宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 


ヨハネによる福音書 20章 19〜31節
 「あなたが信じるために」


 おはようございます。教会のカメラが壊れまして、中古ですが本体を注文いたしました。先日、そのカメラが届いて、さっそく封を開いてカメラを取り出しました。購入したのが中古ですので、封を開いた時にまず気になったのが、どこまで使い古したカメラかということでした(私だけかも知れませんが)。購入したものは綺麗なカメラで目立った傷はありませんでした。次に気になったのはレンズがはまるかどうかでした。というのも、購入したのは、カメラの本体だけだったんです(レンズは壊れていないので)。ですので、中古で買ったカメラに、これまでのレンズが使えないと困るんですね。でも、これも無事クリア(ちゃんとはまりました)。さて、ここからです。一番、心配だったのは「ちゃんと動くか」ということでした。当たり前ですよね。カチっとスイッチを入れてみました。動かないんです。よく見ると、バッテリーが入っていませんでした。気を取り直して箱の中を見てみると、プチプチに丁寧に包まれたバッテリーがありました。それを、本体に差し込んで、スイッチを入れてシャッターを押すと、ピピっとなって、カシャって音がしました。ちゃんと撮れていたんです(良かった)。
 カメラの本体があってもバッテリーが入っていなかったらカメラは動きません。しかし、一度、本体にバッテリーを差し込むと、カメラが甦る・・・。

 これは、私達の命についても同じではないかと思います。私達の心に、イエス・キリストを受け入れた時、イエスさまの神としての命が私達の中で甦ってくる。私は、長年牧師をしていて、そのことが本当に真実だと思います。

 イエスさまは、ある時、井戸に水を汲みに来ていた女性にこうおっしゃったことがあります。
*******************************************************************
 この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。
(ヨハネ4章13、14節)」
*******************************************************************

 イエス・キリストを信じるとは、頭で信じるのでも、考古学的な証拠や学者の見解を聞いて間違いないと思って信じるのではないんです。イエス・キリストを信じるとは、イエス・キリストを心に受け入れることなんです。そしてイエス・キリストを心に受け入れる時に命が甦るのです。
 バッテリーが入ってなくて、動かないカメラが、ひとたび、バッテリーを本体の内部に押し込んだら、甦るように、私達の命もまた、イエス・キリストという永遠に朽ちない泉のようなお方を必要としているんです。その方を心に受け入れる。または、外から聞こえてくる神の声をそのまま受け留めるときに私達の中で命となるんです。

 今日、私たちは、ヨハネによる福音書を見ています。今日の話しは、イエスさまが復活したその日の出来事と、8日目の出来事です。
 イエスさまが復活された事をまず確認したのは婦人たちでした。その婦人たちが弟子たちにそのことを告げますが、彼らの中でまだイエスさまが復活したという信仰が芽生えませんでした。彼らは、時に権力者がイエスさまと一緒に自分たちも処刑してしまうのではないかと思い、彼らは集まってはいますが、恐れて部屋を鍵をかけていました。そこにイエスさまが現れて彼らに傷跡をお見せになった。これが、復活された日の弟子たちとの再会です。しかし、そにトマスがなぜかいなかったんです。
 弟子たちは、トマスに「私は主を見た」そう言ってトマスを喜ばせようとします。しかし、トマスは喜ばなかったんですね。「主を見た」という彼らに対して、トマスは「見るだけでなく触れるまで信じない」と返すんですね。見るだけでなく、触れるという物理的な確認なくしては信じないというのがトマスでした。8日目。同じようにして、彼らがカギをかけて家にいると再びイエスさまは彼らの真ん中に現れました。そして、トマスに向かって、「こっちに着てご覧なさい。そして、私の傷跡に触れてみなさい」そう言ってトマスを招くんですね。その言葉通り、トマスはイエスさまの傷跡に触れてみて、「ああ主だ・・・」そう確信するんです。その時、彼の口から出た言葉が「わたしの主、わたしの神」でした。これは美しい告白の言葉です。

 彼が主だと思えた時に、イエスさまがおっしゃられた言葉が・・・。
*******************************************************************
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネ20章29節)
*******************************************************************

 この言葉を聴いて、「見て信じる人」と、「見なくても信じる人」とを比較しているように感じるかと思います。もしくは、「見なくても信じる人の方が凄い(信仰が強い)」という表現のように聞こえるかもしれません。しかし、これは、当時のユダヤ人(社会)の状況を知ると少し違って見えてきます。

当時のユダヤ人はしるしを求める民だったんです。

 聖書を見ますと、イエスさまは度々、「メシアであるならばその証拠を見せなさい」と人々から言われているのが分かります(参:マタイ12:38)。ちなみに、彼らにとっての「証拠」は、「奇跡」ではなくメシアとしての「しるし」でした。
 「奇跡」というのはミラクル。つまり、ワオ!って思えるような業です。
 昔、私、小さい頃、兄と一緒に仮面ライダー(正確に言うとキカイダーですが)ごっこをしていた時がありまして、その時、私が、変身する時の言葉を言って「ふんっ」ってやったら、隣の部屋の荷物がバサバサ〜って落ちがことがあって、びっくりしたことあるんです。でもこれは、偶然という奇跡であって、それは、決して、私がメシアである証拠にはなりませんよね(メシアじゃないし)。奇跡はメシアの証しにはならない。じゃあ、「しるし」とは何かと言いますと、旧約聖書と照らし合わせた時に見えてくるメシアならではの力のことです。時に水を葡萄酒に変え、時に、目の見えない人の目を開き、時に水の上を歩き、また、荒野で5000人もの人にパンを与えたりする。それらは、しるしです。そして何より、3日目に復活するということが一番のしるしだとイエスさまは旧約聖書のヨナの話しを用いながらご説明なさいました。

 当時のユダヤ人たちは、イエスさまに「しるしを見せてくれたら信じよう」という態度でした。イエスさまは、何度となく、そのしるしをお見せになりました。しかし、それでも彼らはイエスさまをメシアだと信じることはありませんでした。むしろ、ローマの総督ピラトも、ユダヤの王様ヘロデも、宗教的リーダーたちもみんな、イエスさまのしるしを見たのにイエスさまを十字架にかけて殺したんです。「これが人間の限界なんです」罪というのは本当に根強くて、神の言葉をブロックする、目で見ても、耳で聞いても、ブロックしようとするんです。それが罪の力です。見ても最後には信じれなくなる。これが人間です。

 トマスもそうですが、私達もイエスさまを一目で良いから見たいと思いますよね。見たらもっと信じれるのに・・・って思いますよね。でも、そうじゃないんです。

見たら信じるというのではなく、イエスさまの言葉を聴いて、心の中に受け入れると、イエスさまの存在が見えてくるんです。信じるとは、証拠によって確証を得たことを納得することではないんです。信じるとは、イエスさまを心に受け入れることなんです(ヨハネ4章)。

 カメラの本体にバッテリーをガチャっと装填するように、イエスさまを心に迎え入れる。心のガードをオープンにするように受け入れるならば、イエスさまの存在を感じるようになってくるんです。そして、そこから命が湧き上がってくるんです。
 見る、触る、そうしたら信じれる。ではなく、イエスさまの言葉を聴いて、そのまま受け入れる(信じる)、そうすればイエスさまが見えてくるんです。
 一か所、聖書を一緒に見たいと思います。ローマの信徒への手紙10章9節、10節をご覧ください(新288頁)。

*******************************************************************
 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
(ローマ10章9〜10節)
*******************************************************************
 ここに何と書いてありますか?「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」「人は心で信じて義とされる」そう書いてあります。

 ヨハネは20章30節、31節でこう言っています(新210頁)。
*******************************************************************
 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
(ヨハネ20章30〜31節)
*******************************************************************

 ヨハネは聖書を書いた理由を「あなたが信じるため」だと言っていますよね。でも、それが目的ではありません。ヨハネは、「あなたが信じて命を得るため」であると言うのです。春になって、何度が使う中で、この言葉好きだなぁって思うようになった言葉が「春の息吹」なんです。「息吹」という言葉いいですね。蘇りの力を感じます。
 春になると、それまで、枯れてしまったように見えていた木々、枯れてしまったかのように見えていた芝生(笑)、いなくなっていたかのように思えた生き物、それが一斉と言えば言い過ぎかも知れませんが、あたかも、一斉に、わ〜っと命が甦ったように芽吹くんです。神さまの内に秘められた力だなぁって感じます。神を信じるものは、春を待つ草木のようです。
 私においても、今は見えませんが、復活という甦る力がすでに隠れているのです。そう思うと嬉しくなってきます。

 最後になりますが、「見なくて信じれるのだろうか?」そのことをお話しして終わりたいと思います。
 「見なくて信じれるのだろうか・・・」どう思いますか?
 少し想像してみてください。私が皆さまに一つの箱をお渡しするとしますよね。それを振ると、カタカタと音がするんです。何か入っているなって思いますよね。そこで私が「その箱に入っているのはクッキーです。家に帰ってそれを頂いてください」と言えばどうでしょうか。皆さま、箱の中身はクッキーだなと思って家に帰られますよね。でも、見ました?見てないですよね。でも、クッキーだと思っている。何故でしょうか。私を信用してくださっているからではないでしょうか。見てないのにクッキーだと思う。見ていないのに嬉しくなる(クッキーが嫌いであれば別ですが)。私としても、そうやって、私を信じてくださっている事実が嬉しいんです。

 神様への愛もそのような信頼からくるのではないでしょうか。イエスさまの言葉を信頼すれば、その言葉は、見えなくても、事実であると感じるんです。そして、事実であると後に確認するんです。

 イエスさまはトマスに「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」とおっしゃいました。でも、よく読むと、そのイエスさまがトマスに「さあわたしの手をみなさい。わき腹の傷跡に手を入れなさい」と招いておられます。招いておいて、どうして、「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」とおっしゃるのでしょうか。

 恐らく、これから弟子たちは命がけで宣教するわけですので、色々と試練がやってくると思います。その時に、「心の目でいつも私を見るようにしなさい」そうすれば「わたしがいつもあなたと共にいるのがわかるよ」そういうメッセージではないかと私は思います。
 これは私達へのメッセージにもなっていると思います。「あなたが信じて命を得るために、わたしは人となって生まれました。あなたが信じて命を得るために、盲人の目を開き、多くの人にパンを与え、悪霊を追い払い、病を癒しました。あなたが信じて命を得るために、、十字架にかかり、死んで復活しました。あなたが信じて命を得るために、わたしの弟子たちには私のことを聖書に記しました。全てはあなたが信じて命を得るためです。わたしを心で受け止め、心の目でいつも私を見るようにしなさい。そうすれば、わたしがいつもあなたと共にいることがわかります」

 イエスさまをまず心に受け入れてください。そうすれば見えるようになります。