宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



ヨハネによる福音書 21章  1〜19節
 「わたしの羊を飼いなさい」

 おはようございます。
 神さまにできないことはない。聖書にはそう書いてあります。しかし、同じ意味で、できないことがあります。それは、例えば、嘘をつくことです。神さまは「正しい方」なので嘘をつくことができません。そして、神さまは、「愛の神」なので、人を愛さないということができないのです。

 私達の「愛」はどうでしょうか。私達の愛は不完全です。例えば、好きになった人から「愛していますか」と尋ねられればどう答えるでしょうか。誰でも「愛しています」って答えるでしょうね。キリスト教の結婚式であれば「どんな時でもあなたの妻(夫)を愛しますか」と牧師は尋ねます。新郎新婦は必ず「はい」と答えます。でも、多くの場合、一緒に過ごす期間が長くなれば、それだけ相手の嫌な部分が見えてきますし、愛も覚めるものです。
 それは、人間の愛は条件付きだからです。私達には「どんなことがあっても相手を愛し続ける」力がないのです。一方で聖書が教える愛とはどのようなものでしょうか。それは、変わらない愛です。ただし、この変わらない愛を持っているのは、神さまだけなのです。

 今日の聖書箇所では、イエスさまがペトロにこう三度尋ねておられます。

「わたしを愛しているか?」

 このイエスさまの言葉に対して、ペトロは、3度こう答えています。

「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」

 わたしは、この個所をお話しするたびにこのことをお伝えしているのですが、イエスさまがお使いになった「愛する」という言葉と、ペトロが使った「愛する」という言葉は、もともとの聖書(ギリシャ語の聖書)を見ますと違うのです。イエスさまがお使いになった「愛する」という言葉は、「アガパオー」という動詞です。一方で、ペトロが使った「愛する」という単語は「フィレオ―」という動詞です。
 恐らくこの福音書を書いたヨハネはここに、イエスさまの「愛しているか?」という問いかけに対して、ペトロの答えた「愛」が同じ意味ではなかったということを表現したかったのだと思います。イエスさまが求められたのは「変わらぬ愛(深い愛)」です。しかし、ペトロは「はい」と答えるだけの勇気がありませんでした。そこで、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたのです。これは、「あなたへの愛はあなたが一番よく分かってくださっていると思います。でも弱さゆえに完全ではないこともあなたは知ってくださっていると思います」ということをペトロは言っているのです。だから、「フィレオ―」という言葉が使われているんです。
 でも、どうして、

「あなたへの愛はあなたが一番よく分かってくださっていると思います。でも弱さゆえに完全ではないこともあなたは知ってくださっていると思います」という意味の言葉を使ったのでしょうか。

 それは、ペトロは、イエスさまが捕らえられた時、彼は殺されるのが恐ろしくて、三度、イエスさまのことを知らないと言ってしまったからです。

 イエスさまがご自身の十字架での死をお告げになったとき、弟子たちは動揺しました。しかし、ペトロは意気揚々と、「わたしはどんなことがあってもあなたから離れません。命を捨てる覚悟はあります」そのような勇ましい言葉を言ったんです。しかし、イエスさまは分かっておられたんですね。イエスさまは、ペトロに対して「いいえ、あなたは鶏が鳴くまでにあなたは三度、わたしのことを知らないと言います」と予告されたのでした。そして、実際にペトロはイエスさまが捕らえれて、イエスさまが尋問を受けている時、外で様子を見守っている時に、他の人から「あなた、イエスさまと一緒にいた弟子ね」と言われて「違う」と三度弟子であることを否定してしまったのでした。

 ペトロは、イエスさまのことを本当に先生(主)として従って行こうと思っていました。彼が否んだのは、従いたくなくなったからではなく、「ここであの人はわたしの先生ですと言えば、同じように捕まってしまい、下手をすると殺されてしまう」と思った時怖くなったんです。ここに人間としての弱さが出てしまったんですね。だから、イエスさまを否んでしまった。その経験があったからこそ、どうどうと「愛している」とは言えず、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という言葉になったのでした。

 ペトロは、イエスさまの弟子の中でも、一番弟子でした。その意味で、イエスさまはペトロを弟子の中心に据えようとお考えになっていたと思います。ペトロはもともとは漁師でした。しかし、ある時、イエスさまから「私に従って来なさい。人間を取る漁師にしよう」と声をかけられた時、彼はイエスさまに従う人になっていくんです。でも、漁師であったペトロにとって、魚を獲ることは簡単なことだったでしょう。しかし、人間を取る漁師になるためには一つ大きな体験をする必要があったのです。それは、自分に対する失望と、その自分を変わらず愛する神の包容力です。

 私は、ここ数週間、「愛」って何だろうと思いめぐらしていました。自分自身のことを考えても、若い頃に思っていた“愛”と、今になった感じる“愛”ってほんとうに違うなって思います。この前、知床で悲しい事故がありました。ニュースを見ていますと一人の男性が奥様に「今までありがとう」と最後、携帯電話で伝えたとありました。その方の思いと言いますか、湧き上がってきた思い分かるような気がします。なんか「今まで」という言葉がね、切なく伝わってくるんです。本当に愛するという感情、感謝という思い、色々なものが普段の人間的な壁を乗り越えて、わっとあふれ出て来たんだと思います。

 愛の感情って、神さまがくださった、恵みだと思います。それは、異性にだけでなく、親であったり、子であったり、友人で会ったり、人とに対しての、何だろう、言葉では表現できない、心を満たす感情なんですよね。これは、人生を通して、得ていくものだと私は思います。また、自分の命がもう限りないと思えるようになってきたときに、強くなってくるのだと思います。

 愛って、時に、大切な人を失った時、とても大きな悲しみとなって、心を覆ってしまいます。私が一番そのことを体験したのは、母親が亡くなった時でした。大切な方を失った方はここにもいらっしゃると思います。そういった喪失感、悲しみは、表現しがたく、心を覆ってしまいますよね。では、その心の状況を無くそうと思えばどうすればいいのでしょうか。それは、その人に対して元々持っていた愛する想いを神さまが消し去ってくださるしかないのです。ではどうでしょうか、愛する想いを消し去るのと、悲しみを受け入れるのとどちらか選びなさいと言えば、やはり、悲しみを受け入れる方を選ぶのではないでしょうか。愛するということは、本当に尊い人間と人間の繋がりであって、恵みなのです。

 愛しているからこそ、悲しみがあります、時に、何もしてあげれなかったという罪悪感にもなります。さらには、愛しているからこそ、怒りに変わることもあります。でもそれは、すべて、この世界を神さまがお造りになった時に、神さまが創造してくださったものであり、恵みなのです。
 私は、最近、時々ではありますが、周りが神さまの愛で満たされているなぁって感じるようになってきました。それは、やはり、年を重ねてきたからだと思います。

 さて、最後にイエスさまがペトロにおっしゃった言葉から見て終わりたいと思います。イエスさまはペトロに三度「愛しているか」とお尋ねになると共に、「わたしの羊(小羊)を飼いなさい(養いなさい)」とおっしゃっています。

 神さまは、聖書を通して、私たちへの愛(関わり)を、羊飼いと羊に喩えられました。そして、ペトロを羊飼いのような魂の牧者へとイエスさまは変えていかれたのです。そのために必要だったのが、ペトロ自身が不完全な信仰を知ることと、変わらぬ神の愛を知ることでした。
 ペトロは漁師であり、イエスさまから、「人間を獲る漁師にしよう」とおっしゃり「私についてきなさい」と命じられました。ペトロは、その言葉について従って行きました。人間を獲る漁師とは多くの人を集めていく人の姿に例えられるでしょう。でも、そこには自分の弱さ、また人への愛というものはあまり喩えられていません。ペトロは、人間を獲る漁師であり、かつ、魂しいの牧者となるためにイエスさまとの経験が必要だったのだと思います。特に、最後、イエスさまを三度知らないと言ってしまうという自分の弱さに気づくこと、そして、イエスさまの死と復活に出会うこと、そして、イエスさまとのこの三度目のやり取りが必要となっていたのだと思います。イエスさまは、ペトロを牧者にするために、まず、ペトロの魂の牧者となられたのでした。

 聖書に、イエスさまがおっしゃった、放蕩息子というたとえ話があります。その話に登場する息子も、やはり、偉そうに言って自分で生きていけると思ったけれども、やはり、お父さんに頼らないといけないと悟っています。その息子をお父さんは変わらぬ愛で待っていました。これはたとえ話ですが、この息子の心はこの出来事を通して大きく変わったと思います。神さまが私たちを愛するための条件はないのです。神さまの愛は、変わらぬ愛なのです。

 私達の人生はずっと、この神さまの変わらぬ愛で覆われています。