通らなければならなかった苦しい道でした。


 イエスさまの「渇く」という言葉。この言葉を、もう一つの意味として受け止めた人がいました。それは、マザーテレサでした。

彼女は、愛に渇く人の魂の渇きを、イエスさまご自身が渇かれていると感じていました。

 神さまに見放された人は、霊的に渇きを覚えます。また、孤独を感じると、人に愛されたいという「渇き」を人は覚えます。
 マザーテレサは、インドに行って、誰にも愛されずに死んでいく人たちの姿を見て、大変、心を痛めたようです。そして、マザーテレサは、イエスさまもまた彼らの中で、「彼らを見て渇きを覚え」また「彼らの渇きがご自身の渇きになっていた」そのことが分かったんです。何より彼女は直接イエスさまの「渇く」という言葉を聞いたそうです。


 十字架上で「渇く」とおっしゃったイエスさまは、今、この世界の(私たちの中にある)愛に渇きを覚えておられます。「人々が互いに愛し合う心」がこの世界に満ちるように、誰もが、孤独になることなく、また、大切にされる、そのような愛に満ちた世界になるように願っておられるんです。しかし、現実は、そうではないんですね。

●1+1=?
 今日は、「互いに愛し合ないなさい」というイエスさまの言葉を説教題にいたしました。「互いに愛し合う」という言葉を理解するために「1つ」という言葉に注目するといいと思います。

 エジソンと言う人の逸話の中でこういうのがあります。ある時、エジソンは、1+1がどうして2になるのかがを先生に尋ねたそうなんです。エジソンは、たとえば粘土で作った団子は二つ合わせると(ひっつけると)一つになるじゃないの?という疑問を先生に投げかけたようです。これは、屁理屈を言ったのではなくて、1+1がいつも2になるという大前提がおかしいということを伝えたかったのだと思われます。1+1=2ですが、時に1+1=1になることもあるということですよね。

私たちは、お互いを1+1=2で捉えていると思います。しかし、聖書が互いに愛しあいなさいという時、それは、1+1=1を意味するのだと思います。

 「1」を英語で何と言うでしょうか。「ワン」ですよね。では「1つ」は英語で何というでしょうか?「ワン」確かにそうです。でも、他にもあります。「ユニティ」です。これは「複数あってもそれがまとまっている」という意味があります。でも他にもあります。それは「シングル」です。


 先週、説教題(近藤先生)は「わたしと父とは一つである」でしたよね。この言葉はイエスさまの言葉です。イエスさまは、「わたしと父なる神は一つである」とおっしゃっいました。イエスさまは「わたしを見た者は父を見たのだ」ともおしゃっいました。イエスさまはどういう思いでおっしゃったのでしょうか?ユニティ(仲間・結束)でしょうか。私は限りなくシングルに近い意味だと思います。

 では、人間同士はどうでしょうか。また、聖書にアダムとエバが創造された話がありますが、その個所でこう書かれているんです。

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 人は言った。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(創世記2章23~24節)
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 「“結ばれ”二人は“一体”となる」と書かれています。これも、ユニティ(仲間・結束)よりシングルに近いと言えるのではないでしょうか。

 地球上の生物は一つの太陽の恵みによって生かされています。太陽があって、植物があって、動物があって、微生物があって・・・。私たち生物は、その肉体的な命を一つの太陽のエネルギーからいただいています。また、私たち人類は、遺伝子的に一人の人から増え広がっているのが知られています。聖書的に言っても、私たちはひとりの神によって生かされており、また、全ての人は一人の人アダムから生まれてきています。
 しかし、人類に罪が入り込んできたとき、「私は私」「あなたはあなた」という感覚が生じ、「わたし」と「あなた」は全く違う存在のようになってしまいました。

 イエスさまは十字架での苦しみと死、そして、復活を通して、何をしてくださったのでしょうか(何をしてくださっているのでしょうか)。
 イエスさまは、私たちを一つにしようとされているのです。イエスさまによって霊の命が回復された私たちは、お互いを兄弟姉妹と呼び、また、神を父と呼ぶ一つの霊の家族とされました。そして、今日も、霊的な1つのパンと1つの杯から私たちを霊的に養おうとされているのです。

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 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。(ヨハネ13章34~35節)
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 罪の入り込んだ世界は、「わたしはわたし」、「あなたはあなた」という風になってしまいました。イエスさまは、この世界を回復しようとされたのです。イエスさまはこの言葉を、群衆ではなく、弟子たちだけにおっしゃいました。それは、あなたがたの輪の中に「1つ」という世界を実現しなさいという命令でもあります。

 もちろん、クリスチャン同士でなくても、同じ、家族、友人関係の中でも、愛するということは大切です。その時に、

 1+1=2ではなく、1+1=1、つまり、「わたし」と「あなた」は「1つ(シングル)」そう思ってみてください。すると、「互いに愛し合う」という意味が“当然のように”もしくは“受け入れやすく”感じれると思います。

 隣人を愛する基本は「あなたの喜びは私の喜び。あなたの悲しみは私の悲しみ。あなたの渇きは私の渇き」このような思いになれることです。


『マザー・テレサの言葉』

 どんなにか深くイエスはあなたを愛していることか、それはあなたの想像をはるかに越えています。私はあなた方の中で、まだ本当にイエスと出会っていない人がいることを心配しております。一対一、すなわちあなたとイエスだけで、という意味です。

 私たちは聖堂の中で時を過ごします。しかしあの方がどんなに愛をこめてあなたを見ているか、魂の目で見たことがありますか。あなたは本当に生きているイエスを知っていますか。それは本からではなく、あなたの心の中で、あの方と共に在り続けることによって知るのです。

 あなたはあの方が語りかけてくる愛の言葉を聴いたことがありますか。(それができるように)神の恵みを願いなさい。あの方はその恵みをあなたに与えたくてしようがないのですから。

 あなた自身の心の静けさの中で、イエスの声を聞けるようになるまで、あの方が貧しい人々の心の中で "I THIRST."(私は渇く)と言っているのを聞くことはできないでしょう。

 日常、イエスと親しく触れ合うことをあきらめてはいけません。私が言っているイエスとは実際に生きている存在としてのイエスであって、頭で想像するイエスではありません。

 「あなたを愛してます」というイエスの言葉を聞くことなしに、一日を終えることができるでしょうか。いいえ、できません。身体が呼吸するように、私たちの魂はその言葉を必要としているのです。もし、そうでなければ、私たちの祈りは死んだも同然です。黙想はただの考えている時間に過ぎません。

 イエスはあなた方一人ひとりに、耳を傾けてくれることを求めています。あの方は、あなたの心の静けさの中で語りかけているのです。