宗教法人 近畿福音ルーテル教会

 橿原ルーテル教会
 



ヨハネによる福音書 12章 1〜8節
 「肉の思い霊の思い」

■はじめに

 おはようございます。

 聖書の登場人物の中に、キレネ人(北アフリカの国リビアにあった古代ギリシャ都市)のシモンという人がいます。彼は、イエスさまが十字架を背負ってゴルゴダの丘を登って行かれる時、途中、イエスさまの代わりに十字架を運んだ人です。

 恐らく、シモンは単なる巡礼者だったのでしょう。そのシモンがいきなりローマ兵から、「お前担げ」と命じられ、イエスさまの十字架を代わりに担ぐことになったんです。シモンにとっては、「なんで俺が・・・」と思ったことでしょう。でも、彼は後に回心して、アンティオキアの教会の指導者の一人になるんです。そしてその息子も同じ指導者になります(使徒言行録13章1節:「新聖書辞典」より)。

 確かに突如、イエスさまの十字架を担ぐ人になったのですが、シモンはイエスさまの十字架を共に担うことができた唯一の人になったわけです。後に彼はこの出来事を光栄に思ったことでしょうね。

 今日、私たちは礼拝で与えられた聖書箇所としてヨハネによる福音書12章を見ているのですが、彼女もまた、歴史の中で、唯一、イエスさまのために特別な事をした人となったのでした。 

■今日の聖書

 今日の聖書箇所を見ていきたいと思います。ヨハネによる福音書12章をご覧ください(新191頁)

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 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

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●特別な安息日の夕食となった

 ヨハネはこの出来事を、過ぎ越し祭りの六日前の夕方であったと記しています。イエスさまが十字架で死なれた年の暦で考えると、その六日前の夕方というのは安息日に当たります。安息日というのは、労働をしてはいけない日です。手を休めて一日を聖別しなければならない日です。また、ユダヤ教の一日は夕方から始まるので、安息日の夕食というのは、私達でいう朝ごはんのように、聖なる一日が始まる最初の食事のような感じです。

 その食事の時にイエスさまは、ラザロ、マルタ、マリアの住む家を訪れ(シモンの家とも言われているが)、そこで、安息日の夕食を取られたのでした。安息日はユダヤ人にとっては毎週やってくるの恒例の聖日ですが、この日の食卓は、いつもとは違うとても特別な日になったに違いありません。なぜなら、その食卓にイエスさまがおられるからです(一度は死んだラザロを甦らせたイエスさまがいらっしゃるからです)。

 マルタはいつもと同じように給仕役でした(安息日に許される範囲)。一方で、マリアはこの時も最初はイエスさまの傍らでみんなと一緒にイエスさまの話を聴いたと思われす。恐らく当時の習慣から考えると、弟子たちや他の男性たちが食卓に着き、マリアは傍で聞いていたと思われます。

 

 先ほども言いましたが、ラザロは、一度は死にましたが、イエスさまの力によって蘇らされた人ですので、イエスさまがいて、ラザロがいる食卓というのは、安息日に相応しい神さまの栄光を感じる食卓になっていたに違いありません。

 ただ、イエスさまは、父なる神さまの御計画に従って歩まなければなりません。6日のちには捕らえれ十字架にかかって死ななければなりませんでした。ですので、イエスさまはこの時もご自身がメシアとして捕らえられ、殺され、そして、三日目に復活することを弟子たちや集まった人たちに、お話しされていたと思います。

 

●香油を注ぐマリア

 間近に迫ったメシアとして歩まれるイエスさまの話を聞いたからでしょうか、マリアは自分の持っている香油を持って来て、イエスさまの足にその香油を注ぎ、彼女の髪で、イエスさまの足を拭ったのでした。

 ナルドの香油というのはとても高価な香油です。弟子たちの言葉から推測すると彼女が持っていた香油の入った壺は一般の人の年収に値する金額でした。しかも、年収にあたる額なのに、その量はたった300g程度しかありません。どれだけ高価な香油であったのかがわかります。当時一般的には、このような高価な香油は、新婚の夜のために取っておくものであったそうです。そのような高価な香油をマリアはイエスさまのために、全部使ったのでした。その香油のため、「家は香油の香りでいっぱいに」なりました。

 

●マリアの情動

 マリアのこの行為には色々な意味が含まれていたのではないかと思います。ラザロという自分の兄弟を蘇らせてくださったイエスさまへの感謝の思いもあったでしょうし、女性としてイエスさまを慕っていたのかも知れません。また、「これからイエスさまが捕らえれ、十字架で死なれる」と、そのことを聞かされ、何ともいえない悲しさで一杯になったのかも知れません。

 霊的にイエスさまを雲の上の存在(遠く手の届かない位置に存在する人)のように感じていたマリアは、イエスさまのために自分ができる最善のことは何かと考え、取っておいた大切な香油を惜しみなく注ぎ、髪の毛で拭ったのでした。もちろん、どのような高価なものを捧げたとしても、思いを表しきることはできなかったと思います。

 しかし、イエスさまは彼女がした行為を称賛されたのでした。今日はヨハネによる福音書を見ていますが、マタイによる福音書にはもう少し、イエスさまの言葉が記されていまして、イエスさまはこう言っておられます。

 

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 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マタイによる福音書26章12・13節)

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 イエスさまが十字架から降ろされた時、日が暮れ安息日が始まろうとしていました。ですので、イエスさまのご遺体の処理は本当に簡単なもので済まされ、香油を塗ることもできませんでした。聖書を見ますと、実際に安息日が終り、日が昇ってから、香油を持って墓に向かった女性の姿がえがかれています。つまり、イエスさまの埋葬のために香油を塗ることができたのは、歴史上、このマリアだけだったのでした。

■今日の視点

●霊的な目をいただく

 今日、説教の題を「肉の思いと霊の思い」とさせて頂きました。神さまは御言葉を通して私たちの目を開かれます。それは、霊的な目を開き、見えない神の国を見えるようにするためです。肉の目と、霊の目は、同じものを見ていても全然違って見えます。また、違って見えると、私達の思いも変わってくるのです。

 マリアは、イエスさまと共に食事をし、イエスさまの話しを聴いたときに、彼女は霊的な思いで行動することができました。彼女は、自分がイエスさまに対してできる最善の方法は何かと考え、自分の持っていた香油を注ぐことでその思いを示しまいた。イエスさまはその行為を称賛されました。

●肉的な目(悪魔に支配されたユダ)

 一方で他の人たちはどうだったでしょうか。まず、ユダはこう言っています。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と。いい事したなと褒めるのでなはなく、この世的な価値観、つまり、肉の思いで語っています。他の福音書を見ますと、実は、他の弟子たちもユダの口車に載せられ「そうだそうだ」と言っています。他の弟子たちもまた、イエスさまの話しを聞いてもメシアであるイエスさまのことを理解できず、また、このマリアの行為を見た時も、霊的ではなく、肉的(この世的)にしか見れなかったのでした。

 さらに言えば、ユダのこの言葉は、見方を変えれば、「イエスさまに対してそのようなことをする必要はない」と言っているようにさえ聞こえるのです。

 実際、彼は、イエスさまを銀貨30枚で売る約束をするんです。銀貨30枚というのは当時奴隷の値段なんです。彼は、300デナリ、300gをもったいないと言うだけでなく、イエスさまを銀貨30枚で売り渡すという値踏み迄してしまうのでした。

 可愛そうなことですが、ユダは悪魔に心を支配されていて、どんどん、彼自身、惨めになっていくのでした。

 

●命と祝福

 ローマの信徒への手紙8章6節でパウロはこう言っています。

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 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。

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 これは、肉の思いに生きる人は行き着くところ「死」であり、霊の思いに生きる人は行き着くところ「命」であり、神が与えてくださる祝福に至るという意味です。 

 マザーテレサの言葉(と言われている)に次のような言葉があります。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 
 肉体の体に対して「体操」があるように、霊的に生きる私達には「霊操」が必要です。それは、祈りを通して神さまと深い人格的交わりを持つ訓練です。

 

●聖餐式に向けて

 今日の聖書箇所は、安息日の食事の時の話しであると最初に申しました。敬虔なユダヤ人は今でも安息日を大事に守っているそうです(安息日の食事も大事にしているようです)。私は、始め、このような特別な日が毎週あるってしんどいだろうなと思ってました。特別な夕食が毎週あることも大変だろうなと思っていました。しかし、そうやって、モーセの時代からユダヤ人の人たちはずっとこうして「霊操」してきたんだなぁと思いました。こうした安息日の過ごし方が霊的な目を養う、霊的な思考を養うことになっていたのだと思いました。

 でも、よく考えたら、私たちも、毎週、日曜日を特に聖別して、教会に集い、イエスさまの言葉を聴き、聖餐式を通して食事をしているんですよね(聖餐式は隔週ですが)。一般的な人(肉的な目で見ている人)にとっては、「もっと、したいことあるはずなのに、良くやってられるね」って思われても仕方のない事。また、「毎週しなければならないって大変じゃない?」って思われても仕方のない事なんですよね。 

 でも、毎週、礼拝を大事にし、そして霊的な糧を頂き続けるというのは、霊的な目を持つこと、養う事、そして、霊的な思いで、周りを見ること、判断することができるようになるためにとても大事なことなんですね。

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 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。

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 霊的な目を養い、霊的な思いを持って物事を理解する。それは、神さまが与えようとされている祝福の管になる。そのことを今日覚えて欲しいと思います。